先般、香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)素案(以下「条例素案」という。)について、パブコメが実施されていたようである。将来リンク切れになるかもしれないが、香川県のウェブページは以下のとおり。
香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)素案についてパブリック・コメント(意見公募)を実施します[外部リンク:香川県ウェブサイト]
条例素案は、珍しくも巷間の関心を喚起した。 ニュースとしては「こどものネット・ゲームの利用時間は60分まで」という旨を定めたことが前面に扱われている。 これに対する人々の反応としては「たしかにネット依存症対策は必要だ。しかし、家庭内のことにまで政治が介入するのは変だ。それに60分といった数字の根拠は乏しい。だからこの部分は撤回するべきだ。」という4観点でほぼ包摂できるように見受けられる。
本件については、人々の反応の方が妥当だと思う。条例素案は、確かにセンスが悪い。
やや大きな観点からの話をすると、一般に、行政には無謬性が要求される。無謬性は一貫性によって担保される。一貫性は施策の体系性によって担保される。施策の体系性は目的・趣旨によって担保される。 上記の関係を逆から辿ると、目的・趣旨ごとに施策の体系性が必要であることを言っている。このことは、目的・趣旨が異なるものは同一の施策の体系に入れるべきではないことを意味している。(ちなみに、私見では、行政が縦割りになっている理由の一つはここにあると思っている。)
それは何故なのかを念のため確認しておくと、目的・趣旨は最終的には判断の拠り所になるからである。複数の目的・趣旨が同一の施策の体系内で同居すると、施策の運用時に、事例ごとに依拠する目的・趣旨が変わりうる。 つまり判断がブレる。ブレるということは一貫性がないということである。このような場合、行政としては舌を噛むことになり、期待されるところの無謬性を損ねるのである。
よって、「目的・趣旨が異なるものは同一の施策の体系に入れるべきではない。」という目で施策をチェックすることは、行政的には本質的である。 このような目で見ると、条例素案で特に問題視された「こどものネット・ゲームの利用時間は60分まで」という旨は、施策の作り方としてセンスが悪い。 (他にもいろんな規定が目について仕方がないが、ここでは論旨外れになるので取り上げない。)
条例素案の目的・趣旨はそのタイトルが示すように、ネット・ゲーム依存症対策にある。これは、条例素案第1条に定める目的からも明らかであるが、以下のとおり抜粋しておく。
『第1条 この条例は、ネット・ゲーム依存症対策の推進について、基本理念を定め、及び県、学校等、保護者等の責務等を明らかにするとともに、 ネット・ゲーム依存症対策に関する施策の基本となる事項を定めることにより、ネット・ゲーム依存症対策を総合的かつ計画的に推進し、 もって次代を担う子どもたちの健やかな成長と、県民が健全に暮らせる社会の実現に寄与することを目的とする。』
他方、「こどものネット・ゲームの利用時間は60分まで」という旨(正確には条例素案第18条第2項の規定)は、学業成績の低下への懸念の観点から設定されている。 詳細は「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例(仮称)(素案)」について[外部リンク:香川県ウェブサイト]の香川県の公式回答のとおりだが、 以下のとおり抜粋しておく。
『「平日は60分まで」などの利用時間については、平成元年11月に国立病院機構久里浜医療センターから公表された全国調査結果において、平日のゲームの使用時間が1時間を超えると学業成績の低下が顕著になることや、 香川県教育委員会が実施した平成30年度香川県学習状況調査において、スマートフォンなどの使用時間が1時間を超えると、使用時間が長い児童生徒ほど平均正答率が低い傾向にあるという結果などを参考に、基準として規定されたものであると聞いています。』
このように、同一政策体系の中に、異なる目的・趣旨のものが同居している。それは先に確認したとおり、行政的には褒められるものではない。
条例で具体的な数値を示すことには依然として是非があると思うが、もし第18条第2項でこどものコンピュータゲームの利用時間やスマートフォン等の使用時間の上限値を示すのであれば、ネット・ゲーム依存症になる蓋然性の観点から検討されたものを採用すべきだったと言える。 そうすれば、香川県はこの点について積極的に情報発信ができ、人々を説得できたはずだし、それを聞いた人々も「まあ、その数字の意義についてはわからんでもない。」と少なくとも理解はできたはずなのである。 「(国立病院機構久里浜医療センターの調査や平成30年度香川県学習状況調査の)結果などを参考に」という説得力の低い言葉でお茶を濁しているように、香川県はまさにこの点で舌を噛んだのである。
また、舌を噛むという点で言えば、次の例も興味深い。毎日新聞(2020/2/15)のネット記事(「ゲームは1日60分」香川県議会が全国初の規制条例制定へ 反発も相次ぐ)によると、 『検討委の委員長を務める大山一郎県議は「家庭や学校で取り組む対策に統一性を持たせ、一定の強制力も担保するには具体的な規定が必要」と主張し、「使用時間はあくまで基準として示した」と理解を求める。』とある。 当該委員長は「あくまで基準」という表現で、あたかも60分に限らないというニュアンスを出しているが、「基準」というのは通常満たされている必要があるものである。 人々は当該委員長のメッセージを60分超のこととして受け取るかもしれないが、行政的には60分未満を推奨しているという理解になる。 字義通りの理解だと、当該委員長は「60分に限らず、家庭では60分未満で設定して頂いても結構であり、その点に理解を求める。」と老獪にも発言しているわけであって、これをすれ違い答弁というのである。 何故すれ違い答弁をするのかと言えば、正面切って戦うと、舌を噛むことをよく認識しているからである。(なお、人々の関心に沿った形で答弁するなら「あくまで目安」と表現する方が適切だろう。)
以上は単なる分析に過ぎないから、一応、建設的な話もしておく。自分が香川県の県議会議員であり、条例素案の策定に関わっていたと仮定したなら、以下の1から3の提案をしたことだろう。
1 先に確認した通り、条例素案のコンピュータゲームの利用時間やスマートフォン等の使用時間の上限値を定めた第18条第2項は、第1条の目的に鑑みて不適切であることから、削除する。
2 他方、ネット・ゲーム依存症対策は重要であり、総合的な施策の推進の観点からは、保護者にも一定の役割を求めることは合理的である。 よって、こどもにスマートフォン等を使用させるに当たって、使用に関するルールづくり等をすることを保護者に喚起する第18条第1項は維持する。
3 第18条第1項の実効性を高めるためには、家庭内での自主的なルール作りに役立つ情報が必要である。よって、学校等の責務として規定される第5条第2項に基づき、必要な情報提供を進めることとする。 なお、ネット・ゲーム依存症対策の観点とは異なるものの、家庭内での自主的なルール作りのための参考として、スマートフォンなどの使用時間が1時間を超えると学業成績の低下への懸念があることも情報提供する。
とは言え、以上の提案は仮定の話であって、私は県議会議員でも何でもないので、現実的には全く意味を為さない(笑)。 検討委の委員長の発言からは、第18条第2項は維持された状態で、条例は粛々と制定されるのだろう。
制定された後の、実践的な話をしておくと、実は第18条第2項は『子どものネット・ゲーム依存症につながるようなコンピュータゲームの利用に当たっては、1日当たりの利用時間が60 分まで(以下略)』と規定している。 だから「ネット・ゲーム依存症につながるようなものではありません。」と言ってしまえば、概念的にはこの規定は適用されない。 よって、何がネットゲーム依存症につながるようなスマートフォン等使用であるのかも含めて家庭内で考え、自主的なルールを適切に決めたらよろしかろう。
(目的)
第1条 この条例は、ネット・ゲーム依存症対策の推進について、基本理念を定め、及び県、学校等、保護者等の責務等を明らかにするとともに、
ネット・ゲーム依存症対策に関する施策の基本となる事項を定めることにより、
ネット・ゲーム依存症対策を総合的かつ計画的に推進し、
もって次代を担う子どもたちの健やかな成長と、県民が健全に暮らせる社会の実現に寄与することを目的とする。
(学校等の責務)
第5条 略
2 学校等は、ネット・ゲームの適正な利用についての各家庭におけるルールづくりの必要性に対する理解が深まるよう、子どもへの指導及び保護者への啓発を行うものとする。
3 略
(子どものスマートフォン使用等の制限)
第18 条 保護者は、子どもにスマートフォン等を使用させるに当たっては、子どもの年齢、各家庭の実情等を考慮の上、その使用に伴う危険性及び過度の使用による弊害等について、
子どもと話し合い、使用に関するルールづくり及びその見直しを行うものとする。
2 保護者は、前項の場合においては、子どもが睡眠時間を確保し、規則正しい生活習慣を身に付けられるよう、
子どものネット・ゲーム依存症につながるようなコンピュータゲームの利用に当たっては、
1日当たりの利用時間が60 分まで(学校等の休業日にあっては、90 分まで)の時間を上限とすること及びスマートフォン等の使用に当たっては、
義務教育修了前の子どもについては午後9時までに、それ以外の子どもについては午後10 時までに使用をやめることを基準とするとともに、前項のルールを遵守させるよう努めなければならない。
3 保護者は、子どもがネット・ゲーム依存症に陥る危険性があると感じた場合には、速やかに、学校等及びネット・ゲーム依存症対策に関連する業務に従事する者等に相談し、
子どもがネット・ゲーム依存症にならないよう努めなければならない。
人間の判断・行為の規則性について観察すると、類型的に言えば、「理念に従おうとする者」と「人に従おうとする者」の存在を確認できる。
このように類型化された人間が、自由交渉する状態を想定すると、そこには一つの論理的な必然が成立する。 即ち、「人に従おうとする者」は相対的に権威のある「人に従おうとする者」に従おうとする。 これら「人に従おうとする者」は「理念に従おうとする者」に従おうとする。 「理念に従おうとする者」は「理念に従おうとする者」と「人に従おうとする者」のいずれにも従おうとしない。
ゆえに、このように類型化された人間を構成員とする成立する社会は、必然的に階層社会となる。 これは論理的帰結であるから、抗することはできない。あたかも物理法則に基づき記述される物体運動のように、「自然」である。 この社会が構成員の法的権利を平等に規定するか否かを問わず、構成員の振る舞いはもとより不平等を指向する。 その意味で、各構成員の法益は平等に取り扱われ得ても、各構成員の意思は平等に取り扱われない。というより、構成員の意思を平等に取り扱うこと自体が期待されない。
そこで次の疑問が生じる。構成員の意思が平等に取り扱われる理想的な社会は想定し得るか。 検討にあたり、類型化された人間全員が規程上平等となる場合を考える。即ち、全員が「理念に従おうとする者」である場合、全員が「人に従おうとする者」の場合である。
まず、後者の場合、「人に従おうとする者」は相対的に権威のある「人に従おうとする者」に従おうとする。 故に、相対的に権威のある「人に従おうとする者」の意思が無条件に採用される。その意味で、構成員の意思は平等に取り扱われない。
では、前者の場合はどうか。「理念に従おうとする者」は「理念に従おうとする者」に従おうとしない。故に両者の意思のいずれかを無条件に採用することができない。 その意味で、構成員の意思は、第一義的に平等に取り扱われる。
「第一義的に」としたのは、そのままでは社会的な意思決定ができないからである。 実際のところ、社会的な意思決定に際しては、意思決定を要する事案をとりまく諸条件下では、競合する理念群の中に、優先されるべき理念が存在する。 このような場合は、優先されるべき理念に従おうとする者の意思が採用されるべきである。 しかし、優先されるべき理念はあらかじめ明らかではない。構成員が、競合する理念群のうち、目的に合致しており、諸条件に整合するものを論理的に特定する必要がある。 その検討の初期作業において、構成員の意思は平等に検討されるべきであるから、社会的な意思決定のプロセス全体で見た時には、そのプロセスが適切なものである限り、構成員の意思が平等に取り扱われた痕跡が残ることになる。
以上より、「構成員の意思が平等に取り扱われる理想的な社会は想定し得るか。」の問いに対しては、イエスと結論できる。その社会では構成員の全員が「理念に従おうとする者」であることが要求される。
この要求を満たせるかは自明ではない。だが、一つ言える事がある。君は「理念に従おうとする者」と「人に従おうとする者」のどちらでありたいと「欲する」のか? 君が後者であることを欲するのであれば、嬉々として奴隷となるがいい。奴隷になるのが嫌ならば、前者であることを欲するべきである。
京都大学の学生団体・サークル等が屋外に設置してきた立て看板(以下「タテカン」という。)について、京都市は京都大学に対して「京都市屋外広告物等に関する条例(昭和31年11月1日条例第28号:以下「条例」という。)に違反すると指摘(2017年10月)。京都大学は、設置要件に適合したタテカンに限り設置を認める旨の学内規程を策定し、これを適用(2018年5月1日)。京都大学の教職員、学生の一部が反発を強めている。
「タテカンは京大の文化」としばしば言われる。だが、その文脈における「京大の文化」とは何であるか。この問いに正面から答えないならば、タテカン規制の反対論旨の究極的な根拠として「京大の文化」は有効に機能しない。 しかしながら、私の理解では「京大の文化」とはラッキョウの皮である。つまり、内容空疎の概念である。こんなことを言うと京大生は怒るかもしれないが、京大生の真の欲求―それが自覚的であれ無自覚的であれ―を私なりに代弁すると、京大生は頭ごなしにダメと言われたら、それが何であれ反発したいのである。 今回はタテカンがダメと言われた。だから「タテカンは京大の文化」と言って反発したのである。では、折田先生像がダメと言われたら?「折田先生像は京大の文化」と言って反発するだろう。自主休講がダメと言われたら?以下同様である。
京大生が守りたいのは「京大の文化」ではない。社会的不適合を招く水準にある尊大なる自尊心である。そして、それでこそ正しく京大生である。
私が京大生に対してヘタクソだなと思うのは、その尊大なる自尊心を文化的なタームに載せてロマンティックに開陳すれば、言い分が通ると素朴に思っているところである。 条例違反に対して「京大の文化だ、表現の自由を守れ」と言って対抗するのは、間違いなく徒労に終わる。条例は、タテカンを設置したいなら市の許可を得る必要がありますよと言っているに過ぎないからである。 どうせ尊大なる自尊心を賭けて戦うなら、相手のルールを使って、自分の言い分を通すべきである。つまり、条例を使って、これまでと同様にタテカンを設置する方法を考えるべきである。技術的に可能か検討してみよう。
条例は、第9条第1項において、「屋外広告物規制区域において屋外広告物を表示し、又は掲出物件を設置しようとする者は、市長の許可を受けなければならない。」ことを定めている。 京都大学の学生団体・サークル等がタテカンを設置する場所は主に車道沿線にある壁面である。これは「第2種地域」又は「沿道型2種地域」であり、条例上の「屋外広告物規制区域」である。 したがって、市長の許可を受けずに設置されたタテカンは条例に違反する。これが京都市の言い分である。
しかしながら、第9条第1項には但し書があり、「次の各号に掲げる屋外広告物及び掲出物件については、この限りではない。」として、市長の許可を受けることなく表示できる屋外広告物、又は設置できる掲出物件を例外的に定めている。 例外規定の詳細は「参考」に整理したが、タテカンに対して適用可能性があるのは、次の2つである。
1 工事、祭礼又は慣例的行事のために表示する屋外広告物で、表示する期間をその物に明記するもの(当該期間内にあるものに限る。)
2 団体(営利を目的とするものを除く。)又は個人が政治活動、労働組合活動、人権擁護活動、宗教活動その他の活動(営利を目的とするものを除く。)のために表示する屋外広告物で、第11条第1項各号(第6号を除く。)に掲げる基準に適合しているもの
学生団体・サークルの慣例的行事(新歓コンパや定例発表会)の広告は、1に相当するものだと言い張ることができる。もちろん、条例の定めに従い、表示する期間を明記してその期間が終了したらタテカンを撤去しなければならない。 条例への適合に対して余念なきよう、それが慣例的行事であることを明らかにするため、何回目であるのかも明記すべきである。 特に、歴史の浅い学生団体・サークルの場合は、「歓迎祭」とか「発表祭」などと表記し、それを祭礼に位置づけるのも一考(というより一興)である。合わせ技で、神社、縁起、御神体を自らこしらえてワッショイすると愉しかろう。
学生団体・サークルの活動の広告は2だと言い張ることができる。これは非営利団体の非営利活動にのみ適用可能である。 また、市長の許可手続きを経る必要はないが、タテカン自体は条例が定める許可基準に適っていなければならない。そこで、許可基準への適合を前提に、適合している旨の宣言をタテカンに抜かりなく明記するとよい。
このように、条例の定めに従い、市長の許可を経ることなくタテカンを設置することは、技術的には可能だと考える。
京都市からの指導を受け、京都大学は「京都大学立看板規程(平成29年12月19日達示第69号)」なる学内規程を策定した。 厳密なことを言うと、京都大学構内ですら条例上の「屋外広告物規制区域」(第2種地域)であり、タテカンを設置するためには市長の許可が必要なはずである。 しかし、この学内規程はタテカン設置にあたり市長の許可を要件としていない。ということは、京都大学はタテカンを、条例第9条第1項但し書のいずれかのケースとして解釈したということでなければならない。 そうすると、私が上で検討したように、「市長の許可は要らないけれども、ちゃんと条例の定めや許可基準に適合するタテカンを設置してね。」という水準の規程ができて然るべきである。
だが、京都大学が策定した学内規程は、二重の意味で条例に適合していない。 一つには、条例よりも厳しい要件を学生団体・サークル等に課している。タテカンを設置できるのは原則として大学が承認した団体であり、しかも同一の団体が同時に設置できるタテカンは1枚までというのは、条例上どこにも定めがない。 もう一つには、条例よりも緩い要件でタテカンを設置してよいとしている。条例上、「第2種地域」の立て看板は1面あたり2平方メートル以内であることが定められているが、学内規程上は4平方メートル以内である。 京都大学のコンプライアンス意識は何処に向いているのか謎である。
一貫性の無さには問題があるが、条例よりも厳しい要件を課すこと自体は悪いオプションではない。 しかし、その場合は必ず、「条例の定めや許可基準に適合しているものについてはこの限りではない」という例外規定を設けなければならない。 自ら条例を参照できるものに対してはそれを尊重すべきであり、参照できない者に対しては安全マージンをとって条例より厳しい要件を課すべきなのである。
例えば、条例に従い、タテカンの設置について市長の許可を得る者がいるとしたら、それは学内規程の適用外であるべきである。また、条例に従い、市長の許可が不要な事例として、条例の定めや許可基準に適合したタテカンを設置する者がいるとしたら、それも学内規程の適用外であるべきである。
現行の学内規程はそのような立てつけにすらなっていない。二重の意味で条例に適合していない欠陥品を絶対に順守せよと、学生団体・サークル等に強弁しているわけである。 酷い話である。タテカンを全く野放しにしろとは言うつもりはないが、やるならもっとまともな学内規程をつくったほうがいい。
(1) 第6条第2項第1号から第3号までに掲げる屋外広告物
***第6条第2項***
(1)法定屋外広告物
(2)国若しくは地方公共団体の機関又は別に定める公共的団体が公共の目的のために表示する屋外広告物及び国又は地方公共団体の機関の指導に基づき表示する屋外広告物でその表示の公益性が高いもののうち市長が指定するもの
(3)工事、祭礼又は慣例的行事のために表示する屋外広告物で、表示する期間をその物に明記するもの(当該期間内にあるものに限る。)
**************
(2) 次に掲げる基準に適合している管理用屋外広告物
ア 面積が0.3平方メートル以下であること。
イ 区画内において表示する管理用屋外広告物にあっては、当該区画内に存する管理用屋外広告物(歴史的意匠屋外広告物又は優良意匠屋外広告物であるものを除く。)の面積の合計が2平方メートルを超えないこと。
(3) 区画内において表示する自家用屋外広告物(次号に掲げる自家用屋外広告物を除く。)で、当該区画内に存する自家用屋外広告物(次号に掲げる自家用屋外広告又は歴史的意匠屋外広告物若しくは優良意匠屋外広告物であるものを除く。)の面積の合計が2平方メートルを超えないもの
(4) ポスター、のぼりその他の自家用屋外広告物で別に定めるもの
(5) 団体(営利を目的とするものを除く。)又は個人が政治活動、労働組合活動、人権擁護活動、宗教活動その他の活動(営利を目的とするものを除く。)のために表示する屋外広告物で、第11条第1項各号(第6号を除く。)に掲げる基準に適合しているもの
財務次官が女性記者に所謂「セクハラ」発言をした疑義がある中、次官は「セクハラ」を否認しつつも職務遂行上の困難を理由に次官職を辞し、財務省は否認の論拠の無きことを以て是を「セクハラ」と位置付け、元次官を懲戒処分した。
元次官の「セクハラ」発言が事実であれば、女性記者は大変気分を害したことと思う。誰だって、嫌なことはされたくない。それは人倫の理である。
しかし、法的客観性の観点から言えば、現時点では「セクハラ疑惑」の水準に留まっている。 誤解なきよう繰り返すが、法的客観性という観点から言えば、元次官が「セクハラ」を否認しつづけることに論拠がないのと同様、女性記者が次官の同意を得ることなく無断で録音した音声には客観的な証拠能力がない。 財務省が「セクハラ」と位置付け元次官を懲戒処分したが、厳密に言えばこれは、一連の騒動の社会的影響の重さを鑑み「セクハラ」発言の疑義があること自体が、国家公務員の信用失墜行為の要件の範疇内と解すべきとの論拠に立脚せざるを得ない。 法は何人の下においても平等に適用されなければならない。それが法治国家の一般原理なのであって、客観的証拠に基づく事実認定に基づかず、財務省が「セクハラ」と位置付けて懲戒処分したことは、元次官の法益を損ねていることにも目を向けた方がいい。 時期は異なるものの、財務大臣が「次官には人権がないのか」と発言したことは、今となっては厳密な意味で正しい。
そして、賢明なる判断能力を有する方々が既に指摘したことと同旨だが、女性記者の雇用主である報道機関が当該女性記者の訴えを聞き流したことは、もっと批判の俎上に上っていい。
女性記者が元次官から不適切な発言を受けていたことを認識しておきながら、当該報道機関は組織的な対応をとらなかった。 当該報道機関は、女性記者への二次被害が生じる懸念からその訴えを報道できないと判断したようだが、報道する/しない以前に、女性記者を守る方法は様々にあったはずだ。 (組織として財務省に文書で抗議する、財務次官の担当記者を代える、財務次官への取材の際は複数人で対応する等。)
組織的対応の不作為について、当該報道機関は反省の意を示した。つまり当該報道機関は、取材・報道活動にあたり、「セクハラ」対応よりも優先順位が高いものがあったことを、公然と認めたということである。 その優先順位付けは、「セクハラ」を事実上黙認するという判断の審級として、意識的か非意識的かを問わず、組織内で機能していたということである。 今回クローズアップされた女性記者の事例は、当該報道機関においては氷山の一角に過ぎないことが自然と推論されよう。
この報道機関に、元次官の「セクハラ疑惑」を批判する資格はあるのか。宗教者のような物言いをすると「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの男に石を投げつけるがよい」である。現時点で、当該報道機関にその資格はない。 今般の事例に関して言えば、当該報道機関に期待される正しい振る舞いは、ただ自らの行いを恥じ入ることだけである。 だが、この報道機関は恥じ入ることを知らなかった。自らの不浄を人になすりつけて自らを浄化しようとするかのごとく、元次官を精力的に批判し続けた。 「どこまで自分が可愛いんだ!この報道機関は!」と私が絶叫したのは言うまでもない。
さて、今般の事例に限らず、最近処処に聞く「セクハラ」である。そして、大体の場合、これは「女性の権利」の擁護の言説とセットになっている。
確かに権利の擁護は重要である。しかし、「女性の」とか「男性の」といった接頭語を「権利」という用語に付加することは、私の理解によると蛇足であり、場合によっては新たなる社会的分断を引き起こす元凶にすらなり得る。
「セクハラ」という用語は、純粋に公平な立場から言えば、「女性/男性が嫌がるようなことをするな」という規範を導く。 この規範を普遍的に妥当するよう適用するならば、「女性/男性とはこのような者であり、このような行為を嫌う。」ということを社会的に規定しなければならない。 だがそれは、旧来の性別役割分業観とは別の位相で、「女性」と「男性」に係る固定観念を社会に定着させようとする試みであることには、注意してもしすぎることはない。 「セクハラ」と言い続けることによって、「女性」と「男性」はいっそう社会的に分断されていく。現状、「セクハラ」という用語を多言するのは女性だが、将来的には男性が「セクハラ」という用語を多言するようになる。これは論理的な必然である。 そして、「君は女性/男性なんだから、これは嫌いだよね?」という気の利いた言葉は、「お前に私の何がわかる!」という叛意を潜在的に呼び起こす。それは、「女性/男性」という社会的言説と、まさにそこにいるその人、個人をも分断するのである。
「女性/男性」という範疇(カテゴリー)の中に個人があるのではなく、個人の属性(プロパティ)として女性的な要素と男性的な要素がある。尊重されるべきは「女性」でも「男性」でもなく、その人、個人である。 故に私は、志向すべきは「セクハラ」を糾弾して「セクハラのない社会」をつくることではなく、「セクハラ」という用語を使わず迷惑行為のない社会をつくることだと考える。次のように、「女性/男性」を用いない定式化は可能なのだから。
「個人Aが個人Bに対して為す行為について、個人Bが個人Aに対して心理的な嫌悪を明示的に表出している場合、個人Aが個人Bに当該行為を継続・反復的に為すことは、原則的に正当化できない。」
2017年8月3日に「仕事人内閣」が発足して、2ヶ月弱。同年9月25日に当該内閣の代表者が衆議院解散の意向を示した。「仕事人」として起用された政務は、負のイメージがまとわりついた当該内閣の代表者の禊という仕事を担った他、然程仕事をすることがなかった。
衆議院解散の意向を示すにあたり、当該内閣の代表者は、それを言わなければいいのにと思われる自賛の口上を述べ、その解散の意義を、消費税の使途の見直し及び北朝鮮への圧力強化について、国民の信を問うものだと壮語した。 そして、今回の選挙は厳しい選挙だとし、与党で過半数を占めること勝敗ラインとする、覚悟を示すにしては半端で打算に満ちた目標を掲げ、国難に立ち向かうリーダーを演出した。
このあさっての方向を向いている感じに対しては、流石リーダーと驚嘆せざるを得ない。
消費税の使途について国民を二分する議論が進行しており、その対立が激化して収集がつかない状況だと言うのなら、衆議院を解散して国民の信を問う行為に理解を示すことはできる。 だが、そんな状況にはない。ほとんどの国民は、この大義めいた言葉を唐突なものだと受け取り、「消費税の使い道の見直し?それよりも消費税率を低くする方向で見直して呉れ」と思っている筈である。
また、自明なことに信を問うのはナンセンスである。空腹時にご飯を食べることの信を問うのと同じくらい、北朝鮮への圧力強化への信を問うことの意義は要領を得ない。 また、金を手に入れたら名誉が欲しくなるという、経営者にありがちな傾向を突き進んだ某国の大統領(然としたお山の大将)が、2017年9月の国連総会で「北朝鮮を灰燼に帰す(totally destroy North Korea)」と挑発した直後に、強いて日本国内で政治的空白をつくることの意味が理解できない。 この常識的な批判を見越してか、この内閣の代表者は「民主主義の原点である選挙が、北朝鮮の脅かしで左右されてはならず、むしろ私は、こういう時期にこそ選挙を行うことで、北朝鮮問題への対応について国民に問いたい。」と述べたようだが、自己弁護・詭弁も甚だしく、聞くに堪えないのは言うまでもない。
私の理解では、この時期解散をするなら、それを(無理やりにでも)基礎づけられる大義は一つしかない。「北朝鮮対応に係る憲法改正」である。ロジックを組むなら次のとおり。
何かが起こってからは熱しやすいが、何も起こっていない時には変化を厭う日本人の国民性を考慮すると、この大義を掲げた場合、勝算があるとは必ずしも言えない。目下、賛成3~4割、反対6~7割だろう。 だが、それでもやるというのであれば、その想いは純粋であり、政治の第一線にいる者としての政策的必然と覚悟を証示する。どこかの内閣の代表者のように、勝算があると思って解散に踏み切るのは、打算であって覚悟ではない。「厳しい選挙」と言って自分に酔うのも大概にした方がいい。
だが、国難を演出して自分に酔いしれる男優が微笑ましく思える程、香ばしさを通り越して異臭騒ぎを引き起こしているのは、日本の首都の女優である。
男優が衆議院解散の意向を表明した同日、この女優はあらかじめ2017年2月に商標出願しておいた「希望の党®」を立ち上げ、代表に就任することを表明。 「改革保守」という、対立物が結合した「絶対矛盾的自己同一」も驚嘆な哲学的概念を創出し、「組織として1+1ではなく、むしろ化学変化を起こしたい。個人でそれぞれ乗れる人が参加してもらえばよく、いろんな方を立てて、勝っていける環境作りをしたい」と見栄えを整えて、この商品が烏合の衆であることをアピール。 その他、都知事(然とした女優)としての仕事ぶりを見る限り、「どの面下げてどの口がそれを言う?」との疑問を禁じ得ない、「しがらみのない政治」、「情報公開の徹底」を「基本的な政策(ママ)」として商品のパッケージにラベルした。
この女優に対してお追従の言葉を繰り返す単なる装置でしかない都民ファーストの議員を見る限り、「しがらみのない政治(笑)」と一笑に付するより他ない。 卸売市場の豊洲移転の課題に対しては、財源・運営費について公開性のある審議会に諮問せず、検討過程を記録せず、したがってそれらを公開できるはずもなく、「AI、人工知能、つまり私が決めた」として「築地は守る、豊洲は活かす」方針を掲げたのを見る限り、「情報公開の徹底(呆)」とかぶりを振るより他ない。 それでも「しがらみのない政治」、「情報公開の徹底」と言ってしまえるのだから、おそらくこの女優には日本語が根本的に通じない。どうでもいいが、「しがらみのない政治」、「情報公開の徹底」は「基本的な政策」ではなく、政治理念と政策方針である。
品質に問題があることが明晰かつ判明な商品を、自分のブランドとして出せば売れると考えているあたり、現代日本における製品製造の規範意識・品質管理の常識から考えて時代錯誤である。 商品を購入した人のことは眼中になく、眼中にあるのは自分のブランド力の証明に過ぎない。自分を演出したいなら、その一座を率いて市民ホール等で人畜無害に演劇をしてくれた方が、人心の安寧に寄与するところが少なからずあり有益である。 政治の舞台で、自分がちやほやされたいがための演劇をするのは、衆生有害かつ醜悪至上である故、御引き取り願いたい。自分がより大きな世界から賛辞を受けることを目的に動く、根本的に自己評価の低い人間に政(まつりごと)は務まらない。
そして、国難を演出する男優と自分を演出する女優が織りなす観客不在の舞台に、職業安定を求める俳優たちが配役を求めて右往左往する様には、目も当てられない。 せめて烏合の衆の先輩として先輩然としてくれればよいものの、後発の烏合の衆にその座をさっさと明け渡そうというのだから、理念も矜持も覚悟もない。 新興の競合他社に不戦敗ののろしを上げる民間企業のようなものである。 この手の人間が民間で活躍できないのは言うまでもなく、「ナルホド。貴殿は民間で活躍できないから国会議員になったのね。どれだけお低くとどまれば気が済むのかしらん。」との誹りを免れ得ない。国会議員の品位を著しく損ねるのに貢献するばかりである。
「猿は木から落ちても猿だが、議員は落選すればただの人。」 今回の衆議院選挙は現今の450人強の浮浪者予備軍のうち、誰を浮浪者にするかという話でしかない。 街角で身なりのいい浮浪者候補たちが、「国民の皆様の声をお届けします!」などという分不相応な色目を使っていたら、次のように諭すのがわたしにできるせめてもの親切である。
「君君。そんなにやせ我慢しなくてもいいのだよ。君は国民の声を届けると言っているが、わたしは君の本当の声を知っている。要するに君は安定した職が欲しいだけなのだ。人の気持ちを救済するより先に自分の気持ちを救済したまえ。 君は世間に慣れていないようだから言っておくけど、自分の気持ちを救済できない者が人の気持ちを救済できるほど、世の中甘くはないんだ。ほら、あそこにハローワークがあるからすぐに相談に行きたまえ。君の生きた時間が、君の浪費した時間よりも短くならないようにするために。」
諸賢も街角で身なりのいい浮浪者候補を見かけたら、近場のハローワークのリーフレットをそっと手渡してあげるとよい。まこと、功徳を積まれることとなろう。
昨今、「SNS映え」との造語を散見する。特定多数又は不特定多数の他者からの承認又は認識を期待し、映りの良い(photogenicな)写真をソーシャルネットワーキングサービス上で共有する行為が、少なからず世に広まりを見せているようだ。
観光地と言われる場所に散歩に出かけると、写真撮影を「試みる」個人や集団が、目に入らないことがない。これらの人々は、写真を撮るのではなく、写真を試みている。 奇跡の1枚、満足できる1枚或いは納得できる1枚を撮るために、各々が人目を憚らず、傍らに人無きが如く種々の試みをしている。俯瞰するにつけ、「あなすさまじ」との感嘆が漏れないことがない。 これが今日的人間の標準的な振る舞いではないことを祈るよりほかない。
だが、冷静に思い返してみると、振る舞いそのものは、今日的人間に特異的に観察されるものではない。写真撮影という行為はなかったにしても、「人」は昔からそうだった。次は『徒然草』の一節だ。
「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色濃く万はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。」
手にしている道具が違うだけだ。昔日は(例えば)連歌だったが、今日は写真であるにすぎない。
これらの振る舞いが、「人」にとって時代を通底する感性に基づくのだとしたら、今後も、残念ながら善くならないし、喜ばしいことに悪くもならない。手を変え品を変え、歴史は繰り返すだろう。 「人」は慈しむより他のない生物であると、微笑とともに思い致すより他あるまい。
某学校法人の獣医学部新設について、首相による便宜供与の疑義があるとのことで、政界に波紋が広がっている。 某学校法人の理事長は首相の友人であるところ、当該法人に獣医学部の新設を文部科学省が認可するにあたり、首相の意向が反映されていたとの疑いが向けられている。
それを証示するとされる文部科学省の内部文書が(何故か)野党の手に渡り、国会で追求が進められていたところ、前文部科学省事務次官(以下「前次官」という。)が記者会見を開き、その文書の存在及び真証性について証言した。 野党の手に渡っている文書は、文部科学省担当課から同省幹部への報告資料であり、前次官が現職の際に確認したものであることを明かした。 また、前次官はこの20年間の政治(或いは政府中枢)と行政のパワーバランスの変化についての認識を示した。 漸進的に政治(或いは政府中枢)のパワーが強くなり、今般、行政機関はその意向に容易に逆らうことができず、時に行政としての中立性・公平性を損ねてでも、その意向を政策に反映しなくてはならない実情を明かした。 さらに、次官は要請があれば、国会での証人喚問に応じると明言した。
「前次官の乱」とでも表現できるこの記者会見を受け、官房長官をはじめとした政務や与党は冷たい態度で火種の火消しに走り、野党は熱い態度で政争に火をくべようと、やっきになっている。 官房長官は、ともすると個人への誹謗中傷とも受け取られかねない(前次官の証言が真ならわが身にも降りかかる)発言で、論点をすり替えて前次官のイメージダウンを図った。総務大臣は文句があるなら現職の時に言えばいいのよと(前次官の認識が真なら)象が蟻を踏みつぶすような発言で一蹴した。 当の文部科学大臣は、文部科学省職員による「当該文書の存在を確認できなかった」との(どの時点で確認できなかったのか不明瞭な役人的には常套句とも言える)調査報告を、人がいいのか素直に受け止め、再調査をしないとの意向を示し続けた。 自民党や公明党は証人喚問をしないとの後ろ向きな姿勢を見せ、民進党や共産党は証人喚問をするべきと前のめりな姿勢を見せた。
この記事を書いている時点の概況は、こんな感じである。
今後どうなるのか。首相・政務・与党政治家に対して、行政からの更なる反乱、国民からの強い風当たりがない限り、おそらく「前次官の乱」は一過性のイベントとして握りつぶされる。 首相・政務・与党政治家は、おそらく次のようなロジックを、強弁し続けるだろう。
「文部科学省内で当該文書の存在を確認できなかった。だから、某学校法人の獣医学部新設に、首相の意向は反映されているとの批判はナンセンスである。又、存在しないものについて証言を求めるのはナンセンスである。だから前次官を証人喚問をする必要はない。」
残念ながら、このロジックが成立しつづける限り、野党がどんなに情に訴えたとしても、分が悪い。単に強い情は、強い情を伴った理によって一蹴される。それが政治の理である。
正攻法でいくと、文部科学省内に、現に当該文書が存在していることが何らかの権威づけを伴って白日の下にさらされるかどうかが、このイベントのキーイシューである。 もし白日の下にさらされたとしたら、「政界トップの人がその友人に便宜供与を図った」という構図は、日本に物理的に近くて心理的に遠い、隣国の前大統領の失職事由と重なる。政権にとっては無傷ではすまないどころか、致命傷になり得る。
国会での証人喚問は、何らかの権威づけを伴って白日の下にさらす手段の一つだが、上のロジックが機能する限り、「文書の存在を証明するためには、文書の存在があらかじめ証明されていなければならない」という、トートロジカルな哲学問題が控えている。 だから野党がどんなに真摯にこの証明問題に取り組もうとしても、自らのしっぽに噛みつこうとする蛇のように、非生産的にグルグル回り続けるだけである。首相・政務・与党政治家は、単なる騒ぎに過ぎないと、怜悧な目を向けるだろう。
行政機関への情報公開請求も、何らかの権威づけを伴って白日の下にさらす手段の一つだが、上のロジックが機能する限り、「存在しない資料は公開しようがない」という、オントロギッシュな哲学問題が控えている。 だから情報公開請求者がどんなに真摯にこの意味論的な問題に取り組もうとしても、チーズ抜きのチーズバーガーを頼む客のように、その請求は要領を得ない。文部科学省は、該当する文書がない旨を繰り返すばかりだろう。
論理的には、正攻法が機能する方法が1つだけある。文部科学省が、報道機関へのリークではなく公式に当該文書の存在をプレスリリースするというものである。 文部科学大臣はそのようなプレスリリースを絶対に認めないだろう。政権にとって致命傷になり得るようなことを、普通、政権中枢にいる人間が認めるはずがない。(議院内閣制の弊害だ。もし認めるとしたら、そこに対価があるか人間として高潔かのどちらかである。) だから、プレスリリースをするなら事務方(官房長又は次官級)の決裁で出すしかない。組織論的に見れば、反乱である。 正攻法が機能するためには、行政機関が反乱するしかない。しかし、反乱という非正攻法が介在せざるを得ないアイロニーを考慮すると、この筋は可能性としてはあっても、その確率は極めて低いだろう。よって、「前次官の乱」は一過性のイベントとして握りつぶされる。
このように検討してみると、首相・政務・与党政治家が真面目に気にするのは、国民からの強い風当たりがあるかどうかだけだろう。 民意は何が正しいかより、どう感じるかによって形成される。正しくても比較的感じが悪いものは、正しくなくても比較的感じがいいものによって一蹴される。それが(哀しいかな、今般、日本だけではなく世界各国においてすら)民意の理である。
現政権は、このことに相当自覚的である。官房長官が、論点をすり替えて、前次官のイメージダウンを図ったことを想起されたい。自らのイメージアップは難しいだろうから、論点をすり替えてでも、追求相手のイメージダウンを図り続けるだろう。
諸賢にお願いしたいことが1つある。このような素振りを見かけたら、「ああ、いつものイメージ操作ね(笑)」と、一笑に付して欲しい。(諸賢なので一笑に付すのは当然か。) たんなる一笑とは言え、それこそが政治に正しさを召喚するための、民衆として実行可能な作法の一つだと私は考える。
東京都議選が今夏実施される。それに向けてか、街角にある議員ポスターが、新しいものに張り替えられていっている。 地域政党都民ファーストの会のポスターが目に入ったので、一瞥した。「東京大改革」との壮語が踊っていたが、具体的には何をするのか、全くわからなかった。
「都民ファーストの会」をウェブ上で検索してみた。2017年4月29日現在、オフィシャルウェブサイトは作成されていなかった。 事実上、とある東京都議会議員のブログで発信されている情報が、「都民ファーストの会」のオフィシャル情報という扱いになっているように見受けられた。 「都民ファーストの会、国政研究会の発足とともに「綱領」をついに発表!」とのタイトルの記事があった。だが、綱領には、しっかり「案」がついていた。普通に考えると、まだオーソライズされていない状態だろう。 それぐらい、出来が悪いものに私には思われた。「東京大改革」を実現するための原則は、「都民ファースト」「情報公開」「賢い支出(ワイズスペンディング)」だそうだが、壮語に対して貧弱かつ不明瞭な道具立てだ。 東京都を飛躍させようとして論理が飛躍したのだろう。
出来が悪いと評する者は、他にもいた。元経済産業省の役人だった方は、「物を書くものとして看過できないレベルの文章」として、親切にも添削をしていた。 そこで、わたしも添削を試みたが、新しく書き直した方が早いと思い、全削になってしまった。わたしはそこまで親切になれなかった。
以下、都民ファーストの会の綱領(案)と、わたしなりの都民ファーストの会の綱領(案)を載せる。比較すると、内容自体が異なる部分があることに気が付くはず。 それは「都民ファースト」の名を冠するなら、せめてこうあってほしいとの、わたしの政治的希望を反映したものである。 政党に所属するなら、どちらの綱領の政党に所属したいか、諸賢の吟味を宜しくお願いしたい。
***以下原版***
都民ファーストの会 綱領(案)
平成29年4月
宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える。その灯りの塊の最も大きなものが、東京を中心とした輝きである。
その輝きは、東京という大都市の力であり、経済の大きさであるが、同時に、そこにある一つひとつの灯りの下に、人々の生活があり、営みがあることを政治は想像できなければいけない。
一つひとつの灯りが揺らいではいけない。
もちろん、全体の輝きが褪せてもいけない。
この20年の硬直した都政の下で、アジアの金融拠点はシンガポールに、物流拠点は上海に、ハブ空港は仁川に後塵を拝しつつある。東京が産業構造の変革の波の中で、世界をリードする絵図を描けているか。少子高齢化が叫ばれながら、福祉対策の転換を導いているか。老朽化する都市は輝きを失うのではないか。様々な危機に対する準備は万全か。これまでの延長線をなぞるだけの都政でよいのか。
だから、今こそ「東京大改革」の旗を私たちは掲げる。
「東京大改革」とは、首都東京を、将来にわたって、経済・福祉・環境などあらゆる分野で持続可能な社会となりえるよう、新しい東京へと再構築すること。東京の魅力ある資産を磨き直し、国際競争力を向上させること。都民一人ひとりが活躍できる、安心できる社会にステージアップすることである。
そのための大原則を「都民ファースト」「情報公開」「賢い支出(ワイズスペンディング)」とする。私たちが自らの名に「都民ファースト」を冠するのは、都政の第一目的は、都民の利益を最大化すること以外にないと考えるからである。一部の人間、集団の利益のために都政があってはならない。
私たちは、旧来の勢力に囚われている都政を解き放ち、躊躇なく東京を活性化し、行政力の強化を行う。区部のさらなる発展を図り、多摩・島嶼振興を積極的に推進することで、東京2020オリンピック・パラリンピック後も輝き続ける首都東京を創造していく。
今日よりも明日、明日よりも未来に希望がもてる社会を描くため、私たちが「東京大改革」をすすめていく。
(以上)
***以下全削案***
都民ファーストの会 綱領(案)【Tyu-gen修正案】
平成29年4月
地球の夜景を俯瞰すると、一際明るく輝く場所がある。東京である。その輝きを形作る一つ一つの灯火に、都民一人一人の生活がある。わたしたち都民ファーストの会は、都民一人一人の生活の灯火を尊重し、東京都が放つ輝きを一層明るくさせたいとの想いのもと、ここに参集した。
かつて、高度経済成長を遂げた東京都は、東アジアの金融・物流・交通の拠点だった。しかし、日本の経済成長が鈍化し、新興国の経済成長が鋭化するに伴い、東アジアでの東京都の地位は、凋落の一途を辿った。もはや東京都は、東アジアの金融・物流・交通の拠点とは言い難い。
高度経済成長を前提とした東京都の政策は、わたしたちの現実を上手に反映できていない。だからといって、わたしたちは東京都の行く末に、絶望したいとは思わない。失った栄光を取り戻すという考え方もあるかもしれないが、わたしたちは、新しい価値観に基づき、東京都の政策を立て直したい。
経済が低成長でも構わない。それでもわたしたちは、社会インフラや行政システムといった都民の生活の礎が、将来にわたって持続的に活用・運用できるように、政策の手直しをしたい。
東京都が金融・物流・交通の拠点でなくても構わない。それでもわたしたちは、都民にとって東京都が心の拠点となるように、東京都固有の魅力をいっそう高めたい。
わたしたちは、都民一人一人が活躍するためには、都民の自治能力を向上させることが重要だと考える。そのためには、都民が情報を適切に利活用できる環境を整え、都民が自由に自身の考えを主張し、それぞれの主張の善し悪しを吟味するための場を設けることが肝要である。わたしたちは、そのような環境や場をつくり、都民の自治能力を向上させたい。都民のことは、都民一人一人がまつりごとに主体的に関わり、丁寧な対話的なプロセスのもとで都民が決める。これが「都民ファースト」の極意である。
時には利害が鋭く対立し、主張がまとまらないかもしれない。そのような時、わたしたちは全体を見て、合理的かつ効果的な方策を採用するとの価値観を共有し、政策を前に進めることを旨としたい。わたしたちは、できない最善のことよりできる次善のことに希望を見出し、東京都をよりよくしていきたい。
(以上)
築地にある卸売市場を、豊洲の埋め立て地に移転するか否か。決定が延期されて久しい。
その間、政界(衣装の意匠に強いこだわりのある行政機関の長を含む)は、「誰が悪いのか」という、後ろ向きで生産性を度外視した、市民から見るとスケールの大きい卑小な井戸端会議に興じることに時間を費やしてきた。 この人たちは、ファイティングポーズをとることにかけては名優だ。だから、それは銀幕の中だけでやって欲しい。 残念だが、この政治家然とした名優たちは、この問題は現実の事ではなく演劇の事だと思っているようにしか、見受けられない。 現実の事だと思っているのであれば、「誰が悪いのか」などという井戸端会議の政策的優先度は、限りなく低い。 圧倒的に、市場を移転するかしないかを決めることの方が、政策的優先度が高い。 正直、「誰が悪いのか」などということは、移転するかどうかを決めて、政策的措置の筋道をつけてからでいい。 本来、この手の追及は報道機関の仕事だと考えるが、時間と労力を割ける政治家がいるなら、民業を圧迫するとの誹りを受けながら、やればいい。 「誰が悪いのか」に躍起になってきた政界の人たちは、相当暇を持て余しているか、特別職公務員としての職務を全うしつつ三面記事のネタ探しができるくらい有能かの、いずれかだろう。 (後者であることを期待するしかない。)
・・・
「市場の移転の可否について判断するためには、安全性を検証しなければならない。」これは、一般論としては正しい。 「ゆえに、専門家会議を組織して、豊洲の安全性について、諮問する。」これも、一般論としては正しい。 この場合、一般論としては、行政機関は、専門家会議の答申(あるいは勧告)を真摯に受け止め、科学的根拠に基づいて政策的措置を講じるのが道理だ。
さて、都知事が豊洲の安全性について諮問した専門家会議は、市場移転予定地の地下水中の有害化学物質の「モニタリング調査」を実施した。 (どうでもいいが、「モニタリング調査」は同義反復だ。矯正的措置の必要性を検討するための法的参照値(環境基準)がある調査なので、単に「モニタリング」でいい。) その結果、地下水から、環境基準を上回る、ベンゼン、シアン化合物などが検出された。これについての専門家会議(座長)の見解は、「地下水が市場で使われるわけではないので、地下と地上を分けて考えるべき」というものだ。
なにを素っ頓狂なことを言っているんだと思った。なぜ、地下水中の有害化学物質の含有実態を調査した。 「地下水が市場で使われるわけではないので、地下と地上を分けて考えるべき」という見解は、地下水を調査しなくても、常識の範疇で出せるだろう。 そこを科学者らしく、「地下空間から地上へ有害化学物質が移行する蓋然性があるので、移行試験を実施し、移行の程度を科学的に検証した。」というのなら理解できる。(というより、そういうことをするのが専門家会議の仕事だと思う。) だが、「地下水が使われることは無いのになぁ」と思いながら、地下水中の有害化学物質を調査するのは、はっきり言って時間・労力・費用の無駄だ。
とはいえ、専門家会議の素っ頓狂さをある種可愛いものだと思わせてくれるほど、どうかしているのは、都知事然とした名女優だ。 もう一度、一般論を書く。諮問した以上、行政機関は、専門家会議の答申(あるいは勧告)を真摯に受け止め、科学的根拠に基づいて政策的措置を講じるのが道理だ。 行政機関の長(都知事)は、専門家会議に豊洲の安全性について諮問した。だから、専門家会議の見解を真摯に受け止めなければならない。 だが、都知事然とした名女優は、「基準を上回っている事実は非常に重く受け止めていかなければならないと思っている」とし、「地上と地下を分ける考え方では都民の理解と納得につながらない」との考えを示した。
なぜ専門家会議に諮問した。 都民の理解と納得(安心)に基づいて判断するのであれば、都民を対象とした大規模な世論調査を実施すればいいだけだろう。 「科学的に安全であることより、都民や市場関係者が安心だと思うことを優先したい」というのであれば、それはそれで一つのポリシーだ。そうしたらいい。 (東京都は、政策的判断の堅牢性が薄氷の上を歩くほど脆弱であり、知的合理性より大衆の情動を優先するという民主制としては最も頽落した形態をとる過激な地方公共団体である、との行政史上の汚名を喜んで引き受けるならの話だが。) だが、「安全より安心が大切よね」と思いながら、専門家会議に豊洲の安全性を諮問するのは、筋違いも甚だしい。この都知事然とした名女優は、演劇には誠実かもしれないが、残念ながら、政策には誠実であるとは見受けられない。
さらに酷いのは、専門家会議が見解を公表するにあたり、東京都が市場関係者との間を取り持たなかったことだ。 専門家会議は、行政機関(東京都)からの諮問を受けて答申するのだから、答申先は行政機関(東京都)である。 そして、諮問をした当の東京都が、専門家会議の答申を受けて、専門家会議の見解と政策的措置のオプションについて、市場関係者に説明・協議をするのが、筋だろう。
なぜ、専門家会議が見解を公表する際、その場に市場関係者がいる。そして、市場関係者の批判の矛先を専門家会議に向けさせる。 本来、市場関係者への説明責任を負っているのは、東京都だ。それを、専門家会議に押し付け、市場関係者からの吊るし上げに直接晒させるなどとは、失敬の極みだ。
いつも思うのだが、この都知事然とした名女優は、「説明責任」と見栄えのいいことを多言する趣味を持っている割に、責任が生じることの説明は「総合的に判断する」と言って茶を濁すか、誰かに責任転嫁をするしかしていない。 この名女優は、政策的に困難で、自分が批判にさらされ得ることに対する説明能力が、全くと言っていいほど無いようにしか見えない。
「都民ファースト」と声高らかに掲げているようだが、「ツケが回ってくるのはまず都民」という意味だと私は理解している。 少なくとも、市場移転の決定の延期に伴う民間諸経費の賠償責任を問われ、東京都への責任認定が裁定された場合、誰が賠償金を支払うのか。東京都だ。では、その費用のリソースは。言うも愚かなりだ。
この名女優は随分派手に酷い仕事の仕方をしているなと、就任当初からウォッチしてきたが、行政をしたいなら演劇部から卒業するか、演劇を続けたいのなら職業選択を見直した方がよろしかろうと思われる。(わたしはどちらでもいいと思うが。)
農林水産省が、消費者庁、内閣府食品安全委員会、厚生労働省の連名で、「食品に関するリスクコミュニケーション ~食品中の放射性物質の検査のあり方を考える~」とのプレスリリースを公表している。
「食品に関するリスクコミュニケーション ~食品中の放射性物質の検査のあり方を考える~」(農林水産省ウェブサイト)(外部リンク)
このプレスリリースを目にしたとき、放射性物質対策に関する行政史の転換点になると思った。 抑制の効いた中立的な表現の副題、「食品中の放射性物質の検査のあり方を考える」は、かえって、その行政的意図を抗し難く匂わせている。 行政機関は、放射性物質検査からの撤退戦略を描きたいと考えているはず。このリスクコミュニケーションは、そのための、初手だ。 これまで、定期的かつ定型的に行われてきたリスクコミュニケーションとは、全く異質の位置づけのものだと言っていい。
生産者や行政機関は、消費者の「安全・安心」のために、莫大な労力と費用をかけて、検出下限値未満のデータを積み上げてきた。 放射性物質の摂取実態調査は、継時的に、食品中の放射性物質のリスクは極めて低いことを報告してきた。 リスクベースで見た時、放射性物質の優先度は、(顧みれば事故当初から高くなかったし、)決して高くない。それが、科学的な現実だ。
しかし、人は理性では動かない。動くとしたら情動による。人は、客観的なデータの累積よりも、主観的な風評の流言を好む。 未だに、「風評被害を払拭して欲しい」との声が後を絶たない。未だに、「東日本の農作物をできるだけ避けたい」との声が後を絶たない。 だから、生産者や行政機関は、莫大な労力と費用がかかるけど、検査をする。その結果が無意味だとわかっていても、検査をする。その結果を積み重ねても、風評の払拭にはつながらないことをどこかでわかっていながらも、検査をする。 そして、消費者は、労力と費用を顧みず、積み上がったデータを見ることもなく、単に不安だから検査を続けろと言う。積み上がったデータは、文字通り、死屍累々だ。
リスクベースで見れば、今すぐにでも、パターナリスティックに放射性物質の検査を止めてしまってもいい。 一部の山菜、林産物、野生鳥獣の検査は除くにしても、今すぐほとんどの品目の検査を止めたところで、ヒトへの健康影響に及ぼす影響は皆無か、無視できるほどに極小だろう。 リスクベースで見れば、正直、コミュニケーションは不要だ。必要なのは、ディターミネーション(determination)、決定だけだ。
だから、放射性物質の検査にのあり方に関する「リスクコミュニケーション」は、実際のところ、「リスクディターミネーション」の偽装だ。 もし、「コミュニケーション」を残すのであれば、それはこころの問題を扱うということだ。これは、食品の安全性に関するコミュニケーションではない。こころの健全性に関するコミュニケーションだ。 検査をし続けることで得ていた「安心」を、検査をしなくても「安心」でいられるようにするための、コミュニケーションだ。
***
仕事は始めるよりも止める方が難しい。規模が大きければなおさらだ。うまく撤退できれば、これほど公益に適った仕事は、なかなか見あたらないだろう。 消費者は安心を得る。生産者は風評被害に悩まされずに済む。行政機関は労力と費用を(無意味に)かけずに済む。ひいては、税金の使途をより効果的なものに割り当てられよう。
新春のお慶びを申し上げます。
当サイトをご覧になっている方々には、日々の御高配、改めて感謝を申し上げます。また、旧年発刊した書籍を手に取ってくださった方々にも、心より御礼申し上げます。
賀詞交換が行われる時下、師走に劣らず忙しなく、睦月は何をしたのか覚えていないという意味で、無月と呼称することになりかねない日々です。 一年の計を留めれば能く記憶を留められると念慮し、行政機関の長等が行っている年頭所感の表明にあやかり、わたしも2017年の年頭所感を申し上げます。
公的領域での仕事にしても、私的領域での日常にしても、ともすると、前例や惰性に任せがちです。 現に言われていることを諾々と、現に行っていることを粛々と行うことは、社会や人倫に対する感性を摩耗させ、畢竟、心身の健常を損ねることに繋がります。 社会や人倫に対する感性を研磨するためには、自らの名のもとに(In the name of me)、新しいことを企図し、忍耐強く、実行・推進してゆくことが、大切です。 微視的には、仕事にしても日常にしても、摩擦を倶(おそ)れず手間を惜しまず、適切かつ感興な企画をし、巨視的には、国家の安泰、人心の安寧に貢献してまいります。
2016年に企画し、これまで作業を進めてきたものについて、必要に応じて内容を見直しつつ、何らかの形で着実に推進してまいります。 民主主義の今後のあり方に係る試論については、適切かつ効果的な情報発信のあり方を視野に入れつつ、原稿の執筆を進めます。 これまでの事跡に係る編纂事業については、年内目途に原案の作成を終え、編纂企画官会議に諮ります。
言葉は、人の感情の発露、思考の表明であり、人々の精神と身体を現実に動かします。 ライフステージの跳躍が必要な時、前後のステージを架橋するために、自身を含む人々の、精神と身体を動かす言葉が不可欠です。 しかし、架橋する言葉を見つけ出すことは容易ではなく、跳躍に不安を覚え、躊躇・逡巡するのが、人心の常です。 然るに、ライフステージの跳躍を企図する人々を対象に、架橋する言葉を探求するための、言語的な支援を進めます。 また、言語的な支援をするために必要な基礎的な言語運用能力を、いっそう練磨してまいります。
たまには、観光案内です。「観光」の字義どおり、光を観たいと思いませんか?
古都京都は、国内的にも国外的にも、あこがれの対象として見られる、大観光都市です。
京都に訪れた人に、どこに行きたいかを聞くと、だいたい次のような返事があります。 読者の皆様も、そっと自分の胸に手をあてて、どこに行きたいかを念じて、つぶやいてみてください。
【きっと行きたい京都観光スポット10選】
鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣、清水寺、龍安寺、八坂神社、伏見稲荷大社、京都御所、二条城、貴船・鞍馬、嵐山
おおむね、読者の皆様がつぶやいた神社仏閣、史跡、景勝地は、これらの中に入っているのではないでしょうか。 これらの観光スポットはよいところです。是非行ってみてください。
とは言え、これらの観光スポットのリストを眺めて、次のような感想を抱く方もいるかもしれません。
「人気(にんき)があるということは、人気(ひとけ)もある。人がゴミのような人混みは、このわたしの所望ではない。」
「京都に赴くたびに行った。なんすれば改修中の姿すら知っているので、飽きた。もっとスパイシーなスポットを所望する。」
「これらは既に写真や映像で見知っているもの。わざわざ見にいくことの、存在論的かつ意味論的な意義いかん。」
これらの感想を抱く、人より一歩先を行く(?)方は、京都観光(というより、もはや観光自体)に胃もたれしています。 そのような方は、「神社仏閣、史跡、景勝地に、わたしが赴く」つもりだったのに、実際には「神社仏閣、史跡、景勝地に、私が赴かされる」との主客の転倒が起こっていることを、 何となく悟ってしまったのかもしれません。
そのような悟りを得てしまった方は、観光を純朴に愉しめなくなったかもしれませんが、もう一歩踏み込むと、ある種の自由を得たと言えます。 悟りを開いた禅僧が、ふつうに使われている概念の定義から自由だったのと同様、そのような悟りを得てしまった人は、ふつうに知られている観光スポットの定義から自由です。 禅僧が、茶碗の中のお茶を指して「これが宇宙じゃ。」と定義したのと同様、そのような悟りを得てしまった方は、路傍の石を指して「これが観光スポットじゃ。」と定義することができます。
つまり、自分にとっての観光スポットをつくろうということです。 胃もたれは、味もわからないままに「食べさせられる」から起こります(飲み会ではありがちです)。胃もたれしてしまった方は、おいしく調味して「食べる」よう心がけましょう。
自分にとっての観光スポットをつくるだけでもけっこう愉しいのですが、自分にとっての観光スポットを、知人と共有することにも味わいがあります。
その味わい深さに思いを致すため、少し想像してみましょう。たとえば、自分の知人が「ここがわたしの観光スポット」と教えてくれたとしましょう。 そのような観光スポットは、観光情報誌に載っていて、誰ともつかない「みんな」がこぞって行く、規範的な観光スポットとは違います。身の丈に合っていて、脱規範的です。
規範的な観光スポット(例えば有名な神社仏閣)に特段の関心があれば、その叙事的で固い沿革に、きっと感銘を受けることでしょう。 しかし、多くの方にとって、有名な神社仏閣にありがちな沿革は、興味をそそらない意味不明瞭な文字の羅列ではないでしょうか。 たとえば、次のようなわりとありがちな沿革は、多くの方にとって強力な睡眠導入剤でしょう。
「当山は、甲天皇の御代に乙大師が民衆教化の為に歴訪せられた際、此辺の有力者である丙公が御堂を創建したことに由来す。 爾来、祖霊信仰、修験道と習合し、広く信仰を集むる大霊場と化す。数多の寺院を宗し、此辺のみならず此域一帯を鎮護す。」
これに対して、自分の知人が「ここが私の観光スポット」と称する場所は、多くの場合、叙情的で柔らかいストーリーを背景にしていることでしょうから、きっと共感を呼び起こすことでしょう。
「ここは、私がかつて漂泊の廃人として徘徊していたときに、ボーっと佇んでいたところなんだよね。 ボーっとしていたけれども、漠然と将来のことを考えていたようで、その時に考えていたことは今の自分を形作っているんだ。いや、まさに数奇、数奇。」
このような、叙情的で柔らかいストーリーを背景にした観光スポットが多くあると、知人や自分のことに思いを馳せ、感慨に耽る機会が増え、 その土地への思い入れがいっそう豊かなものになるでしょう。
そういったわけで、前置きが長かったですが(まあ、それが私の文体なのですが)、私にとっての古都の知られざる名所を紹介したいと思います。
紹介したいのは、名もない「滝」です。
京都市左京区には「慈照寺銀閣」があるのは、皆様ご存知でしょう。そして、慈照寺銀閣に至る参道の手前に、「哲学の道」と呼ばれる遊歩道があることも、そこそこ知られていることでしょう。
「哲学の道」は、日本の哲学者である西田幾多郎が思索にふけりながら歩いていたことにちなむ、遊歩道です。 道の中腹に、西田幾多郎の詠んだ和歌「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなり」が掘られた石碑が地味にあることは、多分あまり知られていません。 その和歌を都合よく根拠にして、(わたしのような)クサレ大学生たちは、不健全にも真夜中、大声で議論めいた話をしながら哲学の道を(我が物顔で)闊歩したものです。
ちなみに、6月中旬から7月上旬の間、哲学の道には蛍がいます。 京都市内の飲み屋のおっちゃんに「哲学の道、蛍いますよ。」と話したことがあるのですが、「んなことあるかい。」と返ってきたので、地元の方はあまり関心を払っていないのかもしれません。
その哲学の道を、「慈照寺銀閣」のあたりから南に下っていくと、「若王子神社」という神社に辿りつきます。 道はそこで終わりですが、「若王子神社」に入って東側を眺めると、山道っぽいところに通じているのが見えるはずです。 「いや、行き止まりでしょ。」まあそう思わずに、ちょっと進んでみてください。そうすると、右手(南東側)に、小川に沿って木々のトンネルに通じる小道が見えるはずです。 そのトンネルに入ると「あら涼しい。」滝と鄙びた社があるのが目に入るでしょう。
京都市内にありながら、人家の生活音がまったくしない、秘境です。木々が影をつくり、滝が風をつくるとても涼しいところなので、夏にはしばしば避暑のため、ぶらりと訪れたものです。
昼に行くのも趣き深くてよいですが、個人的には、月夜にお忍びで行くのが神秘的でおススメです。
皆様、「木漏れ日」を見たことはあると思いますが、「木漏れ月」を見たことはありますか。 その「滝」があるところでは、見れます。私は勝手に「月のカーテン」と呼んでいますが、実に幻想的です。 静寂の中、滝の音と「月のカーテン」に包まれると、しばしその場に立ちつくし、瞑想したくなることでしょう。
これぞまさに「観光」。「光」を「観る」ことができます。
なかなか人が訪れないのか、社と参道が傷んでいます。 というより、多くの人がワイワイと来るのを拒んでいるような雰囲気があるので、その雰囲気を尊重した方がよいと思われます。
とは言え、荒れ放題にするのもよくないので、これは私の「公共事業」。訪れる機会があれば、参道を少し整備しています。
参道に木の枝や大きな石が落ちていれば外によけ、水気のあるところには石を敷いています。 この前訪れた時は、諸事情あってスーツ・革靴姿だったのですが、一人で黙々とそのような「参道整備事業」をやっている姿は、さぞ奇怪なものだったことでしょう。 (どうでもいいですが、この前スーツ・革靴姿で鞍馬寺~貴船神社までの山道を歩いていたら、行き交う人から奇怪な目で見られました。いつもどおりの服なのになぁ。。。)
放置していると荒れ放題になるので、もし、皆様が訪れる機会があり「公共事業(笑)」と思うところがあれば、少しばかり「参道整備事業」にご助力ください。 そのお力添え、まったく人の知るところではないでしょうが、目に見えぬところでこそ、功徳、功徳。訪れるたびに、参道がなんとなく綺麗になっていたら、私は歓喜します。
20世紀のドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーは私のお気に入りの哲学者の一人です。
彼の初期の思索を代表する未完の大作「存在と時間」は、ドイツ人によってすら「ドイツ語で書かれていない。。。」と評されます。 それはあたかも、京都学派を代表する西田幾多郎の諸著作は、日本人によってすら「日本語で書かれていない。。。」と評されるかの如しです。 きっと、その難解な「自分語」による思索の展開の仕方は、「ゼロからイチ」を生み出す、真に創造的な営みに伴うものなのでしょう。
私は「哲学はできるだけ日常的に使われている言葉で書かれたほうが良い」との信念を持っています。その意味では「真に創造的な営み」らしからぬ装いを好みます。 なので、「ゼロからイチ」を生み出しているようには見えないかもしれません。でも、それでよいのです。
私は、「ゼロからイチ」を生み出すことよりも、人に伝わることを優先したいです。 考えは新しければ新しいほど、想いは深ければ深いほど、人に伝わらない(あるいは伝えられない)孤独を味わうことになります。
そのような考えや想いを形にするために「自分語」を使うのは苦肉の策です。それは誰を救うのかと言えば、誰よりも孤独を抱える自分を救います。 その孤高の姿は時に、一部の人間から「こんな人にわたしもなりたい」との共感を呼び起こします。 孤独を指向したり嗜好したりする性癖があり、高い学識的な素養がある人は、その孤高の姿に自分を重ね、救済を覚えます。 それは素晴らしいことです。しかし、救済を覚えるのはごく一握りの人間です。誰もが救済を覚えるわけではありません。
私は、日常的に使われている言葉で人に伝える努力を、惜しまないつもりです。孤独を味わうのは、もはや仕方がないことです。 なので、考えや想いをもとに、多くの方から「それは良いね」との謝意を示されるようなものを、世の中に提供していきたいです。 それは誰を救うのかと言えば、まずは世の人を。それは、自分を救うことにもつながります。
この世に生を享(う)けたからには、よい修行を積み重ねたいです。そして、世の中を善き方向に変える助力になりたいです。
苛烈な修行だった。
色々と企図してきたことや、企投してきたことが、本当にうまくいかない。 最後の引金は人間関係の不和。是故、様々種々の雑念や衝動が心中沸騰。是等の噴出を抑制するため、二日間口を閉ざし、生活と訓練に必要な事を除き、只管(ひたすら)仰臥し、寝た。
二十七日暁頃覚醒したところ、心中が平常に治まってくるのを感じつつ、次に掲載する発句第一行を想念。起床し、半跏座の姿勢で一時間座り続け、 発句第一行の内容を吟味し、その意趣により推敲し、残りの句を想出。以下のとおり、二日間閉口し続けた後の、発句を書き付ける。
* * *
信じるべきは他者ではなく、自分の采配である。
その采配によって、他者が喜んだり、安心したりするよう、遠慮し、深慮し、行為せよ。
采配がうまくいかなかった時は、遠慮や深慮や行為が、いたらなかったのだ。
他者を信じることは、他者から信じられたいという渇望に通じる。
その渇望に、際限は無い。
唯ひたすら、自分の采配を信じるべきである。
* * *
「只管打坐 心身脱落」は、曹洞宗開祖、道元の言。道元は、仏僧にひたすら座禅に打ち込むよう説いた。
仏僧は、一般に、落ち着いた人と思われがちだが、其の内奥は相当複雑で、多分、普通の人より雑念や衝動が強い人である。 このような人にとって、ひたすら座り続けることは、気持ちを落ち着かせ、物事を能(よ)く、吟味するための実践的な知恵と言える。 それ以上に雑念や衝動が強いと、ひたすら横になることが、物事を能く吟味するための端緒となる。
まさに、「只管仰臥 心身脱落」である。
* * *
大乗系の仏教は、誰でもできる実践を修行と同等の効果が得られるものと基礎づけ、民衆を教化しようと試みた。 複雑な教理を理解し修行に打ち込むより、念仏や座禅の方が門戸が広い。・・・であれば、「仰臥だって誰にでもできそうな実践」というのが私の持説である。 図らずも、実践的に持説を検証することになった。その結果は、成就である。
この成就には付随する洞察が含まれる。個人の有する雑念や衝動の量や強度によって、適切な実践がありそうだということである。 教理の理解が適当な場合、念仏が適当な場合、座禅が適当な場合、仰臥が適当な場合など。 それ故、平常を保つには、一つの行だけが唯一の対処法だとは考えない。雑念や衝動の量や強度によって、行を変えるべきと思う。
片足社会から離れつつ、片足社会に突っ込んでいるような生活を送っていると、ものごとがよく見えるようになります。
最近、組織人ではなく一個人として、とある企画を通すため、社会で働いている方々とメールでやりとりをしているのですが、 私の常識的な理解からすると、当惑するような表現をする方がいらっしゃったので、私にとっては他山の石、読者の皆様にとってはご参考となるように、ここに書き付けたいと思います。
割と市民権を得た表現なのか、メールの末文に「とりいそぎ、ご報告まで。」という表現する方がいらっしゃいます。 (おそらく、読者の皆様のまわりでも、そのような言葉遣いをする方が、時折見かけられるのではないかと思います。)
私の常識的な理解では、「とりいそぎ、ご報告まで。」は仮報告です。 後で、正式かつ丁寧な報告をすることとセットで使うべき表現だと、理解しています。
例えば、「本日書類を受領しました。内容をこれから精査し、後日正式にご回答します。とりいそぎ、ご報告まで。」 というのは、私の感覚では好感が持てる表現です。「あ、届いたんだな。」ということと、「真面目に見てくれるんだな。」ということと、「待っていればいいんだな。」ということが分かるからです。
しかし、外部の方々とメールのやりとりをしていると、「とりいそぎ、ご報告まで。」との結びをしたメールが、実は正式な報告だったという事例がありました。 いつまで待てばいいのかわからなかったので、電話をしてみたら、どうもそれが正式な報告だったことが判明し、 私としては、「とりいそぎ」という単語を入れなければよかったのになぁという感想を持った次第です。
さらに悪いことに、今回の事例では、断りを示唆する内容のメールの末文に「とりいそぎ、ご報告まで。」とあったので、 率直に言えば「失敬な言葉遣い」、穏当に言えば「おススメできない言葉遣い」という感想を抱きました。 断らざるを得ない事情を抱えているにしても、「とりいそぎ」で処理されるようなものに過ぎないという印象を相手に与えるのは、さすがにマズイと、私の常識は訴えます。
何にせよ、他山の石です。自分の言語感覚や言葉遣いを磨くよい教訓と私は理解します。 読者の皆様も、「とりいそぎ、ご報告まで。」を上手に使うように心がけられると、文章の好感度が上がってよいかもしれないですね。
平成27年10月7日、第三次安倍改造内閣が発足した時の総理大臣記者会見の総理冒頭発言に、 私見では、多くの国民が共感しにくいと感じる総理独特の言葉遣いで、私たちの社会の今後の希望を表明した科白(せりふ)があります。
「一億総活躍という輝かしい未来を切り開くため、安倍内閣は新しい挑戦を始めます。」
そして、「三本の矢」という、折れないことで定評のある使い古された言葉を使って、「新しい三本の矢を力強く放つ」としています。 その矢が向かう先は、次の3つです。
1.戦後最大のGDP600兆円(第一の矢:希望を生み出す強い経済)
2.希望出生率1.8(第二の矢:夢をつむぐ子育て支援)
3.介護離職ゼロ(第三の矢:安心につながる社会保障)
「一億総活躍」というやや時代錯誤的な含みのある言葉とともに、これらの「新しい三本の矢」は、 マスコミや有識者、そして経営者や実務者たちに、どちらかといえば、懐疑的かつ冷やかに受け止められました。
「そんな数値目標達成できるのか?これまでにも省庁横断的な取組があったのだから、政策的には屋上屋を重ねるだけなのではないか?」
このような様々な関係者の懐疑の念や冷やかな視線が、政府にどれぐらい影響を与えたのかはわかりませんが、 政府は、「一億総活躍」の名に恥じぬような配慮をしながら、 「少子高齢化の流れに歯止めをかけ、誰もが活躍できる「一億総活躍社会」の実現に向けて、政府を挙げて取り組む」姿勢を見せています。
政府は、平成27年10月29日(木)に第1回一億総活躍国民会議を開催、平成27年11月6日(金)に一億総活躍社会に関する総理と20代若者との懇談会を開催するなど、 矢継ぎ早な取組をとおして、実態的にも印象的にも「みんなで課題に取り組んでいる」ことを、わたしたち国民に伝えようとしています。
そして、「みんなで課題に取り組んでいる」という感じがする特に印象的な取組は、厚生労働省のウェブサイトで大きく案内されています。 「一億総活躍社会の実現に向けてご意見をお寄せください」というタイトルの、一般国民からの意見公募です。
厚生労働省ウェブサイト. 一億総活躍社会の実現に向けてご意見をお寄せください[外部リンク]
通常この手の意見公募は、「政府側が企画案を示し、その企画案に対して一般国民が意見を提出する」という形式をとるものが多いハズです。 しかし、今回の意見公募は、「なんか新しい三本の矢ってのがあるんだよねー。みんなどうしたらいいと思う?課題、取組、厚労省ができそうなことを教えて☆」という形式の、私の印象ではずいぶん粗い、フリーハンドのものです。 いざ蓋を開けてみたら、意見が未整理なもので収集がつかず、事務負担が莫大な地獄絵図が広がっている予感しか私にはしませんが、 この細やかさより早さを重視した仕事ぶりから、「矢継ぎ早にやると言ったらやるんだよ!国民に聞くってことが大切なんだよぉぉぉ!」と政務レベルがまくしたてていることが推察されます。 冷静に考えてみると、「第一の矢:希望を生み出す強い経済」は、厚生労働省の所掌外のはずなのですが、そこまでごった煮状態で聞かないといけないことに、厚生労働省の方々の已むに已まれぬ感が、言いようもなく漂っています。
そのような分析はさておき、今回の記事のタイトルのとおり、せっかくなので私も「一億総活躍」してみようかと思い、厚生労働省の意見公募に意見を提出してみました。 厚生労働省ができる政策としては、結構いい点を突いているのではないかと思われたので、自身の記録と皆様のご参考として、ここに書付けることにしました。 ちなみに、提案事項は、「第一の矢:希望を生み出す強い経済」関係の「生産性革命の実現について」です。(敢えて厚生労働省の所掌外事項。) 以下が提案内容です。
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【生産性向上に向けた課題】
○超過勤務時間を減らす。
(理由)労働基準法上、超過勤務をした労働者に対しては、割増賃金を支払う必要がある。ある作業に要する時間が一定だとすると、超過勤務をさせた方が、させない場合より、割増賃金分コストがかかる。もし、同じ生産物ができるなら、コストをかけない方が、生産性は高い。
【生産性向上に向けた取組】
○少数の労働者に超過勤務をさせるぐらいなら、多数の労働者にバトンリレーのようにワークシェアリングをさせる。
(備考)就業率の改善につながり、「一億総活躍」の趣旨に沿うと考える。
【生産性向上に向けた対策】
○超過勤務に対する賃金割増の比率を現行の1.25より高くすることで、超過勤務に対するコスト感を高くする。(ムチ)
○バトンリレーのようにワークシェアリングをさせる都合で、深夜にまたがって業務に従事する労働者がいる場合、賃金の深夜割増の比率を現行の1.25より低くすることで、事業主がワークシェアリングを導入することへの抵抗感を低くする。(アメ)
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せっかく、賃金割増の比率というパラメータがあるのだから、その変数をいじって生態系を変えたいという欲求を持ってしまうのは、理系の性(さが)ですね。 厚生労働省の担当者の方が、政策を企画立案する際の役に立てばいいなぁという、淡い期待を寄せるばかりです。
「平和安全法制」に係る法案が衆議院を通過して、すでに60日が経過しました。 与党は、中央公聴会、地方公聴会を経た後、今週中に参議院で採決するという見通しを示しています。
まさに佳境です。とはいえ、現実的な見立てをすると、佳境だからと言ってドラマティックな展開が今後あるわけでもないでしょう。 ワーストケースだとしても、法案は衆議院で淡々と再可決され、成立すると考えられます。
私がこの法案に対して考えていることは、Articleの「「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」-違憲/合憲解釈の物議を眺めて-」に集約されています。 このArticleで私が読者の方々に推奨したことは、「エネルギッシュに「違憲/合憲」、「廃案/強行採決」、「集団的自衛権」といった言葉遣いをするのは、非生産的なのでやめにしましょう。 余ったエネルギーは、「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について議論するために振り向けましょう。 」 ということでした。
このススメは、法案が成立した後でも、なお有効だと思っています。 とはいえ、本来は法案が成立する前に「個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?」について、よく議論するのが民主的なプロセスの観点から望ましいと感じています。
ゆえに、私の感覚によると、本国会会期中にフルスペックで「平和安全法制」に係る法案を成立させることは、先を急ぎ過ぎています。 もし私が与野党間の意見調整をする立場の人間であり、公正と中立に重きをおいた判断を求められているなら、 本国会会期では部分的に「平和安全法制」に係る法案を可決し、さらなる議論が必要であったり、国民からの理解が必要であったりする議題を、次期以降の国会に持ち越すことで妥協点を探りたいと感じるところです。 しかし、私の理解によると、与党はそのようには感じてはいなさそうです。
昨日13日、NHKスペシャル「緊急生討論 10党に問う どうする安保法案採決」(午後9時00分~午後10時30分)という特別番組を視聴しました。 この番組が視聴者に暗に伝えたことを私なりに整理すると、これまでの国会論戦は堂々巡りの消耗戦だったことと、与党は法案の法文修正には応じたくないと感じているということです。
私が感じ取った与党のスタンスは、もう少し簡単にまとめると「議論はするけど妥協はしない。」というものです。 さらっと書いてしまいましたが、正直、与党の調整能力に疑問を禁じ得ません。
私の規範的な理解によると、政治家は利害関係者間の利害や意見の相違を調整し、妥結した事柄を包括的に進めるための中心的な役割を担うことが期待されています。 「調整-妥結」という枠組みで、利害や意見を束ねる能力は、政治家にとっての基礎的能力だと言っても言い過ぎではないと、私は思います。
それゆえ、これだけ論戦を重ねているので、質疑で答弁した内容の一部や野党からの修文の提案を、もっと積極的に法案の法文中に反映してもよさそうなものなのに、 与党が衆議院を通過した法案から、一言一句修正せずに、参議院で採決したいという姿勢をみせているのだとしたら、与党は政治家としては規範的ではない態度をとっているのだと、私には思われます。
「安全保障に係る議論は尽きることはないが、法案の正しさは歴史が証明する。なので妥協をするつもりはないが、せめて議論という名の下でガス抜きはしておこう。」
野党が反発するのは当然です。
健全に民主制を運用する観点から言うと、ともあれ与野党全体でオーソライズすることが大切です。 与野党間で妥協点を探り、修正できるところは修正し、採決できるところは採決し、採決できないところは今後も議論を積み重ねて欲しいと、市井の布衣の者として、とりとめもなく書き連ねるばかりの今日この頃です。
筆者、日々リハビリとして、食品安全関係の情報を収集しています。 海外情報なので、日本ではあまり話題になっていないものがほとんどです。 ネタとしては面白いもの(アクリルアミドやカフェインなど)がたくさんあるのですが、書く気力がもたないので、 その中でも、筆者が特に「これは香ばしいねぇ」と思ったものを紹介します。インドでのネスレ製品の回収事案です。
6月5日、インドの食品安全に関する規制当局(FSSAI; Food Safety)は、 ネスレ・インディアに対し、「Maggi(マギー)」ブランドの即席めん製品を市場から回収するよう命令をしました。
ちなみに、日本では、「Maggi(マギー)」ブランドとして販売されている製品は、主に調味料です。 インドで回収命令の対象となった即席めん製品は、日本では一般に流通していません。(だから日本では然程話題になっていないのでしょう。)
インドの規制当局(FSSAI)は、ネスレ・インディアに「Maggi(マギー)」ブランドの即席めん製品を回収するよう命令した理由は、主に次の(a)から(c)の3つの違反があったからとしています。
(a) 製品の鉛の濃度が、インドの最大許容レベルである2.5 ppmを超過していた事
(b) 「グルタミン酸ナトリウム不添加(No Added MSG)」という、誤解を招く表示をしていた事
(c) 規格化されていない製品を、リスク評価や許可を経ずに市場に流通させていた事
この中でも、(a)が際立った違反です。
食品安全に係る国際的なリスク評価機関(JECFA)は、 鉛を慢性的に経口摂取すると、健康に悪影響(こどもに対しては知能指数の低下、大人に対しては血圧の上昇)があると指摘しています。 製品から、安全を見込んで設定されている最大許容レベルよりも高い濃度の鉛が検出されたことは、消費者の健康を保護する観点からは、まさにアラート(警告)が発令される事態なのです。
インドの規制当局(FSSAI)が回収命令を発令した同日5日、ネスレ・インディアはこの事案に関してプレスリリースをしました。 タイトルは、「マギーの麺製品は安全なのだが、ネスレ・インディアは製品を回収することを決定(In spite of MAGGI Noodles being safe, Nestlé India decides to take products off the shelves.)」です。
「In spite of…(…であるにもかかわらず)」の語感から、「やむにやまれず回収するんだよねぇ。。。」という情感が、そこはかとなく滲み出ています。
同プレスリリースは、「安全であるにもかかわらず」製品を回収した理由を、「今般、製品に係る懸念が広がっており、それが消費者に困惑を与える環境をもたらしてきたという観点から (in view of recent developments and concerns around the product, which has led to an environment of confusion for the consumer)」としています。
しかし、ネスレ・インディアが「マギーの麺製品は安全」と主張している根拠は何なのでしょうか。 インドの規制当局(FSSAI)が、「マギーの即席めん製品の鉛の濃度はインドの最大許容レベルである2.5 ppmを超過」と示していたのは、どうなったのでしょうか。
同プレスリリースによると、ネスレ・インディアが1,600を超える製品単位(バッチ)について、鉛の追加検査を実施したところ(>1,000バッチを内部検査機関、>600バッチを外部検査機関で実施)、 鉛の濃度はインドの最大許容レベルである2.5 ppm以内だったとのことです。
つまり、インドの規制当局(FSSAI)が指摘するような鉛の濃度に関する違反はないと、ネスレ・インディアは主張しているのです。
一般に、食品中の成分を分析すると、その分析値にはばらつきがあるものです。 ちょっとした操作上の誤差などが、分析値に反映されるからです。その成分が微量成分であれば、操作上の小さな誤差が、分析値としては大きな誤差として反映されやすくなります。 なので、ある検査機関と別の検査機関とで、食品中の成分の分析値が異なること自体には、特に奇異な点はないです。むしろ、分析値は異なって当然です。
(余談ですが、分析値のばらつきは標準正規分布することが知られているので、統計学的に真値が含まれる区間を確率的に推定することが、食品安全行政のグローバルスタンダードです。 政治家などが「日本の食は安全」である根拠として賞賛する日本の食品衛生法は、残念ながらグローバルスタンダードに適合できていません。 真値の区間推定をすることなく、分析値が基準値を超過したらアウトという、実に旧態依然とした運用がなされています。。。)
そういったわけで、インドの規制当局(FSSAI)とネスレ・インディアとで、マギーの即席めん製品の鉛の濃度の検査結果に違いがあること自体には、特に奇異な点はないです。 ただ、奇異な点があるとしたら、鉛の濃度のオーダーが、両者で相当異なることです。
インドの規制当局(FSSAI)によると、鉛の濃度が17.2 ppmの試料が存在していたとのことです。 ある州の検査結果では13試料中10試料、別の州の検査結果では29試料中15試料で、最大許容レベル2.5 ppmを超過していたとのことから、 17.2 ppmの試料だけが、突出して異常だったというわけではなさそうです。概ね、最大許容レベル2.5 ppmを超過した試料の鉛濃度は、10 ppm前後だったものと思料します。
他方、ネスレ・インディアが実施した検査結果によると、最大許容レベル2.5 ppmを超過した試料は存在していないとのことです。 公表されている検査結果の図からは、鉛の濃度の範囲は概ね0.05 - 0.25 ppmであり、平均値は0.1 ppm前後であることが読み取れます。
このように、試料の鉛濃度に100オーダー程度の差異(10 ppm程度と0.1 ppm程度)があるので、これを分析の操作上の誤差と見做すのは難しいと思われます。 そこで、インドの規制当局(FSSAI)とネスレ・インディアとで、検査した試料の状態が異なるのではないかという仮説が立てられます。
ネスレのウェブサイトには本件に関する問い合わせ窓口があったので、それなら直接聞いてみようと思い、質問してみました。 先方と当方とのやりとりの要点は、次のとおりです。(実際には英語のやりとりでしたが、日本語に訳しています。 本事案とは全然関係がないはずのJapaneseから、何故問い合わせがあるのか不審に思われたのではないかと思いますが、ネスレのご担当者様、ありがとうございました。)
(当方)鉛濃度を検査した際、試料の状態はどのようなものだったのか?湿物ベースで測定したのか、それとも乾物ベースで測定したのか。
(先方)問合せ感謝。ウェブサイトを更新したので、そちらを参照されたい。
(当方)承知した。幸甚。
※ 紹介されたウェブサイトには、「パッケージの記載に沿って調理したものを分析試料とした」旨の記載があることを確認(6/12時点)。
つまり、ネスレ・インディアは消費者が喫食する時点(ready to eat)のものを検査試料にしたということです。 即席めん製品なので、「乾燥めんを水戻しして、付属の具材と混ぜ合わせたもの」を検査したということです。湿物ベースで測定したということですね。
ちなみに、6/18時点で、ウェブサイトからこの記載が削除されていることを確認しました。たぶん、ちょっとマズイことにネスレも気が付いてしまったのだと思われます。
インドの規制当局(FSSAI)が、どのような状態の試料を検査したのかについては、彼らの発出している命令書の文面から推しはかるしかないのですが、 簡潔に言えば、乾物ベースで測定したものと推察されます。根拠は2つあります。
(根拠1)麺と具材を分けて、それぞれを検査したことが文面から読み取れる事
(根拠2)水戻しする際の水が鉛を含む可能性があることを指摘している事
まず、根拠1について説明します。インドの規制当局(FSSAI)が発出した命令書には、 「(先述の基準[鉛の最大許容レベル]は、製品中の2つの梱包物[麺と具材]それぞれに対して独立に適用されるべき...)The prescribed Standards have to be applied in respect of each of these two components independently...」 という記述があります(カギカッコ内は筆者註)。このことから、麺と具材を分けて、それぞれを検査したことを読み取ることは容易です。
次に根拠2について説明します。インドの規制当局(FSSAI)が発出した命令書には、 「(製品を調製するため喫食前に水が加えられるが、水源によっては、水にも鉛のような汚染物質が含まれるかもしれず、...)Water is added to the preparation of the product before it is consumed and depending upon the source, water may also contain contaminants like lead,...」 という記述があります。このような指摘をしておきながら、敢えて水戻しをして検査をするでしょうか。しないと考えるのが妥当です。
そういったわけで、インドの規制当局(FSSAI)とネスレ・インディアとで、検査した試料の状態が異なるという仮説は、ほぼ正しいと考えられます。 インドの規制当局(FSSAI)は乾物ベースで麺と具材を分けて検査、ネスレ・インディアは湿物ベースで麺と具材を合わせて検査していることから、 インドの規制当局(FSSAI)による鉛の検査結果は、ネスレ・インディアによる検査結果よりも、明らかに高い濃度を示したものと考えられます。
そうだとすると、鉛の最大許容レベル2.5 ppmを下回るようにするために、あえて麺を水戻しし、麺と具材をあわせた状態で検査したような印象を消費者に与えかねないことから、 ネスレ・インディアが、ウェブサイトからこの旨の記載を削除したいと考えたとしても、それは至極当然のことだと思われます。
以上は、製品の鉛の濃度を巡っての話でしたが、単に濃度が高ければ即健康に悪影響があるというわけではありません。 製品の鉛の濃度が高くても、そもそも、その製品を食べなければ、その製品の鉛に由来する健康影響はあるはずがありません。 また、食べる量が十分少なければ、その製品の鉛に由来する健康影響は、十分小さいものとして取り扱うことができます。
このように、健康影響を評価する時には、どれぐらいの濃度の鉛を摂取することになるのかが大切です。 健康影響は摂取量をベースに評価されるのです。
そこで、非常に簡単なもの(スクリーニングレベル)ではありますが、マギーの即席めん製品を食べても「安全」だと言えるのかどうか、予備的に評価してみます。 評価するためのパラメータを、以下のとおり措きます。
製品の鉛濃度: 0.1 mg/kg (ppm)
ネスレ・インディアの検査結果を参考に、喫食時の状態の製品の鉛の濃度を0.1 mg/kgとしました。
製品の摂取量(一食分): 200 g
喫食時の状態における一食分の量として、概ね200 g程度と措きました。
(参考ですが、同じ炭水化物の例で言うと、米0.5合を一食分とすると、含水状態でおよそ170 g程度になります。これに具材を合わせると考えれば、概ね200 g程度という推定は然程悪い推定ではないと思います。)
子どもの体重: 35 kg、大人の体重: 60 kg
おおまかな体重です。子どもの体重は小学生くらいの子どもを想定したものです。大人の体重は、男女平均すればこんなものかな程度のものです。
これらのパラメータから、マギーの即席めん製品一食分に由来する鉛の摂取量(体重あたり)を、子どもの場合と大人の場合のそれぞれで推定すると、次のようになります。
子どもの場合: 0.57 μg/kg(体重)・・・(I1)
大人の場合: 0.33 μg/kg(体重)・・・(I2)
このように鉛の摂取量を推定できましたので、次に、この数字が毒性学的にどのような意味を持つのかを解釈します。
先に、食品安全に係る国際的なリスク評価機関(JECFA)は、鉛を慢性的に経口摂取すると、健康に悪影響(こどもに対しては知能指数の低下、大人に対しては血圧の上昇)があると指摘していることを、紹介しました。 では、どれぐらいの量の鉛を摂取したらこのような健康への悪影響が発現するのでしょうか。
食品安全に係る国際的なリスク評価機関(JECFA)は、慢性的に一日あたり次の量の鉛を摂取すると、健康への悪影響が次のように発現すると評価しています。
子どもの場合:
0.6 μg/kg(体重)の摂取で知能指数が1ポイント低下・・・(T1)
大人の場合:
1.2 μg/kg(体重)の摂取で血圧が1 mmHg上昇・・・(T2)
ここで、毎日、マギーの即席めん製品を一食分摂取すると仮定すると、(I1)と(T1)(子どもの場合)、(I2)と(T2)(大人の場合)を比較することができます。 比較すると、次のとおりとなります。
子どもの場合:
(I1)=0.57 μg/kg(体重)<0.6 μg/kg(体重)=(T1)
大人の場合:
(I2)=0.33 μg/kg(体重)<1.2 μg/kg(体重)=(T2)
このように、子どもの場合でも大人の場合でも、鉛の摂取量は、鉛の毒性の発現量よりも小さいことが言えます。 ただし、鉛の摂取量と鉛の毒性の発現量がかなり近いことから(特に子どもの場合)、 毎日、マギーの即席めん製品を一食分摂取し続ける場合、健康への悪影響を無視できない集団(たとえば、低体重の子どもなど)が存在するおそれがあると言えそうです。
もちろん、マギーの即席めん製品を毎日一食分摂取するというのは、あまり現実的ではない仮定です。 様々な食品を食卓に取り入れ、日ごとに食卓の趣向を変え、食事を愉しむよう心がけて実践していれば、 時にマギーの即席めん製品を食べたとしても、健康に悪影響が生じる蓋然性は小さいと言えます。
食品安全の観点から推奨される食生活のあり方は、「まあいろんなものを食べようよ。」ということなのです。 そうであるかぎり、マギーの即席めん製品を食べても「安全」と言えそうです。
これは、特に用事があるわけでもなかったのですが、日本のみならず世界中からOTAKUが集う極彩色の街を徘徊していたときの話です。
筆者はキャラクターグッズを蒐集する嗜好を有していないのですが、 最近はどのようなものが売られているのかという純粋な興味・関心から、 とあるキャラクターグッズ専門店に入店してみることとしました。
さらっと店内を歩いて、「最近は、女性をメインのターゲット層とした装飾具や小物が並んでいるのぅ。OTAKUの時代も移り変わったものよのぅ。」 というような感想を感慨深く抱き、そろそろ店から出ようかなと思っていたところ、 何やら揉め事が起こっているような英語の声が聞こえたので、そこはかとなく、その場に近づいてみました。
その場に近づいてみると、キャラクターフィギュアのディスプレイケースの前に、外国の方2人、店員の方1人がいました。 耳を欹(そばだ)てていると、外国の方はディスプレイケース内のフィギュアが欲しいということを、店員の方に熱っぽく伝えようとしているのですが、 店員の方は売ることができないということを、外国の方に英語でなんとか説明しようとしている状況であるということがわかりました。
ただ、店員の方の英語を聞いていると、「売れない。そのようなルール。申し訳ない。」という、若干説明としては不足しているような内容だったので、 きっと、外国の方は埒が明かないと感じたのでしょう。外国の方は、「店長を呼んできてくれ。」と、交渉の次のカードを切ってしまいました。 これを受けて、店員の方は、どうやら店長を呼びに店の奥に姿を消しました。 筆者は「おいおい。どうなるのかしらん。これ。」とその行く末が気になり、その場をしばらく漂うことにしました。(「ToHeart2」の、このみんのフィギュアを眺めながら。)
程なくして、店員の方が店長を連れてきました。すると、店長は説明を始めたのです。英単語を織り交ぜた日本語で。
その時、「ああ、もう見ていられない!」と惻隠(そくいん)の情が働いてしまい、 店長と外国の方の間に入って、「よろしければ、通訳しますよ。」と、申し出ている自分がいるのでした。
(当方)外国の方が欲しがっているフィギュアは、売ることができないものなのですか?
(店長)はい。売り物はディスプレイケースの方で、その中のフィギュアは売り物ではないのです。フィギュアはメーカー様からレンタルしているものなので、販売品ではないのです。
(外国の方)でも、昨日この店に来たときには、このディスプレイケースの中にあるこのフィギュア(以下「フィギュアA」という。)を買うことができたんだ。 今回欲しいのは、フィギュアAの隣にあるこのフィギュア(以下「フィギュアB」という。)。昨日フィギュアAを買えたのに、どうしてフィギュアBを買うことができないんだ?
(当方)昨日、そんなことがあったのですか?(ディスプレイ内のフィギュアAとフィギュアBには「売り切れ」という紙が貼ってあるけど。)
(店長)詳しいことはわかりませんが、このディスプレイケースに展示しているフィギュアは売っていないと思います。
(当方)ええと。昨日買うことができたのは、フィギュアAと全く同型のものですか?それともフィギュアAのキャラクターをかたどった、他のフィギュアですか?
(外国の方)同型のものだよ。
(当方)ということは、昨日買えたフィギュアAは、この店で販売できる最後の1点だったということですね。
(店長)おそらく、そうではないかと。
(外国の方)でも、目の前に、フィギュアBがあるんだ。僕たちは5日間の日程で東南アジアのとある国からやってきていて、東京やこの街のあらゆる店を見て回ったんだ。 そうして、ようやくこの店で、フィギュアAとフィギュアBを見つけることができたんだ。フィギュアAは買えたのにフィギュアBが買えないのは、忍びないんだよ。
(当方)(フィギュアAとフィギュアBを眺めながら)あー。双子ということ?
(外国の方)(両手の親指をグッと立てながら)イエース!君よく分かってる。そのとおりなんだよ!
(当方)(なんだかよくわからないが、よく分かっている人になってしまったようだ。。。)
(外国の方)今日は旅程の最終日。日本に来るのにはお金がかかるから、そう簡単には来ることはできない。どうか、どうか、助けてほしい。ここで表示されている価格の2倍でも3倍でも出すよ。
(当方)フィギュアBは、メーカーからレンタルしているという話でしたが、メーカーに問い合わせをすることはできますか?その際、価格は2倍でも3倍でも出せるという条件を先方に提示していただければと思うのですが。
(店長)ちょっと待ってください。問い合わせてみます。
(・・・事実等確認中・・・)
(店長)どうやら、ディスプレイケース内にあるフィギュアBは、販売している製品と違って、原型師さんが作ったオリジナルのフィギュアみたいです。なので、売ることはできないようです。
(外国の方)どうしても売れないの?
(当方)このフィギュアは、販売している製品の基になった型で、とっても特別な一体です。つまり、このオリジナルのフィギュアがないと、販売用の製品が作れないということです。残念ですが、これは非売品と考えざるを得ないと思います。
(店長)このフィギュアを売ることはできませんが、せめて、この周辺でキャラクターフィギュアを取り扱っている店ならご紹介できるのですが。
(当方)彼らは、この周辺なら全部見て回ったと言っています。それより、このフィギュアBには、「完全受注生産品」というラベルが貼ってありますが、今後、発注できるような見通しはあるのでしょうか。
(店長)残念ながら、限定生産品だったので、現時点では発注できる見通しはありません。
(当方)(積んだな・・・。)申し訳ない。もうこの店でとれる手立てはなさそうです。
(外国の方)お金ならいくらでも出せるのに。。。僕たちはどうしたらいいのだろう。教えてほしい。
(当方)インターネットの販売サイトを見て、オークション等に出品されるのを待つのは一案です。
(外国の方)インターネットでの取引は、高額になりがちで、時に危険なこともあるんだけどなぁ。。。
(当方)本当に残念だけれども、今のところ考えられる手立てがあるとしたら、それは待つしかないということだと思います。
(外国の方)はぁ。残念だ。。。でも、まあ、ありがとう。(手を差し伸べながら)
(当方)(握手をしながら)本当に申し訳ない。
(・・・外国人の方、退店・・・)
上のやりとりの後、店長と店員の方から、いたく感謝されました。このようなことは、店舗として2年に1回あるかの出来事だったそうです。 非売品のフィギュアをディスプレイケースに入れ続けておくと、このようなリスクが顕在化する場合があるという、ケーススタディになってくれればと願うばかりです。
筆者、職務の関係上、何かと何かの間に挟まれて、骨の髄までゴリゴリとすり潰される経験を、嫌と実際に言うほどに味わってきましたが(現在それで体調等を崩して療養中)、 その経験はこういったところで活かされているなぁと、今回、心に沁みました。
仕事として折衝をやっていた時には、それが職務である以上、役割として期待されるものであり、組織としては至極あたりまえのこととして捉えられることなので、 形式上の感謝の言葉はよく流通していても、心からの感謝に触れることは、稀だったのでした。
ところが、仕事ではないところで同じようなことをやると、こんなにも反応が違うわけですから、 今回、結果は残念だったにしても、このような役回り、まあ悪いものではないなと素朴に思えたのでした。筆者にとってはリハビリみたいなものです。
折衝を専らとする職務は、組織運営には不可欠であり、組織活動総体としてみれば、社会に何がしかの成果物と影響を与えることに寄与するのは、意味の上では理解しています。 このようなマクロ的な観点から職務に意義づけをして踏ん張ることは、理論上、確かに可能なのですが、 もっとミクロ的な観点、つまり「身の丈のレベル」で手ごたえがないと、やはり何かが破たんするのが人間という生き物のようです。 自分は誰かから感謝されているという意識は、「身の丈のレベル」の手ごたえの一つとして数えることができるのでしょう。
逆に、誰かの「身の丈のレベル」の手ごたえを向上させるために、感謝の言葉をもっと流通させてはどうかという組織マネジメント的な発想も理論的には可能なのでしょうが、 ある行為に対して、正当な度合いの感謝がなされることが大切なのであって、感謝まみれにしても仕方がないのです。さりげなく感謝できる人間になりたいものですね。
(ちなみに、筆者がもっている哲学的課題でもあるのですが、「身の丈のレベル」とはどのようなものなのかを問うことは、非常に意義深いことだと思います。 必ずしも生物個体としての身体が「身の丈のレベル」なのではありません。「身の丈」と感じられる範囲とそれを可能にする技術群について問うことは、我々の身の処し方に関する様々な可能性を検討することにつながると考えられます。 筆者は、そのような「身の丈」と感じられる範囲における自律性=充足性の向上に、各人が一義的に配慮を差し向けるような、そんな考え方を根幹に据えて、物事を論じたい人間なんだと思います。)
お気づきかと思いますが、ウェブサイト上部のタイトル絵を変更しました。
いつも名無しの少女を描くのもどうなのかと思い、「理愛」という名前をつけました。 名前の由来は、チャノキ(※お茶の葉をつける木)のラテン名「Camellia sinensis」から取りました。カメリアのリアです。 なので、彼女を象徴するものとして、チャノキの花と葉も描いています。
今後、当ウェブサイトの色々な場面で登場させたいなぁと考えています。とりあえず、お見知りおきください。
先日、「カツオ節の出汁に関する理論生化学的な研究」を進めていると紹介しました。
気が向いた時に少しずつ書いているのですが、相当大部のものになりそうです。
研究の内容を検討し直してみると、追補しないといけないことが沢山あったので、以前紹介した時から、見解も変化してきています。 取敢えず、「どうして酸っぱくなるのでしょうか」という問いに対しては、イノシン酸の寄与もありますが、それだけでは十分説明ができないという結論に至りました。 以前紹介した時から、見解の修正をいたします。(ちなみに、今のところ、イノシン酸を含む色々な成分の、酸味への寄与率を計算するという途方もないことをやっています。)
そして、できるだけ普通の方々が無理なく読めるようにするため、紹介の仕方や記述の仕方などに注意を払いつつ、丁寧に作り込んでいます。 もはや同人誌か何かにして出版した方がいいのではという気すらしてきます。
そういったわけで、公表の見通しがたちません。 肝毒性を呈する程度にお茶をすするなどしながら、気長にお待ちください。
先日、図書館に入館して、書籍を眺めていた時に、食品に関する児童向け学習書が目に入りました。 どれどれと思い、目を通すと、食品の安全と不安に関する項目がありました。これが、実に客観的ではなかったのです。
食品添加物、農薬、遺伝子組換え作物について紹介する内容でした。概ね、「利便性 対 安全性」の構図で語られていました。
この構図そのものは、一般的には間違っていないと思うのですが、記載の内容を見ると、とても残念な気持ちになります。 主旨ですが、以下に例示します。
例1 食品添加物として使われるものには、発がん性が疑われるものがあり、長く食べ続けた時の悪影響はわからない。
例2 農薬を使うと野菜などに残留する。残留した農薬を食べると体によくない。
例3 遺伝子組換え作物には、アレルギー物質などの物質が入っているおそれがあるので、よくない。
例1対してコメントします。実際には、ヒトが一生涯長期間食べ続けたとしても悪影響がないと評価されたものが、使用基準が定められた上で、食品添加物として使われています。 一般的に、動物試験で影響が見られなかった最大の摂取量を100分の1したものがヒトの摂取許容量として設定されていて、しかもこれを下回るように使用基準が定められています。 なので、我々は、動物試験ですら影響が見られなかった量よりも、さらにずーっと少ない量しか食品添加物を摂取していないのが実態です。 もし、ヒトの健康に悪影響を及ぼすような濃度の食品添加物が食品中に含まれているのであれば、使用基準を守っていないということなので、 食品添加物に問題があるのではなく使用者に問題があるということになります。
例2に対してコメントします。食品添加物と同様、実際には、ヒトが一生涯長期間食べ続けたとしても悪影響がないと評価されたものが、使用の基準を定めた上で、農薬として使われています。 ヒトの健康に悪影響を及ぼすような濃度で農薬が残留することは、農薬の使用の基準を守っている限り、あり得ません。 もし、ヒトの健康に悪影響を及ぼすような濃度で農薬が残留しているのであれば、使用基準を守っていないということなので、 農薬に問題があるのではなく使用者に問題があるということになります。
例3に対してコメントします。遺伝子組換え作物を実際に商用化しようとすると、様々な試験に合格しないといけません。その中には、アレルギー物質が含まれているかどうかのテストもあります。 もし、アレルギー反応の原因が作物に含まれるアレルギー物質であり、しかも遺伝子組換えによってその物質ができていたとそこではじめて特定されたなら、それは様々な試験に合格していない未承認の遺伝子組換え作物だったのでは?ということになります。 これもまた、遺伝子組換え作物に問題があるのではなく、その作物を巡る人々に問題があるということです。
ちなみに、この児童向け学習書には、「こんなにも便利だけれども、このような問題もある。問題があるけれども、君は使う必要があると思う?」といった主旨の誘導尋問もありました。 さらに、「よい食品とわるい食品」の比較をしていて、食品の成分表示欄に食品添加物が含まれているかどうかを確認するよう誘導する内容となっていました。
思わず館内で、「イデオロギッシュ!」と叫んでしまいました。そして、なんだかすこし悲しい気持ちになりました。
児童にとってはおそらく初めて触れる内容もたくさんあると思います。だから特定の思想を植え付けたいのかもしれません。 しかし、私は、いたずらに食品に関する不安を煽るのではなく、事実として食品の安全はどのように確保されているのかを紹介する方が、 現実に即していて建設的であるという点で推奨できると思います。また、事実ベースで作成するのが、学習書を作成する者の責務なのではないかと思います。
「だれが」とか「どの書籍が」とは言及しませんが、標題のとおりです。
書店のコーナー等でこのような書籍が平積みになっているのを見かけると、「そのまま高く積んである状態を保ってくれ!」と願って已むことがありません。 ご本人が如何に、「無辜の市井の人々に、吾が自衛の方法を開陳せん。」といった誠実な気持ちで執筆に臨んでいたとしても、 私は知的誠実性が不足している書物は読むに堪えないものだと思っています。 なので、絶対に買ってたまるかと思うわけです。とりあえず立読みはするのですが、案の定腹を立てて、その場を後にするのが常です。
「ある物質が食品に入っていれば問題」という発想で食品安全を語るのは、その業界の専門的知識人を標榜するにしては、明白なる勉強不足です。 「ある物質が食品にどれぐらいの量入っていると、どれぐらいの量を食べることになってしまうから問題」という発想で、食品安全に関する行政的・業界的な現実は動いています。 そして、それは比較的常識的なことであるとも思うのです。
例えば、ケーススタディとして、こんなのどうでしょう。(【厳重注意】筆者が創作したものであり、上述の書籍中の例ではありません。)
「エタノールという物質は肝硬変を引き起こすほか、急性毒性として人を死に至らしめることがある。 この飲料にはエタノールが5%入っているので避けるべきだ。 「ノンアルコール」と表示されている飲料があるが、これには注意が必要だ。 なぜならアルコール分1%未満までの飲料は酒税法で酒類と定義されていないことから、 エタノールを0.9%含んでいたとしても「ノンアルコール」としているかもしれないからだ。 なので、選ぶなら0.0%か0.00%と表示されてある飲料。あるいは、ミネラルウォーターを選ぶのもいいだろう。」
「いやいや。お酒を飲むこと自体が問題なのではなく、お酒を飲みすぎるのが問題なのでは?」と素朴に思われたのではないでしょうか。
それが、食品添加物のように、ちょっと聞きなれないものになるとイメージしにくくなるのだと思いますが、 存在自体が問題なのではなく、量が問題となるのはお酒の例と同じことなのです。
最近、昆布やカツオ節を使って出汁を取ることが、人生に玄妙なる奥深さを与えてくれる愉しみの一つとなっています。
前回の「2015/02/23 詩吟は日常と言えるか」と併せると、「進行性おじいちゃん症候群」に罹患していると、診断されることでしょう。
とはいえ、単に出汁を取って味噌汁を調理し、出来上がった味噌汁をすすって「実に玄妙。微妙(めでた)し。」等とつぶやいているだけではありません。 つぶやいているのは概ね事実だとしても、筆者、自分のアイデンティティの一つとして、Food Scientist(食品科学者)を自称していますので、カツオ節の出汁に関する理論生化学的な研究を進めています。
「リロンセイカガクテキなケンキュウ?」。筆者の造語です。ここでは、カツオ節の出汁の特徴を、 生物学的な理論や化学的な理論にもとづいて理解、解釈、推測、実証する試みであると、理解してください。
カツオ節の出汁を取ったことがある方は、御存じかと思いますが、 カツオ節の出汁を取っていると、次第に出汁が酸っぱくなってきます。
どうして酸っぱくなるのでしょうか。
昨今、子どもたちの間で、「ようかいのせいなのね。」等として疑問を解消する風潮があり、 一部の親の方々がこれに対して懸念を示す等という現象があるなどと寡聞ながら聞きますが、ここではまさに、「そうなのね。」です。 化学的にはカツオ節から出汁溶液中に何かが「溶解」するせいです。では、何が「溶解」するせいなのでしょうか。
また、出汁は取れば取るほど美味しくなりそうなイメージがありますが、 筆者の味覚では、カツオ節の出汁を取り過ぎると、酸味が増え、旨味が減るように感じられ、美味しくなるとは感じられません。
どうして旨味が減るのでしょうか。
これも、「ようかいのせい」なのでしょうか。
こういった疑問に、生物学的な理論や化学的な理論を用いて、答えようと試みています。
カツオ節には、ヒトが感じる旨味を強める効果がある、イノシン酸という物質が、特徴的に含まれています。
筆者はカツオ節中のイノシン酸に着目して、理論的な検討を進めています。
「酸って名前がついているのだから、当然、酸っぱくなるのではないのかしらん。」と思うかもしれませんが、名前につられて簡単に判断をするのは、蹴った石こそ蹉跌の石となりかねません。 試しにL-グルタミン酸ナトリウムが主な成分である調味料を購入し、水に溶かしてみてください。 L-グルタミン酸ナトリウムを水に溶かしても、理論上、pHにほとんど変化はないので、酸っぱくならないと筆者は予測します。
とは言え、現時点では、「どうして酸っぱくなるのでしょうか」という問いに対しては、理論上、イノシン酸で説明できると主張してよいと考えています。 また、「どうして旨味が減るのでしょうか」という問いに対しても、イノシン酸で説明できるとの仮説を立てて、仮説を補強する情報を収集しています。 詳細は、いずれArticleでじっくり書きたいと思っています。
美味しいという言葉は多義的ですが、これらの理論生化学的な研究を進めることで、 理論的な裏打ちをもって、美味しい(旨い)出汁をつくる方法を提案したいと考えています。
Articleのアウトラインはできているのですが、いつ完成するかなぁ。。。
あまり筆者の日常感が漂わない「diary」なので、筆者の周辺の事物に関することを著述します。
筆者は、散歩(という徘徊)を能(よ)くします。 ティータイムと称し、緑茶を能(よ)くすすります(肝毒性を呈するぐらいに。)。 お茶うけとして、かりんとうがあったら(その製法を思い描いたりしながら)ニヤニヤします。
某山ガールアニメ的に、「おじいちゃんか!」という突込みを入れられそうですが、何を隠そう、おじいちゃんです。
最近、俳句と短歌を詠じています。やはり、おじいちゃんです。
冬の時節、とある浜を散歩していた際、浜一面に貝殻の破片が散らばっていました。 この情景をもとにして、俳句を詠じました。
冬の浜 散る貝集む こどもかな
(冬の浜、散る貝といった厳しい情景とは対照的に、貝集めに没頭するこどもの生命感に感じ入る。また、自身も貝集めに没頭し、童心であることよと、感じ入るものである。)
散る貝や 集めるこども 浜の玉
(浜で無造作に砕け散っている貝であっても、それを集めているこどもにとっては、宝石のようなものである。また、そのようなこどもは、生命感にあふれ輝いているものであり、まさに子宝といった趣である。)
春の陽気とも思える温暖さの中、公園を散歩している時の情景をもとに、短歌を詠じました。
けふ陽気 あす如何なるか 霞空 枝木に蕾む 寒の桜よ
(今日は暖かいが、明日はこの霞空がどうなるかわからない、三寒四温の時候、寒桜は蕾をつけつつあり、春の近さを物語っていることだ。私の心も今日は陽気ではあるが、明日も陽気とは限らず、その見通しは霞空のようにわからない。しかし、寒桜の花が開ける萌しが見られるように、私の心が明ける兆しもきっと見られることだろう。)
1月26日から通常国会が始まりました。(日記(diary)というより、もはや時事問題をあつかっているページですね。。。)
政府は、本国会において岩盤規制に穴をあけるとし、その課題の一つに「農協改革」を挙げています。 政府の主張のポイントは、『「農協改革」をすることによって、各地域の単位農協の自主的努力を促進し、以て農業の成長産業化を図る。』というものです。
しかし、「農協改革」のメニューと想定されるものを読むに、 裏の主張は、『「農協改革」をすることによって、農協の競争上の地位を一般企業と同等のものとし、以て一般企業の農業参入の促進を図る。』ではないかと思料します。 というより、政府が本当にやりたいのは、各地域の単位農協の経営力の向上以上に、一般企業の農業参入だというのが筆者の読みです。
今般、政府が「農協改革」を推進するにあたり参照していると考えられるのは、 平成26年6月12日に内閣府規制改革会議農業ワーキング・グループが提出した、 「農業分野に係る答申案」です。 本答申案の5頁以降に、「④農業協同組合の見直し」という事項があり、次の提言が列記されています。
ア 中央会制度から新たな制度への移行
イ 全農等の事業・組織の見直し
ウ 単協の活性化・健全化の推進
エ 理事会の見直し
オ 組織形態の弾力化
カ 組合員の在り方
キ 他団体とのイコールフッティング
以下、産業に関係する主な提言(ア、イ、ウ)を見ていくことで、「政府が本当にやりたいのは、各地域の単位農協の経営力の向上以上に、一般企業の農業参入」という筆者の読みを傍証します。
アについては、現在、中央会が単位農協に対して行使している、監査権、指導権を撤廃する方向で検討が進められています。 政府は、中央会の監査、指導は、単位農協が自立した経営主体として運営するための制約であるとの認識のようです。 なので、中央会の監査、指導を撤廃すれば、単位農協は自ずから自立した経営主体に変貌するとの見立てのようです。 しかし、現実はそんなに簡単に行くとは思えません。
単位農協にとって、監査や指導そのものが不要なのかどうかと言えば、そうとも言えないと思われます。 中央会がこれらを実施しなくても、結局、監査は外部の公認会計士、指導はコンサル会社に依頼することになると考えられます。 これまで中央会に支払っていた監査・指導費を、公認会計士、コンサル会社に支払うことになれば、 中央会の監査・指導を撤廃するからといって、単位農協の機動的な費用確保に寄与するとは限りません。 また、地方の周辺地域には、公認会計士もコンサル会社もないのが一般的です。 人材が不足しており、企画力に乏しい地方の周辺地域の単位農協は、非常に厳しい状況に追い込まれることでしょう。
イについては、全国農業協同組合連合会(全農)と経済農業協同組合連合会(経済連)の株式会社化が謳われています。 全農と経済連は株式会社化し、経済界と迅速な連携を図り、グローバル市場における競争も含めたバリューチェーンの中で、大きな付加価値を獲得することが望まれるとしています。
株式会社化すれば、競争力が強化されるという見立てのようですが、株式会社化は、競争力強化の必要条件でも十分条件でもありません(世の中の株式会社はすべからく競争力が強化されているという命題は明らかに偽でしょう。)。 正直、イについては、ロジックがあまりに短絡的すぎて、筆者には意味不明でした。ただ、全農や経済連が株式会社になれば、これらは他の一般企業と同等の競争環境に置かれることになります。 競争環境が厳しくなれば、自ずと競争力強化をしないといけないよねということが言いたいのかもしれません。
ウについては、単位農協が有している経済事業と信用事業のうち、信用事業を農林中央金庫等に譲渡することで、 経済事業に単位農協が全力投球できるようにする旨が、謳われています。
単位農協は農産物販売等の経済事業と金融関係の信用事業の兼業を営んでいます。 一般に単位農協の経済事業は赤字、信用事業は黒字であり、経済事業の赤字を信用事業の黒字で補填して経営が成り立っています。 なので、単位農協から信用事業を無くし、経済事業だけを残すとどのようなことが起こるのかは、火を見るより明らかです。余程のエリート単位農協でなければ、経営は破たんします。 なお、一般企業では信用事業と経済事業の兼業は認められていませんので、この提言が実現すれば、単位農協と一般企業は同等の競争環境に置かれることになります。 イと同様、競争環境が激化すれば、農協の競争力が高まるということを期待しているのでしょう。
以上、次のとおりまとめます。
○農協は一般企業と同等の競争環境に置かれる。これは、一般企業の農業分野への参入障壁が下がることを意味する。
○農協の競争力は、競争環境に置けば自然と向上すると考えられており、農協の競争力向上のための支援に係る積極的な提言はない。
○一部の自立的な経営力のある単位農協以外は、信用事業を失うことで経営不振又は破たん。特に、地方の周辺地域では人材不足等で経営が行き詰る蓋然性が高い。
そういったわけで、「政府が本当にやりたいのは、各地域の単位農協の経営力の向上以上に、一般企業の農業参入」という主張、何となく妥当っぽい(夕立(艦これ)的に)気がしませんか。
「農業改革」の射程について蛇足を。 「農協改革」の方向性からは、地方の周辺地域が一層追い込まれることが読み取れますが、 政府(総務省?)が地方の都市部に人口を集中させるスマートコミュニティ構想を抱いているのであれば、 単位農協の消滅、ひいては地域コミュニティの消滅は折込済みということになるでしょう。 また、自立的に単位農協の経営が成功したのなら、それはそれでよかったねということになるので、 合理性の観点からは「農協改革」を進めない理由がないのです。実にうまい土俵だなぁと思います。
ただ、私なんかは、都市部と山間部の緩衝地帯として、地方の周辺地域が存在している方が、 国土保全、減災、鳥獣被害の抑制等の外部効果が見込めるのではないかと思っているので、 もし、単位農協が、経済事業の赤字を信用事業の黒字で補填して経営することで、地域集落の維持に寄与しているのであれば、 その意義をもう少し捉えなおしてみてもよいのではないかと思います。
本日、日本のプライムミニスターが衆議院の解散を11/21に実施することを正式に表明したそうです。 統治者の視点から見ると、これは素晴らしいリスク管理措置だと思います。しかし、一選挙人の視点から見ると、これはブラックジョークだと思います。
消費増税に係る判断は、二律背反的であり、目に見えている地雷です。 増税をしても、見送っても、長期的に見れば野党に付け入られる隙を与えることになります。 増税をすれば、「経済指標が低調なのは増税のせいだ」ということになりますし、増税を見送るにしても、「経済指標が低調なのはアベノミクスという政策路線のせいだ」ということになります。
政権は、こうした小さな、しかし明白な傷口を広げられるのを看過することによって、緩慢な、しかし着実な壊死へ向かっていきます。 というのも、批判に対して後手に回ってしまいますから、主導権を握れなくなってしまいます。
「事後対応より未然予防。」傷口が浅いうちに野党を叩き、後々、政権が他律的に退陣に追い込まれるリスクの低減を図る。 解散の必要性が誰にもピンとこないうちに、主体的に手を打っていくというのは、統治者の視点から見ると素晴らしいリスク管理措置だと思われます。
今回の選挙で問われているのは、表向きは「増税見送りの可否」だとか「アベノミクスの正統性の可否」だとかと言われていますが、 本質的には、単に政局的な問題として、安倍政権を長期政権にしてもいいかということが問われていると見るべきです。
他方、この状況、一選挙人の視点から見ると、ブラックジョークだと思います。
増税見送りは潜在的には国民から歓迎されていると思われます。 増税を見送りにしたことについて積極的に心から反対する殊勝な国民がいれば、そもそも、増税は日本の政治史で然程重要な事案ではなかったことでしょうに。。。 また、アベノミクスは期待で動いている世界なので、「まだ効果が出るまでに時間がかかるが、これまでにこのような成果が出てきている。」と主張し、 その正統性の維持を図ることは、傷口が浅い段階では依然として有効なロジックだと思われます。 政策的観点から言えば、与党に投票しない積極的な理由は見当たりません。
他方、野党がやっきになってアベノミクスを批判したところで、積極的かつ有効な代替案を示せるのかどうか、期待できません。 また、代替案を示したところで、実現可能性や実行可能性があるのかどうか、期待できません。 政策的観点から言えば、野党に投票する積極的な理由を見出すのは困難です。
これらを比較衡量すると、一選挙人には、選択の余地のない選択肢が提示されているということを、深く認識せざるを得ません。 政策的には支持できるものの、総体としては国民を単に政争の具に供することが透けて見える行為に、単純に迎合してよいものか。。。
・・・もはや、ブラックジョークに対しては、ユーモアで対抗するというのも一興かもしれません。 今回の選挙では、本質的には安倍政権を長期政権にしてもいいかということが問われていると思うので、 例えば、自分の選挙区は関係ないけれども、投票用紙に「プライムミニスター(はあと)」などと記入して、「意味のレベル」で政権を支持するというものです。(政治的には無効票を投じるということです。)
(※このようなアイロニカルな戦略が効力を発揮する、選挙制度上の回路があればよいのですが、哀しいかな。そうはなっていないのですよね。消極的支持すら積極的支持に変換・解釈するのが、選挙制度という装置。)
[2014/11/19 参考追記]
「一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい。 というのは、よくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、たほう、表向き悪徳のように見えても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされるばあいがあるからだ。」(マキアヴェリ.君主論.中公クラシックス(2006), p.119)
最近、懐奘著『正法眼蔵随聞記』を読んでいます。
懐奘は鎌倉時代の禅僧です。永平寺(曹洞宗)の開祖、道元の直弟子であり、道元に次いで永平寺の二祖となった高僧です。 『正法眼蔵随聞記』は懐奘が師道元の言葉を日々書きとどめたものを、(おそらく弟子の誰かが)編纂した書物です。 道元の主著は率直にして難解な書物として名高い『正法眼蔵』であり、これの理解に資することから、『正法眼蔵随聞記』と呼称されるに至ったようです。
読んでいると、この書物には血が通っていると感じられます。フリードリヒ・ニィチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は血によって書かれた本であると、ニィチェ自身が言及していましたが、 それと似たようなもので、『正法眼蔵随聞記』も、「道元禅師はかく語りき」という形式で、禅僧の問題意識をとても具体的に活写しています。以下、例を示します。
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道元禅師は、夜話の際に次のようなことをおっしゃいました。
「人がやってきて、その用事についてやりとりしていると、人に頼みごとをしたいとか、訴訟等をおこしたいとかで、一通の手紙をしたためてくれないかというような話になることがある。 このような時に、『私は世俗の人として生きている者ではありません。世を離れ世から隠れている身なので、在家の人に、身の分限に合わないことを言うのは、あってはならないことなのです。』と言って、 その人の頼みごとを引き受けないというのは、確かに、世俗に生きていない者の道理としては適っているように思われる。しかし、その心中を吟味したときに、 『私は世を離れ世俗に生きていない者であるからして、身の分限に合わないことを言えば、きっと世間の人は気分を害するだろう。』と思って、頼みごとを聞かなかったのだとすると、 実のところ、これは自分にとらわれており、人からよく見られたいということなのである。そのような時に臨んでは、ただ、よく自身の心中を吟味して、眼の前の人のために少しでも利益となることを、 世間の人がどのように思おうともなすべきなのである。」
わたし、懐奘は次のように問いました。
「確かにそのとおりです。ただし、善いことであって人の利益になるであろうことを伝えたいので、手紙をしたためて欲しいという場合であれば、それはごもっともだと思います。 もし、嘘をついて人のものを取ろうと思っていたり、人を陥れようとして悪いことを言おうとしたりしている場合であれば、手紙をしたためるべきでしょうか。」
道元禅師は、次のように答えました。
「内容が道理に適っているかどうかは私の知るべきところではない。ただ、手紙をしたためてほしいというのであれば、したためるだけである。 その手紙には、道理に適っているかどうかによって判断をするべきである旨を書けばよいのである。手紙を受け取って判断する人が、道理に適っているかどうかを明らかにするだろう。」
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これを最初読んだ時、やけに具体的な解決方法を示しているなぁと思ったものです。考え抜いた末の見解であることが、一読してうかがえます。 おそらく、かつて道元はこのエピソードのように手紙をしたためてくれと依頼を受けた際に、「世を離れている」という理由から、手紙を書かなかったのでしょう。 当初、それが妥当な行為だと思おうとしていたけれども、喉元過ぎてもなお熱さを感じて、ずっと吟味し続けた結果、この見解に至ったというのが想像されます。
心中を吟味するということは、『正法眼蔵随聞記』を読む限り、道元が非常に重要視していたことの一つです。
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道元禅師は、おっしやいまいました。
「いにしえの教訓に、『三回思い返した後で、人にものを伝えよ』というのがある。 その心は、何かを言おうとするときも、何かを行おうとするときも、かならず三回思い返した後に、実際に言ったり、行ったりするべきであるということである。 自分で思うことや言うことには、悪いこともあるだろうから、まず、仏道に適っているかどうかをかえりみて、自分や他人のために利益があるかどうかをよくよく吟味した後、 善であると思われるなら、実際に行ったり、言ったりするべきである。」
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現代的には、「買い物に行って、三度思い直してもなおそれが欲しいなら、買うべきである。」というような教訓(?)として生きているような気がしますが、 道元の生きていた時代ですら、これが訓示されていたあたり、いつの時代も人の世の蹉跌の石は変わらぬものと思ってしまいます。
なお、ここで「善であると思われるなら(※原文では「善なるべくんば」)」という限定句がついていることには、注意を払っても払いすぎることはありません。 道元は、吟味の結果を「善である(善なり)」と断定していません。吟味した結果すら、疑わしくなることがあるということに極めて自覚的だったようで、次のようなことも言っています。
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道元禅師は、一日の参学のついでに、次のようにおっしやいまいました。
「学びの道にいる人は、自分の理解に執着することがあってはいけない。 たとえ、確信するところがあったとしても、ひょっとしたら、それではよくないということがあるかもしれない、これよりもっとよい理解があるのではないだろうかと思って、 広く知識を求め、先人の言葉を尋ねるべきである。また、先人の言葉であったとしても、強く執着してはいけない。 ひょっとしたら、これもよくないかもしれない、信じるにつけても実際にはどうなのだろうと思い吟味して、それが優れていると思われるなら、依拠するべきなのである。」
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昨今の禅のイメージは、「とらわれない生き方」だとか、ソフトな印象をあたえるようなものであるように思われますが、 「とらわれない生き方」をするために、「徹底的に吟味にこだわる」生き方をしているという、苛烈な一面があるということを看過してはならないと思います。
昨今、後悔を解消するために、「過去に起こったどのようなことであっても、今の自分を形作っているのですよ」と教えるようなことはよく聞きます。確かにこれも吟味の一つとは思いますが、 「今の自分を変え続けるために、過去に起こったことを、敢えて割り切らずにおきましょう」と教えるようなことは、私が寡聞なるが故か、世間的な受けがよくないが故か、なかなか聞かないものです。
皆もすなる日記といふものを、吾もせんずるなり。日記に書きつけるは身辺雑記といふからに、 ポテトチップスと東方を題目にとりてみたるが、後はともあれ、前はいかに。身辺雑記にあらざるやうな気もぞする。
職業柄(?)、スーパーマーケットに行くときには、しばしばポテトチップスを購入します。
そんなに購入して何をしているのかと言うと、チップカラーの観察をしています。 チップカラーとは何かというと、ポテトチップスの色の明度のことを言います。白くて明るい程、チップカラーは良好であると判断します。 (比色計があるわけではないので、目視観察での判断になりますが。)
私たち一般消費者は、年間を通じてポテトチップスが店頭に並んでいる光景を、当たり前なことと見做しているかと思います。 しかし、これもまた当たり前なことですが、原料ばれいしょは一年中栽培されているわけではありません。
ポテトチップスの製造には、通常、北海道産のばれいしょが用いられていますが、北海道産のばれいしょの収穫時期は秋~冬です。 また、量は多くありませんが、本州産のばれいしょも用いられています。本州産のばれいしょの収穫時期は夏です。 時期によって、産地、品種、貯蔵期間の異なるばれいしょがポテトチップス製造に用いられており、これによってポテトチップスの周年供給が実現しています。
あれ、春は?と思った方。鋭いです。4月から6月の期間は、昨年秋の収穫後、長期貯蔵している北海道産のばれいしょを使い切る時期に相当します。 ばれいしょを長期貯蔵すると、品位が低下する(でんぷんが還元糖に分解される)ので、一般的にチップカラーが悪くなります(焦げます)。 製造メーカーからすると、品質を維持することが非常に難しい時期ですが、チップカラーを観察している者からすると、非常に面白い時期です。 メーカーの品質管理の取組が、製品から垣間見える時期だからです。
そういったわけで、「百聞は一見に如かず」です。
暇で、お腹がすいて、無性にポテトチップスを貪りたい方は、プレーンタイプ(うすしお味)のポテトチップスを、メーカー間で比較してみてください。 おそらく、大手2メーカーを比較するだけでも、こんなに違うの?という感想を抱くかと思います。
最近は艦隊これくしょんが流行しているようで、世代のうつろひを感じますが、私は相変わらず東方でシューター(しかもキーボードシューター)をやっているのでありました。
初めて手にしたのが東方紅魔郷。それも5年くらい前のことでありました。 その間、何回もExtraステージに挑んできましたが、阿鼻叫喚のピチューン祭りを繰り返すばかり。
しかし、先日(4月19日)、「なんかいけるんじゃないか?」という勝利の予感(※神の啓示)がしたので挑んでみたところ、 ようやく、ようやくクリアしたのでありました。残機はゼロ、ボムもゼロでありました。夜半歓喜の声を、雄々しく騒々しく立てたのでありました。
調子がよいと、他の作品にもつい手が伸びるもの。 東方風神録もExtraがクリアできていなかったのですが、先日(4月25日)、再び勝利の予感(※神の啓示)がしたので挑んでみたところ、 辛くも、そう、非常に辛くもクリアしたのでありました。敵スペルカードが4つ残っている状態で残機ゼロ。クリア時にはボム(パワー)もゼロ。もはや執念のなせる業でありました。
東方の初期作品は、「知恵で勝つゲーム」だったように思われますが、後期作品になるにつれて「ボムで勝つゲーム」になっているような印象です。 また、初期作品は「負けないパターン」があったのですが、後期作品になるにつれて「勝つためのパターン(※必ずしも負けないわけではない)」に変わってきたような気がします。 あまりボムを多用したくないプレイヤーにとっては、東方風神録以降はストレスを大きく受ける作品群だと思います。(地霊殿や星蓮船のExtraは無理。。。)
巷間、STAP細胞を巡って、様々な報道、情報発信、意見交換等がなされているのに便乗して、わたくしといふ者も思ふところを備忘録的に書きつけてみようと思います。 タイトルにも記載していますが、テーマは「齟齬」です。以下、やや散文的な印象を与えるかと思いますが、ご容赦下さい。
平成26年4月1日、理化学研究所は、平成26年3月31日に「論文の疑義に関する調査委員会」が理化学研究所理事長宛てに報告した、論文の疑義に関する調査報告書を公表しました[1]。 私は、この調査報告書を読んで、その内容にとても違和感を感じました。一言で言うと、「調査報告書なのに、どうしてこんなに扇情的なのかしら」です。 例示します。以下は、当該調査報告書のまとめの章から引用した文章です。([1], p.9参照)
これは研究者としての未熟さだけに帰することのできるものではない。
このような行為やずさんなデータ管理の背景には、研究者倫理とともに科学に対する誠実さ・謙虚さの欠如が存在すると判断せざるを得ない。
通常、この手の調査委員会に求められることは、何が事実であるのかを、依頼者に対して報告をすることです。 理化学研究所の内部規定である「科学研究上の不正行為の防止等に関する規定」(平成24年9月13日規定第61号)([1],別紙参照)の第16条によると、 理化学研究所が設置する調査委員会についても、通常の調査委員会の例から漏れていないことが読み取れます。
第16条 調査委員会は特段の事情がない限り調査の開始後150日以内に、次の各号に掲げる事情の認定を行うとともに、 当該調査の結果をまとめ研究所に報告する。
(1)研究の不正が行われたか否か
(2)研究の不正が行われたと認定したときは、その内容、研究不正に関与した者とその度合、研究不正と認定された研究に係る論文等の各著者の当該論文等及び当該研究における役割
(3)研究不正が行われなかったと認定したときは、通報者の悪意に基づくものであったか否か。
然るに、本調査報告書では、調査委員会は倫理的な判断にまで踏み込んでしまっています。しかし、彼らにそのような権限は与えられていません。 倫理的な判断にまで踏み込んでいるという点で、調査報告書に期待される客観性を損ねており、不必要な予断を与えるような報告をするという点で、慎重さを欠いています。 科学者の倫理が云々等と勿体ぶって言う前に、調査委員会としてその規定上期待されている役割を、粛々と果たしてください、と思ったのは私だけでしょうか。
続けます。調査報告書の公表後、STAP細胞の実在性に対して、報道機関や専門家等から疑義の目が向けられています。 小保方氏が4月9日に記者会見を実施した際、「我々は何をもってSTAP細胞が存在するということを信じたらよいのですか。」という質問を小保方氏にぶつけた記者がいたのは、とても印象的でした。
しかし、冷静になって考えてみてほしいものです。調査委員会の役割は、研究に不正があったかどうかを調査して報告するというものです。 彼らは、研究結果がどれぐらい科学的に確からしいものなのかを判定する役割を持っているわけではありません。 (故に、「研究所の調査報告書は、STAP細胞の実在性についての科学的検証が含まれていないから不十分だ」等とのコメントは、頓珍漢のなせる業です。)
STAP細胞に関する論文に不正があったということと、STAP細胞の実在性が否定されるということは、 論理的には必ずしもイコールで結ばれないのですが、どうも巷間、これらをイコールで捉える風潮があるように思われます。 逸話とは言え、かつてガリレオ・ガリレイが宗教裁判で地動説を撤回しなかったのを彷彿とさせるかの如く、 科学が宗教にとって代わった現代、もはや科学裁判というべき様相を呈している中、小保方氏が「STAP細胞はあります。」と主張していることを理解するには、 理化学研究所がどのように「研究不正」を定義しているのかと、小保方氏の論文について何が「研究不正」と結論付けられたのかと、原著論文の内容を理解することが重要です。
先にも紹介した「科学研究上の不正行為の防止等に関する規定」(平成24年9月13日規定第61号)の第2条第2項に、「研究不正」の定義が記載されています。
第2条 2 この規定において「研究不正」とは、研究者等が研究活動を行う場合における次の各号に掲げる行為をいう。 ただし、悪意のない間違い及び意見の相違は含まないものとする。
(1)捏造 データや研究結果を作り上げ、これを記録または報告すること。
(2)改ざん 研究資料、試料、機器、過程に操作を加え、データや研究結果の変更や省略により、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。
(3)盗用 他人の考え、作業内容、研究結果や文章を、適切な引用表記をせずに使用すること。
大雑把な定義だと思います。捏造については、どのようなデータや研究結果を作り上げることが捏造に相当するのかがわかりません(つまりこの定義は無内容!?)。 改ざんについても、「研究活動によって得られた結果等」という、非常に便利で危険な語が含まれています。「等」に何を読み込んでいるのか、皆目見当がつきません。 このような定義だと、何を捏造とするか、改ざんとするかは、調査委員会に広く裁量が認められているというように読めます。
続けます。調査報告書では、Obolata et al., Nature 505: 641-647(2014)[2]の論文について、2つの点で研究不正があると結論しました。 以下の(1-3)については改ざん、(1-5)については捏造と判断しています。(なお、(1-3)及び(1-5)という連番は、調査報告書に依拠しました。)
(1-3) Figure 1iの電気泳動像においてレーン3が挿入されているように見える点。
(1-5) Figure 2d, 2eにおいて画像の取り違えがあった点。またこれらの画像が小保方氏の学位論文に掲載された画像と酷似する点。
(1-3)について、小保方氏は、データに加工があっても結果の真正性は変わらないので、改ざんにあたらないと主張しています。 私見では、小保方氏のこの主張は、全面的に正当化できないにしても、無理筋でもないと思われます。
レーン3の電気泳動像は別のゲルでの電気泳動結果の画像を引き延ばして挿入したものであると、調査報告書は結論しています。 一般的には、画像を処理する行為自体が、結果に疑義があることを示唆するかと思いますが、このケースに限って言えば、単に画像を引き延ばしたに過ぎないとも言えます。 というのも、電気泳動の時間を長くとれば、加工して得られた画像と同じように、電気泳動像は実際に引き延ばされるからです。
重要なのは、レーン3に挿入された電気泳動像が、T細胞受容体遺伝子のDNAのPCR産物の泳動像であるということです。 これが正しいのであれば、画像の引き伸ばしというデータの加工行為があったところで、実験結果が示唆すること (Oct4-GFP+ 細胞(※STAP細胞)は、セルソーターを用いて単離したCD45+細胞(リンパ球)に非意図的に混入したCD45-細胞に由来するのではなく、 CD45+細胞を処理することで得られたこと)に、おそらく変更点はないでしょう。
つまり、「研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工」しているわけではなく、「真正なものを真正なもののまま加工」していることになるので、 理化学研究所が定義する「改ざん」にはあたらないという主張は、技術的にはあり得えます。 ただし、非本質的なところで揚げ足を取られないようにするためにも、小保方氏は、清書用に、同一ゲルで電気泳動した図をとる必要があったと思います。
(1-5)について、小保方氏は、正しい画像が存在しているので、捏造に当たらないと主張しています。 これについては、2つの要因によって、私は批判も擁護もできません。 一つには理化学研究所の規定する「捏造」の定義が明瞭ではないこと、もう一つには、正しいとされる画像が公表されていないことによります。
なので、Figure 2d, 2eで主張されていることについては、判断を留保する必要があると考えます。 Figure 2d, 2eで主張されていることは、「STAP細胞がin vitro(試験管実験)で、実際に他の細胞へ分化する能力がある」ということです。これについては、私は判断できません。
ただし、Figure 2b, 2cによると、細胞の多能性を示唆する遺伝子の発現が観察されることや、DNAの脱メチレーション(環境因子による遺伝子修飾の初期化)が観察されるので、 遺伝子調節のレベルで言えば、「STAP細胞はあります」という小保方氏の主張は、まだ理解可能な範疇にあると思います。
現代社会において、個人間での価値観が多様化したかどうかはわかりませんが、少なくとも趣味は多様化しているように見受けられます。 試みに、趣味を話題として人と会話をしてみればわかるかと思いますが、多くの場合、そんなに長くは間が持たないことでしょう。 互いが互いに趣味の概要を披瀝しあって、それで終わりです。趣味を共有していないと、内容が表層にとどまってしまうのですよね。
趣味を話題にするのが難しければ、いったい何を話題にしたらよいのでしょう。 「どんな趣味を有していたとしても、個人間で共通する事柄」を話題にするというのは、私の実践上の回答であり、一つの戦略です。 どんな趣味を有していたところで、日常的にご飯を食べますし、言葉を使いますからね。 食品と言語に関する話題は、比較的、一般受けがいいように感じています。
食品の話題は、これまでに当サイトで何度か取り扱っているので、今回は言語に関する話題提供を。
私は、「変態」と言われると、栩栩然(くくぜん:嬉しげな様子)としてしまう性質を有しています。 「変態」という語は、現代的には、アブノーマルな性癖という、やや否定的なニュアンスを伴って用いられていると思うので、 「変態」と言われて喜んでいること自体が、私の高い変態性の証左と見做されることでせう。 しかし、「変態」という語の字義を分解して考えると、まさに栩栩然とする解釈が成立するのです。
「変」は「䜌」と「攴」から成立しています。「䜌」は「言葉がもつれていること」、「攴」は「撃つ」を意味しているので、 「変」は「言葉のもつれを解消すること」と解釈できます。
「態」は「能」と「心」から成立しています。「能」は「力があること」、「心」は「心構えがあること」を意味しているので、 「態」は「力を発揮する心構えがある様子」と解釈できます。
したがって、「変態」は「言葉のもつれを解消することのできる心構えがある様子」と解釈できます。
哲学者と言われる類の人間には、大きく分けると2タイプいます。一つには問題に対する回答を構築したがるタイプ、他方には問題そのものを解消したがるタイプ。 私はどちらかというと後者に与する者なので、「変態」という語は、まさに当を得たものだなぁと感じ入ってしまいます。我、栩栩然として變態なり!
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どおでもいいですが、4月でまた異動しました。青天の霹靂でした。1年に1回名刺を作り直していることになります。
これまでは、事業を動かす仕事をしていたのですが、今回は総務・総括的な仕事です。 弊社における、文字どおりポリティカルな事案の対応をしています。
・・・私は儒教より道教の方が好きなんですけどねぇ。室町時代における臨済宗の禅僧のようになれということなのでしょうかねぇ。
書店で見かける書籍のラインナップは、今がどのような時代なのかを反映していると考えられます。 そして、私は書店に行ってもなんだか退屈だなぁと感じています。
私は最近、「心理的・サプリメント的な書籍」が増えたなぁという印象を持っています。 「心理的・サプリメント的な書籍」とは私の造語ですが、 主に、HOWTO本(君はこうやって動いたらいいんだよ系の本)、 自己啓発本(君はこんなにもすごくなる可能性を秘めているんだよ系の本)、 自己肯定本(君はそのままでいいんだよ系の本)の類のことを指示します。
これらの書籍が書店を跋扈する状況から、現代に生きる人は、自己に非常に強い関心を持っており、自己救済を指向していると分析します。
(※最近の若者世代はさとり世代だと、(やや揶揄的なニュアンスを伴って)言われているようですが、 私の眼には社会全体の雰囲気が自己救済(さとり)の方向へ向かっており、若者世代はその時代の雰囲気をもっともよく反映しているかのやうに映ります。 ちなみに、自己に非常に強い関心を持っていることを仏教用語で「我執」と言い、「悟り」からは対極にある状態を意味しているのですが、 現代人は「煩悩即菩薩。菩薩即煩悩。」と(横着に)詠唱することで、超越してしまっているんでしょうかね。どおでもいいことですが。)
私はこの状況に言い知れぬ違和感を感じています。 無論、自己救済が生活を善いものにしようとする重要な試みであることを否定するつもりはありません。 というより、それしか解決の手段がない場合があるということも知っています。 しかし、本来、社会の問題や周囲の状況の問題であり、これらの見直しが必要なのではないかと思われるような事柄にまで、 自己救済を指向しはじめるのは、明白な誤りだと指摘したいです。 自己救済は、社会の問題や周囲の状況の問題を隠蔽し、これらの問題を個人の問題に矮小化する劇薬でもあります。
書店に行っても退屈だなぁと感じるのは、「心理的・サプリメント的な書籍」が跋扈するのに相対する形で、 社会理論的な書籍が没落の一途を辿っていて、読みたい本がほとんど見つからないからなのです。 自己をどう処するのかということへの関心が高まり、社会や周囲をどう捉えるかということへの関心が薄れていくのは、 我々が現代に生きることの困難さの局面を示しており、私にはどうもそれがよろしいことであるやうに思われません。
続けます。社会や周囲をどう捉えるかという関心が薄れるというのは、社会や周囲が個人にとって希薄な存在になっていることを示唆します。 何故、社会や周囲が個人にとって希薄な存在になっているのかついては、複合的な要因が考えられます。 個人の側から見ると、社会や周囲に働きかけても社会や周囲は変わらないという諦観によるもの。 社会や周囲の側から見ると、個人の「個性」に配慮して、個人に影響力を行使しようとしなくなったこと 又は影響力を行使するにしても個人に気づかれない形で行使しようとしていることによるものが要因として考えられます。 いずれにしても、個人にとっては、社会や周囲が個人に関心を向けていないように感じられることでしょう。
先の段落の内容をまとめ、「個人が社会や周囲に関心を向けなくなる趣向は、社会や周囲が個人に関心を向けていないように感じられる状況が生む。」と定式化しましょう。 私は、この定式を裏返すことで、「社会や周囲が個人に関心を向けているように感じられる状況を生めば、個人が社会や周囲に関心を向けるようになる。」という仮説を提示したいと思います。
「社会や周囲が個人に関心を向けているように感じられる状況を生む」ことを実現するため、実践的にはどうアプローチしたらよいのでしょう。 分析を続けるため、アラン・バディウ(フランスの現代哲学者)が提示した分析の枠組みを援用したいと思います。
アランは数学の集合論で用いられる概念である「所属」と「包含」を、政治用語に転用するという興味深い試みをしています。 アランは、「所属」と「包含」を政治用語に転用する際、ある状況に「所属」する項を社会に所属するという意味でのそれぞれの個人、ある状況に「包含」される項をある社会によって表象されるコードとしてのそれぞれの個人として解釈しました。 そして、ある状況に「所属」し「包含」される項を「通常の項」、「所属」しないが「包含」される項を「突出物」、「所属」するが「包含」されない項を「特異な項」と定義しました。
・・・と、紹介してみたものの、多分わけがわからないと思います。思い切った解釈をします。 「所属」するとは、個人が社会や周囲の中に、現実にそして単純に存在していることを意味します。 「包含」されるとは、個人が社会や周囲によって、どのような人として捉えられているかを意味します。 誤解をおそれずに言えば、「所属」とは存在的なものであって「包含」とは意味的なものです。
あなたの周囲に、例えば、「この人は私たちと同じ社会(共同体)に今いて、話を聞かないがいいヤツとして知られているんだよね。」という人がいれば、 この人は、その社会(共同体)に「所属」し「包含」されています。そして、これを「通常の項」と言います。
あなたの周囲に、例えば、「この人はもう私たちと同じ社会(共同体)にいないんだけど、話を聞かないがいいヤツだったよ。」という人がいれば、 この人は、その社会(共同体)に「所属」しないが「包含」されています。そして、これを「突出物」と言います。(※イーノックとも言う(笑))
あなたの周囲に、例えば、「この人は私たちと同じ社会(共同体)に今いるんだけど、どんなヤツなのかわからないんだよね。」という人がいれば、 この人は、その社会(共同体)に「所属」するが「包含」されていません。そして、これを「特異な項」と言います。
勘の鋭い方はお気づきだと思います。現代に生きる我々にとって、社会や周囲に「所属」し「包含」されるということは、もはや「通常」であるとは言えなくなりつつあります。 むしろ、社会や周囲に「所属」するが「包含」されないということ、つまり「特異」なことこそ、通常になりつつあると言えます。 「この人は私たちと同じ社会(共同体)に今いるんだけど、どんなヤツなのかわからないんだよね。」という状況では、「社会や周囲が個人に関心を向けているように感じられる状況を生む」のはそもそも不可能です。ハードルが高すぎます。
そこで、実践的には、すごく卑近かつ陳腐なところから出発するしかないんぢゃないかしらんと思われます。 「君ってこんな特徴あるよね」、「君が重要だと思っているものはどんなもの」、「君のスタンスはどのようなもの」等のように、互いに声掛けをすることが、 実は多分に効果的なのではないかと思われます。(個性に配慮して介入しないではなく、個性に配慮するならもっと介入した方がよいのです。) 高齢者の生物学的な孤独死を防ぐために声掛けをしましょうと言われていますが、現代人の意味的な孤独死を防ぐためにも声掛けをしましょう。
(※ここまでくると、現代人が何を期待して「心理的・サプリメント的な書籍」を手にしているのかが明らかになります。 彼/彼女らは「心理的・サプリメント的な書籍」に、声掛けをしてもらっているのです。社会や周囲に「包含」されないことで生じる空虚を、「心理的・サプリメント的な書籍」に「包含」されることで埋めているのです。
我々は、つくづく、意味的な孤独死に耐えることができない生物なんだなぁと、私には思われます。
以前書きましたが(「2013/06/15 社会に表象される事 Item1 自らに死刑を求刑する犯罪者について」参照)、 自らに死刑を求刑する犯罪者は、元々社会に「所属」するが「包含」されない存在でした。 しかし、国家から死刑を宣告・執行されることで、社会に「所属」しないが「包含」される存在になります。 彼らは生物学的な死以上に、意味的な孤独死に耐えられなかったということでしょう。 社会や周囲に「所属」するが「包含」されないことが現代人にとって通常のことになりつつあるのであれば、 我々は誰しも、潜在的には、自らに死刑を求刑する犯罪者になり得ることを理解する必要があります。)
こんなところまで読み進めてしまった君は、ホント変わった人ですねぇ。いやぁ、悦ばしいですねぇ。
新暦ではやや遅いような気がしますし、旧暦だと少し早いような気がしますが、あけましておめでとうございます。 旧年中もお世話になりました。末永くよろしくお願いします。
既にお気づきだと思いますが、サーバーを移転し、無意味に独自ドメインを取得しました。 新サーバーをレンタルした理由は、旧サーバーの容量に限界が訪れたからですが、これは理由の一面でしかありません。
筆者は現在、「批判的に吟味するための研究会(仮称)」なるものを企画しておりまして、本研究会用にウェブサイトを運営しようと考えています。 本研究会の趣旨は、一風変わった人たちがおのおの関心のある題材を持ち寄って、ああでもない、こうでもないと唸りながら、意見交換でもしてみましょうよ、 というようなものです。現在構想中なので、詳細については、後日紹介させていただきまーす。
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日本と他国・他地域との間で、何かを巡って感情的な対立が見られることは稀に思われますが、 対立どころか、縺(もつ)れているものを挙げろと言われたら、捕鯨に関するものを挙げることができるかと思います。
1月18日、駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディ女史は、Twitter上で次のようにコメントしたそうです。
「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています。」
反対しているのは「追い込み漁」という捕鯨方法なのか、その後の「鯨食」まで含むのかどうかわからないあたり、慎重な書き方をしているなぁと思う一方、 このようなコメントを「米国政府として」すること自体は、軽率に思われます。
このコメントに対し、捕鯨を擁護する日本国内の関係者は、「日本の伝統文化だ。」という、半ば祝詞と化した主張で反対の意を示しています。 そして、この祝詞に対して、賛意をもって輪唱したり、 「べつに普段クジラとかイルカとか食べるわけじゃないのに伝統文化だと言えるのかしら」と懐疑的な見方を示したりするという、 半ば恒例行事と化した意見表明がなされています。
私は、「追い込み漁」や「鯨食」について、斯くあって当然という主張をすることは、控えるべきだと思っています。 しかし、某「米国政府」の方のように、普遍主義の衣をまとって、特定の文化圏の価値基準を、有無を言わせず押し付けようとする行為そのものに対しては、強い反対の意を示します。
捕鯨に反対する人達は、様々に反対する理由を並べていると思いますが、その終局的な語彙は、「クジラやイルカは高い知性を有しているので」ということだと思います。
一般の方はどうなのかわかりませんが、私は、クジラやイルカに高い知性があることは認めることができても、 だからといって、捕鯨にそこまで感情的に反対する気持ちを共有することができないので、当惑してしまいます。 西欧では伝統的に(遡れば古代ギリシャの「ゾーエー(動物的な生)」と「ビオス(生き方としての生)」の区分に至るのではないかと思うけれども)、 肉体的なものと精神的なものを分かち、後者に尊厳を見出してきたので、高い知性を有するクジラやイルカは、 尊厳のある存在とみなされているということもよくわかります。 でもそれは西欧に伝統的な記述法です。私は、彼女/彼らの主張も根拠も理解することができるのですが、感情を共有していると言えば嘘になります。
「高い知性を有している」という根拠について、少し考えを進めます。 「ある動物には高い知性があるけれども、別の動物には高い知性がない。」という線引きは、 歴史や文化に依存しない本質的な線引きなのか、歴史や文化に依存する偶然的な線引きなのかと問われたら、私は後者が妥当だろうと考えます。 (比喩的に言えば、生物の現在の定義は分子生物学の語彙で記述されていますが、分子生物学が歴史に登場する以前は、違う語彙が使われていただろうと推してはかるだけで、 何らかの線引きは、歴史や文化に依存する偶然的な線引きであることが理解いただけることかと思います。)
そこで、思考実験です。線引きが歴史や文化に依存するものであれば、次のような主張をする文化圏の人を想定することができます。
「我々は古来より、牛には高い知性があるので、尊厳ある扱いが必要であると考えてきた。 単なる解体工場と化した屠畜方法は、牛の尊厳を著しく損なうものであり、我々は牛を喫食する行為に対して、強く反対の意を表明する。」
イルカやクジラには高い知性があるので捕鯨に反対を表明するけれども、普段から牛肉を食べる習慣のある国の人は、 「X国政府として、牛を工場で屠殺することに反対します。牛が殺される方法の非人道性について深く懸念しています。」と言われた時、 どのように感じるのかを、よく考えてみてほしいです。隗より始めていただけるのでしょうか。 もし、ちらりとでも反発を覚えれば、それは、捕鯨反対と言われた時に、私のような者が覚える反発と、同種の反発です。
思うに、政治的には、食文化に対して卓越主義的に介入するのではなく、寛容であることが求められていると思います。 無暗に刀を振るうと、返す刀で自身を切ることになります。
最後に、キャロライン・ケネディ女史のコメントに戻りますが、好意的に解釈して、 「イルカを食べることに反対するわけではないけれども、『追い込み漁』という捕鯨方法は見ていて痛々しく、 イルカの尊厳を損ねているように思われるので、方法を改善して欲しい。」ということを意味しているのであれば、 方法を改善するということも含めて「日本の伝統文化」であって欲しいと思います。
(文章の内容から醸されてくる強烈な毒気を中和するために、たどたどしく、かわいらしく書いているつもりです。 すこし読みにくいと思いますが、ご容赦いただきたいです。)
先日、とある化学物質の専門家が集まって政策の検討会をやるというので、どれどれと思って聴講しにいったです。 そうしたら、なんだかとてもセンスの悪い話をしていたです。これが我が国の現実なのかと思ったです。センスの悪い話の大筋は次のとおりです。
「ある化学物質の濃度が、国の定めた基準を超過している事例がある。 その原因は特定できていない。また、どのような対策が有効なのかも検証できていない。 そこで(?)、この化学物質に対する対策の取り組みを進めるために、効果があるかどうかわからない対策でもかまわないので、 とりあえず対策を(見かけ上)取ろうとしているところに対して、お金を出す仕組みをつくる。」
有効な対策がわからないのに、対策らしきことをやっていればお金を出すらしいです。新手のギャグかと思ったです。 政策の目標は、ある化学物質の濃度を低くすることのはずです。実態として濃度が低くなるかどうかわからないけれども、 自主的な対策的な何かに対してお金を出すというのは、使い勝手のいいお金をばらまきたいだけとしか思えないです。 そもそも、基準を超過しているということが、すでにインセンティブを働かせているです。 わざわざお金を出してインセンティブを働かせる話ではないです。
実態より見かけが大切で、仕組みの有効性より仕組みを作ったということが大切で、適切な対策を立てるよりお金を用意することが大切ですか。 そうですか。そうですか。噂には聞いていたですが、それをさもふつうだと思ってやっているのを目の当たりにすると、とても興ざめするです。
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この一年間を振り返ってみて思うのですが、現実を動かすための調整って大変ですね。 半分以上は、とあるプロジェクトの関係者の調整に明け暮れていたような気がします。 名刺がすごい勢いでなくなりました。
調整をしていて思ったのですが、ほとんどの場合「総論賛成各論反対」であって、そもそも「価値観(:何を善いことだと考えるか)」で対立することはないんですよね。 「各論反対」というのは、結局のところ当事者の利害の話なのであって、最終的に害がなければOKだということなのです。
社会学の世界なんかでは、現代社会は、様々な価値観をもった集団が乱立する「多元社会」だとか言われていますが、 わたしは、日本に限って言えば、実はそんなに多元的な社会ではないと思っています。 たしかに、趣味やライフスタイルは多様化したかもしれません。しかし、亀裂が入るほどの価値観の違いって、そんなにないように思うのです。
昔から、日本に民主主義は根付かないとか言われています。それは、日本には近代的な「個人」が成立していないからという文脈から言われていることですが、 わたしは、日本は、実はそんなに多元的な社会ではないという文脈から、民主主義が可能な条件にあると言えるのだろうかと思っています。
民主主義という制度が必要な社会的な条件って、そもそもなんだろうと考えた時に、次の2つの条件が同時に満たされる必要があると考えています。
(条件1)さまざまな価値観を有した人や集団がいるということ。
(条件2)さまざまな価値観を有した人や集団が同一の制度内で共存しようとしていること。
条件1が満たされていなければ、そもそも皆で物事を決める必要はありません。 一人の価値観が全体の価値観を厳密な意味で代表しているので、論理必然的に独裁制が相応しい社会と言えます。
また、条件1だけが満たされていても、民主主義を帰結するには条件が不足しています。 さまざまな価値観を有した人や集団がいるだけなら、互いに干渉することなくバラバラに生きればよいだけです。 条件2が満たされていないと、あえて皆で物事を決める必要が生まれないのです。
わたしは、日本の社会的な状況が条件1に適合的なのかどうかと問われれば、「然り」とは言い難いように思います。 それは、日本の政党政治の状況からも、醸し出されてくることです。 少し思い出してみてほしいのですが、みなさん、投票の時各政党の何がどう違うのかわからなくて、困った経験はありませんか。 争点となるような対立軸がないですよね。というより、政策的に妥当で適切なラインはみんなどこかしらわかっているので、対立軸を必要としないのが現実です。 それくらいに我々の社会の価値観は均質なのです。
そのような中で、得票数を増やさないといけないというのは、悲劇を通りこして喜劇といってよいものです。 各政党は、他の政党とは違うことをアピールするため、無理やりにでも、そして、不要であっても争点らしきものを作らざるを得ません。 きっと、人々の歓心を買うだけのマニュフェストが、賑やかに咲いては散りゆくことを、今後も繰り返していくことでしょう。
同様の観点から、日本に二大政党制が成立することは、あり得ません。 小選挙区制を維持する限り、自民党と「自民党ではない」党との間での、退屈で極端で破壊的な単振動が繰り返されるばかりです。 一部の識者は、民主主義が成熟することを期待しているようですが、これは、民主主義が成熟する以前の問題です。 繰り返しになりますが、日本の社会的状況は、民主主義が成立するための条件に対して、適合的とは言い難いというのが現実です。
わたしは、昔から一貫して「さまざまな価値観を有した人や集団が同一の制度内で共存」することを志向してきたという意味で、自分自身を民主主義者だと思っています。 日本の社会的状況を考えると、ひょっとしたら独裁制に近い政体の方が全体としては上手くいくんじゃないかという気がしないでもありませんが (相変わらずこの国は強いリーダー論が大好きですからねぇ。)、そうはいってもやはり、一部濃厚な価値観を持った人たちがいるのも事実なので、 当座、民主主義の可能性と限界を考究し続けるんだろうなぁと思います。
どおでもいいですが、条件2(さまざまな価値観を有した人や集団が同一の制度内で共存しようとしていること。)は、考えれば考えるほどに面白いです。 スコレー(暇)のある方は、ユルゲン・ハーバマス、ジョン・ロールズ、リチャード・ローティ、ミシェル・フーコー、マイケル・サンデル、ケネス・J・ガーゲン、シャンタル・ムフあたりの著作を読んではいかがでしょうか。 (そしてわたしに内容を教えてくださひ。)
11月は滅却しそうになるほど忙しかったです。文字通り忙殺でした。 ともあれ、某学会発表が無事に終わり、そして、本邦初にして世界初の仕事が完了しました。 詳述できないのが残念でなりませんが、それとなーく大部の公表資料になっています。
さて、しばらく世の中の流れについていけていなかったので、久しぶりにニュースなどを見ていたのですが、 なんだか、流れについていく必要すらないなぁと、斜視してしまいます。
例えば、なにやら「特定秘密保護法案(正確には、特定秘密の保護に関する法律案に対する修正案)」なるものが25日、衆議院を通過したそうで、 世の中(マスコミや一部の団体?)は、「国民の知る権利が脅かされる」などとして、これに強く抗議をしているようです。
彼らの主張は、次の3点に集約されるかと思います。
これだけ大きなトピックになっている(している?)にもかかわらず、 法案の原文を読んだとは思えない、感覚的な主張ばかりです。
まず、1についてですが、特定秘密に指定できるのは、
「公になっていないもののうち、その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」であり、
「防衛に関する事項」、「外交に関する事項」、「特定有害活動の防止に関する事項」、「テロリズムの防止に関する事項」の4つの事項に限定されています。(第三条及び別表参照)。
意外と知られていないようですが、特定秘密に指定できるのはこれらの事項のうち、さらに特定の情報のみに限定されています。
詳細は原文(1)を参照して欲しいですが、大雑把に言えば、自衛隊の防衛能力や情報収集能力、暗号、安全保障に関する外交機密情報、特定有害活動やテロリズムの防止のために必要な措置や計画などの情報です。
私は、自分の手札を見せながらポーカーをする人って、かなり奇特な人だと思うのですが、
マスコミや一部の団体に代表される世の中は、積極的に手札を見せてポーカーをする人こそ、規範的な人なんだと言いたいようです。
きっと彼らは、銀行口座や暗証番号の情報を開示しろと言われたら、積極的に開示する聖人なのでしょう。
次に、2についてですが、法案は国民の知る権利や取材行為に対して無頓着というわけではありません。第二十一条に次のような記載があります。
特に、第二十一条の第2項は、取材行為に対してかなり考慮した条項であるような気がするのですが、 それでもなお、マスコミや一部の団体に代表される世の中は、法案に抗議をしているようです。 公益を図る目的なんてどうでもよく、ただ私的な興味を満たすために、 法令違反や著しく不当な方法による取材をさせてくれということなのでしょうか。 それだけの覚悟があるなら、なにを今さらおそれることがあるのかという疑問もわいてきますが。。。
最後に、3についてですが、法案の内容について具体的にどうしてほしいという提案もなく、十分審議がなされていないと主張するのは、あまりに無内容すぎます。 彼らの主張を正確に表現するなら、「十分審議がなされていない」ではなく「十分反対がなされていない」です。 ひょっとしたら、彼らは、十分審議さえされていれば、例えば「第二十一条を削除することにする」などのような、 彼らにとって不利になる主張であっても受け入れるのかもしれませんが。。。
「特定秘密保護法案」でもっと注意を払うべきなのは、情報漏えいに対する処罰を厳しくするという仕掛けで、 本当に機密情報の漏えいを防止できるのかという点だと思うのですけどね。今般の情報漏えいの経路は、 人的問題によるもの以上に、情報システムのセキュリティーの問題によるものだと思われますので。
その他、40年ぶりに農政が転換し、減反政策が廃止されるなどという報道があるようですが、実は政策としての「減反」はすでに終わっているんですよね。 現行の制度は、その設計段階においては、農業者・農業者団体が過去の在庫状況から需要見通しを立て、需要見通しに基づいて自主的に生産数量を調整(生産調整)するということが、 理念として謳われています(2)。その理念の実現へむけた農業者・農業者団体の取組みを支援するという観点から、 政府は全国レベルでの客観的な需給見通しの策定・公表を行うという整理になっています。 (ちなみに、需要見通しに基づいて生産数量を調整するなんて、とんでもない。どんどん作れば米価が下がって消費者のメリットになるという発想をする方が世の中にいるようですが、 同じ言葉を工業製品に対しても言ってみてほしいものです。まともな経営センスのある企業であれば、在庫が生じないようにするために、生産量を調整していると思うのですが。。。)
しかし、実際のところ、この制度は当初の理念からはかなり乖離した運用になっていて、 政府が需要見通しを示す他、各都道府県に対して生産数量とその面積換算値を割り当てるという、やや踏み込み過ぎた内容になっています(3)。 理念を主体的にうたった政府みずからが、理念から乖離した運用を行う理由は無いので、おそらく、農業団体等が自主的な取組みを進めきれず、畢竟政府に依存してしまったという構図が透けて見えます。 そして、政府がそれを快く思う理由がありません。
なので、今般、農政の転換だとか仰々しく報道されていることは、けっして制度の見直しの話をしているわけではなく、 制度本来の理念にそったものに矯正しようとしているだけなのが実態だと分析します。 (だからこそ、農水省が割とポジティブに、規制改革会議の民間議員の提案を受け容れられた(利用できた)のだと思います。)
本日、「食品と放射性物質」のArticleを更新しました。
「2013/10/27 土壌Cs濃度推移の評価」と「2013/09/28 作物へのCs移行理論」は対になる論文です。 これらはこの2年間ずっと追ってきたもので、やっと形になりました。よかったなぁと思います。
余裕があれば、作土層からの溶脱を要因とした土壌中放射性セシウム濃度の減衰は指数関数に従うことを、コンパートメントモデルを用いて証明したものも、追記したいと思います。 (証明はしたんですが、何せ執筆するのがしんどいです。かつてフェルマーが「私は真に驚くべき証明をみつけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。」とか言ってましたが、 現在の私は「私は大学微積レベルの普通の証明をしたが、この余暇状況でそれを書くにはしんどすぎる。」と言いたいです。) ともあれ、モデルから示唆されることを一つ述べておくと、仮比重の小さい土壌(黒ボク土など)では溶脱半減期が短くなるので、理論的にはもっと速く、土壌中放射性セシウム濃度が低くなるはずです。
巷間、食品中の放射性セシウムに対する懸念は、随分薄れてきているように思います。 薄れていくのは、それはそれでよいことです。しかし、懸念が薄くなったからといって、問題が無くなったというわけではありません。
Article中の評価結果から、今後、この問題の最終的な解決までに、60年程度を要することが予測されます。(その時にはきっと私は、土とか大気とかに還っていることでしょう。) この間、生産段階での継続した取組みが必要であることに対して、社会的な理解が継続して欲しいなぁと思う次第です。
(騒ぎがないと問題がないと思ってしまうのが、世の中の常ですから。。。)
まさか、夏休みがとれたです。
巷間では、既に9月ですか。
そうですか。そうですか。
これまでに、携帯電話にメールを頂いた方々、返事が出来ず、すみません。 現在、経年劣化によってディスプレイが表示されないのが標準仕様となっています。(つまり、単なる携帯バイブレーター。) 早く買い換えろという説があるので、いづれの御時にか、買い換えます。ちなみにわたしにとっての桐壷はガラケーです。
さて、とりあえず生存や安否確認を兼ねて、近況報告をしようと思ったのですが、 なんだか表現が難しいです。そこで、プラトン以来の伝統である対話形式でやってみようと思います。
Q1: 今、どんな仕事をしているのですか。
A1: 人には言えない仕事をしているデス☆
Q2: その仕事の目的は何ですか。
A2: 人類の生存のためデス☆
Q3: その仕事の成果はどのようなものですか。
A3: これまでの世界の構造が変革されるデス☆
Q4: 詳しく教えてほしいのですが。
A4: 機関の機密保持規定に抵触するデス☆
・・・こんな感じです。 結構真剣に考えたのですが、どうしても中二病にしか見えないあたり、業が深いと思いました。
そういえば、社会人になって学会発表することなるとは思いませんでした。 とりあえず理系学会です。
以上、近況を簡潔にまとめると次のようになります。
「中二病をこじらせつつ、学会発表をするらしい。」
「はじめに」と書いたが、実際には一番最後に書いた。 人の集まるところには、包摂と排除があるというのが、私にとっては素朴に興味深いのだが、 包摂と排除において働いている力学にも、このような「転換」が観察される。 そのため、包摂と排除について、思うところを書いてみることとした。ここで書きつけたトピックは、以下の3つである。 (異様にItem2が濃いのは、熟成の故である。一番理解しやすいかもしれないので、難しいと感じたら、まずはItem2を読むことを推奨する。)
Item1 自らに死刑を求刑する犯罪者について
Item2 人柱について-ねこねこソフト「銀色」第二章より-
Item3 反体制運動について
1.1. 自らに死刑を求刑する犯罪者が犯罪を犯すに至った動機は、「心の闇」などと形容されるように、常識的には要領を得ない。
1.2. 動機の解明が頓挫するなら、自明故に解明する必要がないものこそ動機であることを疑うべきである。
1.3. 自らに死刑を求刑する犯罪者は、社会から排除されることにより、はじめて社会に包摂されることに注目すべきである。 彼らの動機は、社会に包摂されたいという極めて素朴な承認欲であると仮定できる。
1.4. 常識的には、彼らの行為は反社会的であり、社会的承認からは最も遠い。 社会的に承認されたいと思うなら、オプションとして決して選択され得ない行為である。
1.5. しかし、彼らこそこの上なく社会に承認されたいと感じている、限界状況に置かれた人々である。
2.1. 彼らは社会の内に所属していた。しかし、所属していただけであり社会から表象されることがなかった。 彼らは、言わば社会の「内」に締め出されていた。
2.2. 社会の「内」に締め出されていた彼らにとって、承認とは、何がしかの社会に捉えられてあるという、 社会的関係の最基底を為す関係を実感できることである。
2.3. 社会から排除されるとは、社会によって、社会の外に「捉えられる」ということに他ならない。 社会による排除は、社会による包摂に一致する。
2.4. 死刑とは、国家の執行する排除行為である。死刑によって彼らは国家から排除されるが、同時に彼らは国家に自分が生きた証を残す。 彼らの社会的生は、死によってはじめて実現する。
3.1. 社会の「内」に締め出されている者が社会からの承認を渇望する際、死刑制度の活用は、短絡ながらも、極めて的確な手段である。 この場合、死刑制度に正統性を与えるとされる犯罪抑止効果は見込めない。むしろ、死刑制度が犯罪を促進し得る。
3.2. 彼らに死刑を宣告する事は、彼らの「勝利」の宣告である。彼らを死刑に処して猶、釈然としないものを感じるとしたら、 彼らが願望を実現する上での手助けをしたことにしかならないからである。
3.3. 彼らに苦痛を与えるという意味で制裁したいなら、制裁を含むあらゆる社会的なレスポンスを、一切行わないことである。 しかし、これによって彼らが犯罪を繰り返すなら、いずれにしても社会にとって「勝ち目」はない。
3.4. いずれにしても、社会に「勝ち目」がないという意味で、彼らは社会に君臨している。 一方には、社会に所属するが表象されないものとして。他方には、社会に所属しないが表象されるものとして。
1.1. 「銀色」とは、ソフトハウス「ねこねこソフト」が2000年に発売した、全五章より構成されるオムニバス形式のPCノベルゲームである。
1.2. キャラクターはいわゆる萌キャラに相当することから、一般的には明るい印象を与えるかもしれない。 しかし、シナリオは、所謂「普通」として社会に囲い込まれない者の感情や行動を精緻に描きつつ、 陰惨な展開をみせるため、全体的には陰鬱な印象を与える作品である。 (シビアな内容(人身売買、人柱、偏執病的殺人等)を含むためか、PSP等のコンシューマ版への移植はなされていない。)
2.1. 標題に記した第二章では、村落共同体の人柱を題材に、「後味の悪い悲劇」が描かれる。
2.2. 「後味の悪い悲劇」の概要は以下のとおりである。
2.2.1. ある村落共同体内の神社で巫女をしている少女、狭霧は、両親を早くに亡くした孤児であり、 村落共同体で、言われもなく「役立たず」との誹謗中傷を受けていた。 (なお、両親は、かつて村落共同体を流れる川の上流に位置する踏鞴(タタラ)場が洪水に見舞われた際、 人を助けようとして洪水に巻き込まれ、死亡した。)
2.2.2. このような中、狭霧自身は、自分にしかできないことを通して村落共同体の「役に立ちたい」という、強い意志を持っていた。
2.2.3. ある時、村落共同体を定期的に襲う洪水を治めるため、人柱が必要とされたところ、 村落共同体により行なわれたくじ引きによって、狭霧が人柱として選出された。
2.2.4. しかし、くじにはイカサマがあり、村落共同体の意志として、狭霧が確実に人柱として選定されるようになっていた。
2.2.5. ところが、狭霧はそれを承知の上で、自分にしかできないことを通じて村落共同体の「役に立ちたい」という意志を貫き、 自ら希望することであるとして、人柱になった。
3.1. 村落共同体における狭霧の存在は、2.2.1を見れば明らかなように、村落共同体の内部で締め出された存在である。
3.1.1. 狭霧の両親は踏鞴場出身であることが推察されるが、歴史的には、村落共同体(定住農耕民)からすると彼らは差別の対象である。
3.1.2. 狭霧が神社の巫女であることは、彼女が村落共同体内での役回りの対象として表象されない結果、 村落共同体の外部に関わるもの(神社)に、その帰属先が割り当てられたものであることが推察される。
3.1.3. 共同体にとっての「清浄」と「不浄」が、神社で一致していることは、特筆に値する。
3.2. 狭霧は、村落共同体の役回りの一部を構成する「人柱」として表象され、死することによってはじめて、村落共同体の内部に社会的生を実現した。
3.3. 狭霧は、人柱の選出の過程がイカサマであるからこそ、一層、人柱として死することに執着した。
3.3.1. イカサマによる選定は、人柱を担うことができるのは狭霧だけである、という村落共同体の意志表明に他ならない。
3.3.2. 自分にしかできないことを通じて村落共同体の「役に立ちたい」と意志していた狭霧にとって、人柱として選定されたことは至上の機会だった。 逆に、純粋に偶然の課程としてのくじ引きで選出されたのであれば、狭霧はそこまで執着しなかっただろう。
3.4. 狭霧は、死ぬまでは村落共同体によって「殺害」されたのであり、死んでからはじめて、村落共同体の「犠牲」として表象されるようになる。
3.4.1. 共同体にとっての「清浄」と「不浄」が神社において一致していることに呼応して、 神社の巫女として村落共同体から締め出されていた狭霧は、「犠牲」と「殺害」の狭間にあった。
3.4.2. 「犠牲」という語が意味を為すのは、共同体にとって価値のある(と見做す)存在を捧げものとする場合に限られる。 価値のない(と見做す)存在を捧げものとする場合は、「犠牲」ではなく単なる「殺害」である。
3.4.3. 狭霧は、共同体の価値体系から締め出されていたことから、死するまでは共同体にとって「犠牲」とはなり得ない。 死するまでは、共同体に体よく「殺害」されたのである。
3.4.4. 狭霧は、人柱としての役目を果たすことによって、治水に貢献した者として共同体の価値体系の内部に表象される。 このとき、はじめて「殺害」は「犠牲」に転換する。
3.4.5. このことは、我々が歴史について語るにあたり「犠牲」という言葉を使う際は、細心の注意を要することを意味している。
1.1. 国家の諸制度・政策に違和を覚えた者の中には、これらに対する反対運動を展開する者が存在する。
1.2. 彼らは政治的な交渉力を向上するため、団体を組織(団結)し、運動の拡大を試みる。
1.3. しかし、国家にとって、団体として表象可能であることこそ、統治を容易にする条件である。 (通知を発出するにしても、各個人宛とするより、各個人を包摂している団体の長宛てに発出する方が、圧倒的に容易である。)
1.4. 国家の統治のあり方に反対する団体は、団体として国家に表象された時には、既に国家の統治の圏域内にある。
2.1. 国家にとって統治を脅かす存在は、国家の内部に所属しながらにして、国家が表象できていない者である。 国家の内にいながらにして、国家の統治の圏域内にいないという意味で、彼らは国家の外部にいる。
2.2. 国家の統治のあり方に反対する究極の方法は、団結ではなく孤立にある。孤立し沈黙することほど、国家の統治を脅かすものはない。
2.3. このような限界状況から見れば、団結して国家の統治のあり方に反対の声を上げる者は、 国家の統治に裏で癒着している。彼らは、裏では国家によって統治されたがっている。
私には「社会をこうしたい」という積極的な理想はない。
例えば、私には以下のような「健全」な発想は(でき)ない。
・「日本特有のきめ細やかなおもてなしの精神をもって、海外から観光客を誘引し、日本を観光立国にしよう!」
・「日本の高い科学・技術力をもって、環境技術で世界を牽引し、経済発展をするとともにエコ社会を実現しよう!」
・「日本の食品の安心・安全な品質をもって、世界に高付加価値な食品を輸出し、攻めの農業を実現しよう!」
なぜ、「健全」な発想が(でき)ないのかについて考えると、シンプルに言えば、嘘くさいからである。 見方を変えて言うなら、自分はこれらの発想を引受けきれないからである(嘘くさいので)。
例えば、「日本特有の」という序詞を使えるほどに私は厚かましくない。誰がそれを証明したのだろうと思い、使用を躊躇してしまう。 スペシフィックな言及をすると、日本の食品が安心・安全というのは事実誤認(かつ文言として意味不明)なので、使えない。 (せめて文言として通じるように書くなら「食品の安全性を向上する取組みを通し、消費者からの信頼を確保することで、食品に対する消費者の安心感を醸成するとともに、 世界の食品安全の規格に適う食品を生産することで、食品の貿易が滞りなく行われるようにする。」とは書けるかなと思う。 安心を売りにすることは、かえって不安を煽る。売りにしてよいのは食品の安全性を向上する取組みだけである。)
さらに、根源的に言えば、「健全」な発想は、(逆説的だが)社会の歪みを正当化し強化するような気がするからである。
観光誘引や食品輸出については、ハイエンドの地域、事業者が対象となる発想なのであって、全ての地域、事業者を包摂しうるものではない。 高度な実力を有することが規範として求められる社会像を、戦略として描くことによる帰結は、ただ生きることすら、障壁が高くなる不安定な社会だと思われる。 また、経済発展とエコ社会については、いつものことだが、何が目的で何が手段なのかがわからず、当惑する。
そういったわけで、私は「社会をこうしたい」という積極的な理想は持ち合わせていない。
こう書いていると、前向き感がないなぁと思うけれども、他方で「社会が成立する上での基盤を揺るがせにしたくはない。」という気持ちはある。 わざわざ勝ちに行く勝負をする必要は感じられないけれど、負けないようにする勝負ならやってもいいかなと思う。
私の場合、社会が成立する上での基盤として着目したのは食糧・食品だった。 食糧・食品は、我々が生物である以上お腹がすいて詮方ないので、どのような社会でも必要である。 そのため、安全性の高い食糧・食品を安定的に供給するというミッションは、 比較的、欺瞞を感じずに取組めるものだと思われたし、今でもそのように思っている。
ただ、これも「比較的」なのであって、どこかしら積極的に没入しきれないものを感ずるのも事実である。
・・・・・・
仕事柄、食品安全を担当しているので、しばしば自分の仕事の目的について考えるのだが、 食品安全の確保について、最上位の目的となるものは「食品に起因する健康被害を未然に防止すること」である。 (「自由貿易が滞りなく行われるようにする。」というのも目的を構成しているが、これは最上位の目的に従属している。 というのも、自由貿易を規制する際、究極的な審級となるのは消費者の健康保護だからである。)
「食品に起因する健康被害を未然に防止すること。」に対して、ポリティカルに反駁することは、不可能に思われる。 例えば、政治家が「食品に起因する健康被害を未然に防止しなくてもよいのです。 食べて食中毒になるのは自然。場合によっては死に至るのも自然。作為を排して無為に生きるのが肝要です。」 と発言した場合、これを個人的信条として正当化できても、公衆衛生に係る政治的的信条として正当化することは不可能だろう。 もし、不可能を可能にした場合であっても、政治家として「日本的な」責任の取り方をしなければならないだろうから、 畢竟、ポリティカルに反駁することはできない。食品安全確保の目的に疑義を唱える身振りは、政治空間からは排除されると思われる。
わたしは、「食品に起因する健康被害を未然に防止すること。」に対して疑義を唱えるつもりはないが、 「これは一体どのような社会を目指したものなのだろう。」或いは「これは一体、どのような社会力学の中で展開しているものなのだろう。」という、 いっそう大きな問にとりつかれている。これは、善し悪しや実践の問題というより、まずは純粋に認識の問題として、取扱うべきである。
もし、食品の安全性を向上させる取組みが効果的であり、統計学的にリスクの低減が確認されるものであれば、 対象となる人口集団に見られる変化は、「寿命及び健康寿命の伸長」だと考えられる。 (なお、寿命とは死亡までの期間。健康寿命とは自立的に生活(介護等を必要とせず生活)ができる期間のことである。) そのため、食品安全の確保において、その活動のエンドポイントは、「寿命及び健康寿命の伸長」であると言換えてもよいだろう。
また、活動のエンドポイントとしての「寿命及び健康寿命の伸長」は、食品安全の分野に限定的なものではない。 社会保障や公衆衛生等、国家が関与する活動のエンドポイントには、「寿命及び健康寿命の伸長」が、明示的にせよ暗示的にせよ、見いだされる。
これらを踏まえると、「食品に起因する健康被害を未然に防止すること。」が目指す社会は、所謂「健康・長寿社会」であると言える。 社会力学的には、「寿命及び健康寿命の伸長」という命題が、食品安全、社会保障、公衆衛生等の国家の関与する活動を基礎づけていると言える。 或いは、このように言えるかもしれない。「寿命及び健康寿命の伸長」は、これらの活動にとっての至高の価値である、と。
そこで問うてみたいのは、「『寿命及び健康寿命の伸長』以上の価値を、国家(或いは社会)は持ち得るのだろうか。」という命題である。 (これは「国家(或いは社会)の至高の価値は何であるか。」と問うのと、同等である。)
これについては、国家(或いは社会)を、アソシエーション的に把握する程度或いはコミュニティ的に把握する程度に応じて、 回答にバラエティが生じるだろう。国家(或いは社会)を、アソシエーション的に把握するなら、そのアソシエーションの活動目的が、 国家(或いは社会)にとっての至高の価値として鎮座することになるだろう。 例えば、善き生き方を探求するために構成した共同体であれば、 共同体にとっての至高の価値は、善き生き方が可能となる共同体の実現である(アリストテレスのポリス観)。 他方、国家(或いは社会)をコミュニティ的に把握するなら、国家の活動の根拠として、「構成員の生の維持・増進」以上に積極的な価値を見出すことは困難だろう。
我々の国家(或いは社会)は社会全体で共有できる物語を失なった、との指摘が処処(ポストモダニズム)でなされているが、 そうであるなら、社会全体で共有できる物語が存在した時代と比較すれば、現代社会は一層コミュニティ寄りであると考えられる。 この場合、「『寿命及び健康寿命の伸長』以上の価値を、国家(或いは社会)は持ち得るのだろうか。」という問いに対して、肯定的な見解を提示することは困難だろう。 我々の国家(或いは社会)にとって、「構成員の生の維持・増進」は、その存在と活動の正統性そのものと言える。
このような状況は、構成員の生そのものの圏域が政治圏域と一致していると表現するべきである。 ただ生物学的に生きているという事実に対して、政治的・社会的規範が作用し、矯正措置を執り得る。 言い換えると、国家(或いは社会)にとって望ましい生物学的生と望ましくない生物学的生が峻別されており、 構成員は、望ましい生物学的生たるよう、国家(或いは社会)によって表象されている。
矯正措置の方法論としては、対象となる構成員が何も知らなくとも環境管理的に達成する方法と、対象となる構成員の自律的な取組みの支援活動によって達成する方法がある。 手前味噌だが、食品の安全性向上は、主に生産・製造・加工・流通段階での取組みを通して実現するため、消費者(対象となる構成員)の自律的な取組みに重きがあるわけではない。 方法論としては前者寄りである。
他方、後者の例としては、厚生労働省の公表している「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」が該当するだろう。 「健康日本21」は健康寿命を伸長するという大目的を、個人の取組みを基調としつつ、社会の活動によって実現することを趣旨としている。 この場合、構成員は、望ましい生物学的生たるよう、国家(或いは社会)によって期待されていると言うべきである。
このような状況の中、私が注視するべきだと感じているのは、 規範にとって望ましくない生物学的生は、社会から締め出しを受けることになるのではないか、いうことである。 特に、構成員の自律的な取組みが主たる部分を占める場合は、不健康な者に対する次のような非難を助長するだろう。(しかも、極めて強い政治的ニュアンスを伴って。)
「お前が不健康なのは、お前が健康づくりに取り組んでこなかったからだ!」
・・・・・・
健康寿命の伸長のエンドポイントは、寿命と健康寿命の一致である。 もし、健康寿命の伸長から、このエンドポイントの達成に目的がすり替わったとき、 これを達成する方法にもうひとつ、オプションが加わる。
安楽死である。
我々の社会がどこまで進むのかはわからないが、 健康な生を追求する営為の延長線上に、「不健康な者の締め出し」や「死することが即ち健康」という限界状況があるということは、よく認識しておいた方がよいと思われる。
年末より年度末の方が区切りを実感する。平成25年4月1日付で異動となった。
「石の上にも3年」という諺があるが、私の直覚としても妥当に思う。 1年目は様子見、2年目は方向付け、3年目以降は検証・実証。ホップ、ステップ、ジャンプである。
今般は、残念ながら2年での異動である。せめて後1年あれば違った展開にならましものを、と悔やまれる。 ステップ段階で浮遊してしまった残留思念達を系統化した上、引継ぎ資料(「卒業論文」と形容されたが)を作成し、次代に託すこととした。
私は行政官だけれども、行政組織内にいる統計学者であり、土壌理論学者みたいなものだった。 私の携わった解析等の成果については、情報機密の関係上詳述できないのが残念だが、 一部は公表資料となった他、関係機関における対策方針の基礎資料に供されたようである。
実務者サイドからデータ解析して痛感することは、徹底的に解析の説明責任を負っているということである。 「説明がつかないけれど上手くいく解析」というのは許されない。個別事例に過ぎないからである。
例えば重回帰分析はもっともオーソドックスかつ利便性のある多変量解析の一つであるが、 「説明がつかないけれど上手くいく解析」をしばしば与える。
本来、重回帰分析は2つの前提と1つの事実若しくは仮定を導入した上で実施しなければならない。
(2つの前提)
前提①:各変数は正規分布に従うこと
前提②:説明変数間は無相関であること
(1つの事実若しくは仮定)
回帰曲線を与える各変量の関係式
(「回帰曲線を与える各変量の関係式」について補足すると、 例えば、線形重回帰分析を用いる解析者は、何故各変量の関係式が単直線を仮定できるのかを説明する義務がある。 これはメカニズム論的な裏付けが求められるということを意味している。)
しかし、しばしばこれらは十分検証されない。 つまり、手法のみが独歩する。勿論、裏付けがない回帰分析は信頼性に乏しい上、対外的にも説明不能である。
解析に対して説明責任を負うと言うのは、前提・仮定・境界条件に自覚的であることが要件である。 この部分については、この2年間でもっとも感覚が研ぎ澄まされたところである。
なお、余談だが、解析の前提・仮定・境界条件に自覚的であれば、理論的な普遍性というのは、厳密には特定の条件内で成立する普遍性であるということを容易に見取できるだろう。 今般、「経済学者」を標榜する者が、特定の条件内で成立する普遍性をあらゆる条件で成立するものと錯誤するのを見るにつけ、 借り物で武装することの恐ろしさを体現しているように思われてならない。
某所徘徊の道すがら、スーツを着た若者に呼び止められた。やり取りの詳細は次の通り。 (以下、スーツを着た若者を「先方」、筆者を「当方」とする。)
(先方)すみません。
(当方)はい?
(先方)名刺を交換しませんか。
(当方)意味が解らないのですが?
(先方)私、社会人一年目なので。
(当方)社会人一年目だったら何で名刺交換しなきゃいけないんですか。
(先方)研修で。
(当方)結構です。
上述の通り先方を一蹴したのは、次の3点が主たる要因。
(要因 1)素性不明
(要因 2)名刺交換の目的が不明確
(要因 3)筋の悪いゲーム
(要因 1)素性不明
社会人一年目という情報以外の素性が不明。
先方は、話しかける段階で、会社名、事業内容、氏名を名乗るべきであった。
(要因 2)名刺交換の目的が不明
研修で作業的に集めているのだろうけど、「名刺が集まったぞ。ワーイ」と喜びたいのか、
集めた後、活用したいのかが不明。さらに、後者であった場合、何に活用されるのかも不明。
(要因 3)筋の悪いゲーム
先方の素性と目的について掘り下げるという選択肢もあったのだが、
興味を示すと、こちらの素性を明らかにする必要が生じることから、
結果的に先方に有利な状況(名刺交換)に至るのが目に見えたため。
今回は、「相手の素性も自分の素性も明らかにする必要がない状況」に至るという、後向きな解決であったと思う。 やり取りそのものは、先方にとっても当方にとっても、不毛であり、くたびれもうけである(反省的に捉えた時には意義のあるものに転じるとはいえ)。 そのため、この解決、正直腑に落ちていない。
今後、同様の出来事に見舞われることがあれば、別の解決を探ってみようかと思う。 例えば、産婆術により、相手の素性を明らかにしつつ、教育効果のある解決を目指してみたい。 産婆術による検討事項は、大まかに次の通りだろう。(括弧内は、それに係る視点)
1.名刺交換の目的
(⇒無論、所属部署の事業展開に活用するためであって、集めて喜ぶためではない。)
2.名刺交換のターゲティング
(⇒無暗に道行く人から名刺を集めるのではなく、誰が名刺交換する上での有益なターゲットなのかを、
事業を踏まえて選定する必要がある。ターゲットが多そうな場所・時間帯を調査・仮定して張り込むのが効果的なやり方。)
3.自己プロモーション方法
(⇒「自分は何処の誰で、○○という事業に関わっており、△△に関連した人を探しています。」ということが道行く人にもわかるよう、
プロモーションプレート等を用意。)
・・・こう考えてみると見知らぬ人との名刺交換は、研修としては良い素材だなぁと思えてくるのであった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」という書籍が面白い。
本書は、主に太平洋(或いは大東亜)戦争の戦局に 決定的な影響を及ぼした作戦(ノモンハン事件、ミッドウェー海戦、ガダルカナル作戦等)について、 何故これらの作戦が失敗したのか、その要因を分析するものである。
私は本書を厳密かつ詳細に読んでいるわけではない。 そのため若干の遺漏があると思うが、本書の大要を把握するに、 組織論的に見た時には以下に掲げる点が通奏低音にある問題点と読取できる。(分析された各作戦はその端的な表現形であろう)
何をどこまでやって戦争終結に至るのかをはっきりさせなかったため、 無暗な拡大路線を進むことになった。
本来の目的の他、複数の目的が乱立。 戦力が分散したため、本来の目的を達成する上で戦力不十分となった。
戦略的に不可能と判断される作戦でも、人情に絆され畢竟承認せざるを得なかった。
成功体験に裏打ちされた戦略(陸軍は白兵戦、海軍は艦隊決戦)に組織全体が過剰に適応することによって、 戦局を左右する新たな戦略(陸軍は重火器戦、海軍は航空戦)に対して適応することができなかった。
物量的な制約条件は必勝の精神がカバーするものと考えられた。 戦えば勝つとしか想定されていない/想定してはいけない風潮があったため、 予想外の敵の攻勢に対して、的確かつ整合的な対策を打つことができなかった。
(1)、(2)、(3)が戦局や戦略のフレームワークに係ることであり、(4)、(5)が組織の環境適応性に係ることである。 これらの組織的な問題点は、過去の日本軍のこととは言え、どの時代においても適用可能性が想定できるという意味で、 普遍性があると考えられる。然るに、組織的なミッション或いはオペレーションを企図する場合は、少なくともこれら5点を問いかける必要があるだろう。
例えば、今般TPPの参加の是非を巡っては、侃侃諤諤、多種多様な意見のあるところである。 これを反映し、国家としては、2011年11月のAPEC首脳会議でTPP交渉参加へ向け関係国と協議を行う方針を表明している一方、 交渉参加表明自体は為されていない。このような中、TPPをめぐる動向についての私の関心事は、 先の(1)~(5)を参照すると、とりわけ(1)、(5)である。
TPP参加交渉において「日本にとって有利なルールづくりができるよう交渉を進める」とのことであるが、 これは今後の日本の産業構造のグランドデザインと不可分の課題である。 即ち、TPPのように自由貿易を旨とする枠組みの中では、捨てる分野と伸ばす分野を明確に持っておかなければならない。 それは、経済合理性の観点からは、リカードの比較優位論に基づく分業モデルに適合的になる必要があること、 交渉の観点からは、総花的に自国に有利なルール作りをすることはできないことから、当然、演繹される。 (無論、捨てる分野と伸ばす分野については最高機密情報であるため、対内的にも対外的にも示してはいけないのだが。 しかし、交渉は数或いは権威によるゲームであることを鑑みると、例えば知財分野では相対的に有利に交渉が進められる可能性がある一方、 製造分野そしてとりわけ農業分野で有利に交渉が進められるかどうかは楽観視できないと考えられる。)
TPPに参加し貿易関税がなくなれば、自ずと日本製品が海外に輸出でき、日本経済が発展するものと楽観視する風潮がある。 しかし、貿易関税以前に慢性的な円高状態にあること及びTPP参加国の外需依存傾向と購買力を考慮すると、 日本製品が輸出できるのは限定的であって、期待した通りの経済発展効果が得られない蓋然性は十分想定される。 「ともあれTPPという枠組みに入り、開国を実現すれば、なんとかなる」というのであれば、多分に精神主義的であり、危険である。
私は、これらについて的確な対処方針・措置が取られない限り、TPP参加による日本のベネフィットについては雲行きが怪しいと思うのである。 雲行きが怪しいなら、目的に適った相手国を探して二国間協定というのよいかもしれないが、 そもそも輸出によって発展したという成功体験に日本は過剰適応しているのではないかと、先の(4)を疑ってみるのもよいかもしれない。
連日、熱があるようで、お休みをいただいている先ごろです。
流石に妙だなと思い、おそらく12年ぶりに診療所へ赴いたところ、通常の流行性感冒との診断。 (それにしては長期化しているような気がするのだが)。とりあえず、解熱剤等を処方されました。
解熱剤等を処方されるにあたり、身体的特質及び生活習慣等に関するアンケートに答えました。 このアンケートが、なかなか面白いものでした。二つほど例を。
薬物代謝酵素CYP3A4阻害を考慮した処方をしているのかと、謎にほくそ笑んでしまいました。もうそんな時代なのですね。 (グレープフルーツの中には医薬品が身体の中で適切に分解されるのを阻害する成分が含まれています。 そのため、飲み合わせによって薬効が強く持続することになりますが、「薬か毒かは暴露量によって決まる」という薬学/毒性学の基本に則れば、それってつまり毒ぢゃないかしらんということです。)
この香ばしい設問、「はい」を選ばせたいのかなと思いました。 それなら、もっとよい問立てがあるのではないかと。
一つ参照を。臓器移植を巡り実際に行われたアンケート実験ですが、臓器移植をしてもいいと考えている人の割合は、 次の(2)の設問を与えられた方で大きいという結果が得られたそうです(笑)。
(1)「臓器移植に賛成する方は○をしてください」
(2)「臓器移植に反対する方は○をしてください」
「社会的判断が未成熟な状態にある曖昧な事柄については、人は全面的に賛成とも反対とも言えない。」という心理を突いた、秀逸なアンケートだと思います。 つまり、(1)では賛成しきれないため○を記入できず、反対の意思表示として、 (2)では反対しきれないため○を記入できず、賛成の意思表示として解釈されるわけです。
この例は「全面的に賛成とも反対とも言えない、社会的判断が未成熟な状態にある曖昧な事柄」については、 問いの立て方によって人々の「アンケート上」の選好を調整することが可能であるということを示唆します。
話を元に戻すと、新薬とジェネリック医薬品の選好という問題は、「全面的に賛成とも反対とも言えない、社会的判断が未成熟な状態にある曖昧な事柄」としては好例でしょう。 つまり、問いの立て方によって、人々の「アンケート上」の選好を調整することが可能、と考えることができます。 以下に問立てについて3つ例を挙げます。
(1)新薬とジェネリック医薬品、どちらを処方されたいですか
(2)ジェネリック医薬品を処方してよろしいですか
(3)ジェネリック医薬品を処方される必要がないとお考えの方はご署名をお願いします
おそらく、新薬とジェネリック医薬品で人々の選好がばらつくのが(1)の設問。ばらつきが最小になるのが(3)の設問であろうかと思います。 (そういったわけで、ジェネリック医薬品を処方したい場合は、(3)の問立てがよろしいと思料。)
政治(政局?)について世論調査みたいなことを各メディアは好んで実施していますが、先の論旨を鑑みますと、「今の内閣を支持しますか」という問立ては、エグいなぁと思います。 試みに「今の内閣はよくやっていないと思いますか」という問立てと比較し、内閣支持率に有意差が出るのか実験してみてはと思います。 おそらく、「今の内閣を支持しますか」の方が、支持率が低く出ると思います。もしこの仮説が正しいなら、その程度の数字に、政治が翻弄されてはいけないのだと思います。
なんだかこの一週間色々あったので、振り返ってみようと思われました。
パソコンの閲覧環境を大幅に改善。改善点は次の2点。(1)地デジチューナーの導入(2)外部モニターの導入。
(1)については、GV-MC7/VZ(I-O DATA社)というWindows 7 Media Center専用のチューナーを導入。 本製品はBSやCSにも対応しているようだがアンテナが無いため、今のところ地デジのみ視聴可能。
(2)については、IPS231P(LG Electronics社)という23インチ型モニターを導入。 本製品の魅力的な点は、モニターを回転することができる点。 例えば、エクセル等の表計算ソフトを使用する際は縦に、テレビ等を視聴する際は横にすることで、能率的で快適な閲覧環境が本製品1台で実現できる。 (あと、画面が大きいので、東方みたいな弾幕系シューティングゲームをやっていると、ピチューンしにくくなる。)
本閲覧環境の改善に係る費用は合計3万円程度(内訳:(1)チューナー本体及びアンテナ接続用のF型同軸ケーブル合わせ1万円程度。(2)モニター本体(接続用DVIケーブル同梱)2万円程度。)。 最早テレビ単体を購入する時代ではないことを痛感。
何故か風邪をひく。ここで休んだらヤバいのだが、休まなくてもヤバくなるというアンチノミー。 アンチノミーにおいては理性の限界が示されるため、ここは自由意思により「休養」を採った。 (自由意思と言いたいところだが、単なる自然的傾向性という説もある。)然るに、18時間程度惰眠を貪ったが、全恢に至らず。 健康は恢復的なものではなく、恩賜的なものなのかもしれない。
体調に不安を残したまま出勤。終わらないデータ整理。実態調査みたいなことをしており、現象を説明する仮説を立て、関連情報を収集しているのだが、まったく。 役所の公表資料は公表という観点から作成こそされ、それを利用するという観点からは作成されていないと思う(もっとも、役所に入ってくる情報量に対し、慢性的に人手が足りておらず、データベースが構築できないという事情もよくわかるのだが。。。)。
体調が回復しないまま出勤。終わらないデータ整理、と同時に今後どのように統計解析するかで悶々。 データセットの中には説明変数らしきものが無数にあるのに、目的変数らしきものがない。 そのため、解析するに適切な目的変数を開発しなければならない。(何だか目的が漠然としている点、学生時代の研究とあまり変わっていない。。。)
帰宅後、翌日にある英会話研修の課題の存在に気が付く。「ある概念を選びそれについて説明せよ」という課題だったのだが、 もう正直どうなってもいいやと思い、「SEICHIJUNREI(聖地巡礼)」という概念を説明することに決め、いそいそと資料作成。
午前中、英会話研修。「SEICHIJUNREI(聖地巡礼)」という概念について、伝統的な用法と今般の用法とに区分けしてプレゼン。以下その日本語概要。
(プレゼン内容)
「SEICHIJUNREI(聖地巡礼)」という概念は、聖地への旅を意味する。今回は伝統的な用法と今般の用法について説明する。 伝統的用法としては宗教的信条や慣習に関連。例えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教におけるエルサレム巡礼、仏教の高僧である弘法大師にゆかりある四国88カ所を巡る四国遍路、等。 聖地巡礼を行うことによる効用は、精神的な鼓舞または浄化である。
しかるに今般、「SEICHIJUNREI(聖地巡礼)」はサブカルチャーに関連。特に、アニメやゲームの舞台背景を旅することを意味。 ここで、1つ例示したい。
(いそいそと資料配布、と同時に皆吹き出す。)
ここで挙げる例は、軽音楽部に所属する女子高校生の日常を描く「けいおん!」というアニメ。 本作品、制作会社が京都に位置しているためか、舞台背景として京都市内が頻出。 お手元の資料、図1.1は叡山電鉄修学院駅の写真。図1.2はアニメにおいて対応するシーン。 また、図2.1は北白川の町の景色。図2.2はその対応するシーン。これらはほんの例に過ぎず、他にも数多くの例。 OTAKUの幾ばくかは、アニメのシーンに触発され、実際の場所へ旅することがある。
本例のように、今般OTAKUはアニメやゲームの舞台背景となった場所を聖地と見做しており、聖地巡礼を行うことによって精神的な満足感を得る。(了)
なお、プレゼン後の質疑の際、"By the way, My high school is the background of CLANNAD.(ところで、私の高校はCLANNADの背景。)"と発言する者あり(反応したのは、驚いた、私だけ)。 あんな美男美女がいる高校ではなく、実際は男子校だそうである。そこはかとなく楽しい英会話であった(楽しかったのはヲタ会話なのかもしれないが)。
英会話研修の後、例によって終わらないデータ整理。翌日中間打ち合わせがあるため、資料作成。
中間打ち合わせ。さらなる情報収集と今後の調査設計について検討するよう宿題を得る。 「早い段階で責任のある仕事ができる」というふれこみのある職業だが、どうやら本当の模様。
そういえば、暦の上では春になった。例によって「鬼は外、福は内」といたるところで喧伝されている。 この慣用句、昔から若干反発心を惹起するものである。「鬼は内、福は外」の方が私のとっては好みである。 大豆をぶつけて鬼を追い出すのであれば、餡子(小豆)菓子で鬼をもてなして、お茶でもすすりたい。 (福は行きたいところに行けばよいのである。その蓋然性が福というものである。)
そのような折、「鬼をいじめないでおこう」という趣旨のメールが届いたりしたので、なんだか愉快に思われる節分であった。
年末年始お会いしなかった方々、また、お会いした方々は改めまして、 新年明けましたこと、大変めでとうございます。
冷静に考えてみると、「年が明けること」と「おめでとう」ということには何ら必然的な関係性はありませんが、 「年が明ける」という現象に継起して「おめでとう」と発話する現象が慣習化しているという意味において、 ヒューム的な時間継起の因果関係が成立しているのだと解するのが妥当なのでしょう。 そういったわけで、何だかよくわかりませんが、皆様、おめでとうございます。
さて、旧年中の方針においては、旧年を「思弁的な年にする」と記していました。 振り返ってみるに、ある一つの領域を巡って、随分思弁的かつ背景知識が身についた一年だったかと思います。 つまり、放射性物質と食品安全に係る領域です。放射性物質の生体影響、農畜産物中の含有実態、土壌の理化学的性質等、随分身についた。。。というより身に染みました。
これは私の所感ではありますが、今後この領域は所謂「食の安全」という表象を纏いながら、 実際のところ主張・議論されることは食品安全の問題というより、社会的合意ーコミュニケーションーの問題がメインになると思います。 例えば、厚生労働省による食品衛生法上の暫定規制値の引き下げに伴い、放射性物質の検出機器の定量下限値の引き下げが必要になると想定されますが、 そのようにして検出される可能性のある、ごく低濃度の食品中の放射性セシウム(例えば10 Bq/kgとか5 Bq/kgとか)は、いったいどんな意味を持つのでしょうか。 定量下限値を引き下げるとはそれだけ検査に時間とコストをかけることになるわけですが、どこまで時間とコストを割いて検査していく必要があるのか、よく考えてみないといけないと思います。
他面、哲学的な領域では停滞であったと思います。書物を読んでいないわけではなかったのですが、あまり表現できることがなかったと思います。 それでも、先般より何に興味があるのか書いてみますと、対象化の過程において捉えきれない方向に示される境位から、何か積極的なことが言えるのかどうかという問題です。
例えば、明治時代の仏教学者清沢満之は、科学的合理性及び倫理道徳によって捉えようとも捉えきれない方向に、宗教的次元を見出していましたが、彼はその境位から逆に、仏教独自の倫理道徳を構築するところにまでは至りませんでした。 また、禅においては、言語的に論理を突き詰めるとその論理内部で矛盾が生じることから、言語を超脱したところに悟りの世界があると考えていますが、 逆に、その境位においてその境位について語る、つまり語り得ないものを語る際は、禅問答として知られる、世俗的には支離滅裂なやり取りが為されることとなります。 その意味では、禅は世俗(世俗論理、倫理道徳)から自由と言い得るわけですが、逆に世俗に通用する論理や倫理道徳を禅が供給できたのかは明らかと言えません。 そのため、禅はその観照的立場によって世俗論理、倫理道徳から自由と言い得たところで、行為の現場においては世俗論理、倫理道徳に対して「あるがまま」と追認的立場を取らざるを得ない危険を孕んでいるように思うのです(例えば、戦前、京都学派が戦時体制に対して的確な批判が出来ていたとは考えにくい)。 これは、禅の有する批判精神を鑑みるに、一つのパラドクスであるかのように感じられます。
このように、対象化の過程において捉えきれない方向に示される境位から何か積極的なことが言えるのかどうか悶々としてみるわけですが、 現代の(宗教)社会学者大澤真幸は、神の無知無能、つまり、神は全知全能ではなく無知無能であるが故に神である、というような面白い論を展開していることから、 これを補助線として何か結論的なものを示唆できまいかと思案しているところです。
旧年については上述の通りですが、さて本年をどのような年にしようかと考えますと、本年は「煩悩の年」にしようと思っています。 そろそろ引き籠るのにも飽きてきたので、煩悩でも考えて、それを実行しようかと。
その基本的な思想設計として、煩悩階層のカテゴリーと煩悩対象のカテゴリーを設定して、煩悩を組織的に把握してみようかと考えています。 煩悩階層のカテゴリーとしては、心理学者マズローの自己実現段階論による欲求の分類を参考に(注)、次の6カテゴリーを想定し、 また、煩悩対象のカテゴリーとしては、次の4カテゴリーを想定することで、掛け合わせて24の煩悩カテゴリーを想定しています。 (残念ながら108の煩悩カテゴリーになっていません。) 。
■ 煩悩階層の6カテゴリー:
生理、安全、所属・愛、自己承認、自己実現、自己超越
■ 煩悩対象の4カテゴリー:
自己能力への欲求、道具立てへの欲求、他者関係への欲求、社会関係への欲求
例えば、年始早々、電撃的に京都に遊びに行くということを私はやらかしたのですが、 これは煩悩階層のカテゴリーとしては「所属・愛」、煩悩対象のカテゴリーとしては「他者関係への欲求」に分類される煩悩ということになります。
他の例を挙げると、寒いのでそろそろ暖房器具を導入したいと考えているところですが、 これは煩悩階層のカテゴリーとしては「安全」、煩悩対象のカテゴリーとしては「道具立てへの欲求」に分類される煩悩ということになります。
このように組織的に考えられた煩悩が煩悩なのかという問題はさておき、今年の鍵言葉は「煩悩の年」ということでやっていこうと思います。 皆さまも煩悩を分類学的に考え、実行してみてはいかがでしょう。例えば108の煩悩カテゴリーを考えてみるとか(108 = 22×33)。 年末には、除夜の鐘の重みが変わってくるかもしれません。
(注) マズローの自己実現段階論では、個人の生存条件下に応じ欲求のステージが段階的に変わっていくことを想定しています。
例えば、生理的欲求が満たされたら、今度は安全への欲求のステージに。安全への欲求が満たされたら所属・愛への欲求のステージに、のように。
しかし、煩悩階層のカテゴリーにおいては、ステージが段階的に変わっていくことを想定していません。マズローの自己実現段階論における欲求の種類を、単純に分類学的に参考にしているだけです。
そのため、例えば所属・愛への欲求がありながら、安全への欲求がある、という事態を許容しています。
また、通常マズローの自己実現段階論として知られるものは、自己超越への欲求を含んでいませんが、
後年マズローは自己超越への欲求に着目していることから、その趣旨を汲み取り、煩悩階層のカテゴリー内に含めています。
哲学と言えば、通常、古代ギリシャに端を発する、一連の西洋哲学を思い浮かべるところと思います。 そして、西洋哲学こそ、最も理論的に洗練され、発展されてきたものとして認識される傾向もあろうかと思います。
しかし、仏教圏の哲学理論を学び始めると、 西洋哲学が扱ってきたテーマと同形の論理構造を扱っていることに気が付きます。 また、イメージと異なり、無常と実体に関する理論は仏教哲学圏においても一枚岩ではなく、そこには緊張があることが見て取れます。 さらに、西洋哲学の発展と比較するに、仏教圏哲学は、圧倒的な速さで理論が整備され、飽和に達してしまった印象を受けます。 この点、西洋哲学よりも仏教圏哲学の方が、解体を経験していることを以て、逆説的に洗練されていると思われます。
教えは、教えの消滅とともに普及する。
ふと、解体を経験した仏教を見ていてそんなことを思うのです。
最近、どの立場を採るべきかという、自身の実存に係る問題圏への熱情は薄れてしまい、 むしろ、ある立場が蔵する理論的可能性を総覧的に布置、比較していくことに興味が移っているところです。 このような中、仏教圏哲学の歴史的遷移を観察することは、実り多いところがあるように思うこのごろです。
・・・
よくわかりませんが、何故か政治パーティに参加する機会があったため、ご飯を食べに行きました。 某元首相の人とか、現幹事長の人とか、随分ゴリゴリした人達がいるなぁと思いながら、もしゃもしゃとご飯を賞味しました。
政治パーティは、人材交流は然ることながら、政治資金の獲得を目的に開催されます。 一般的には、政治家の高額所得は非難の対象となっているため、何故これ以上の政治資金を必要とするのか理解に困るところと思います。 しかし、政治家として責務をもって的確に職務を遂行する上では、決して現在の水準は高額所得とは思えません。 むしろ、「政治家一人あたりの所得」はもっとあってもよいと思います。
政治主導という語が単なるスローガンではなく、実効的な政治システムとして機能するためには、 政治家自身が独立の政策集団を形成する必要があると考えます。言い換えると、政治家は、政策スタッフを多く雇用し、 独自の政策諮問集団を有していなければならないと思料します。
しかし、現在の政治家の所得水準では、政策秘書等の政策スタッフを多く雇うことができません。 そのため、政治家の政策スタッフのボリュームの薄さを、実務担当者である国家公務員が補うことで政治システムが維持されています。
このような中、「官僚主導を排して政治主導」というスローガンが効力を有すると考えるのは、魔術的としか言いようがありません。 政治主導はリーダーたる政治家の器量の問題であるとする言説もあるようですが、それは多分に精神論的言説です。 そもそも政治のリーダシップ以前の問題として、政治をめぐる生態系自体に問題があるということに留意が必要です。 私見では、政治家が自前の政策諮問集団を形成するに十分な資金を有していないことが、この生態系の制限要因の一つであろうと考えます。
ついては、「政治主導」を実効的に行おうとしたら、「政治家一人あたりの所得」を引き上げるというのも対処方法の一つかと思うのです。 しかし、政治家はそのあたりはストイックで、「政治主導の実現のために我々の給与を上げよう!」と言うことはないでしょう。 穏健な方法として、公的負担による政策スタッフ職を多く設け、各議員に割り当てるということも考えられますが、 これらのオプションが示唆することは、「政治主導」においては現行のシステムよりコスト高の政治システムになりそうということです。
三権分立の原則論からすると「政治主導」が望ましいと思うのですが、コスト感覚からすると、 政治家の政策スタッフのボリュームの薄さを、実務担当者である国家公務員で補完する現行の体制を、 容易に変えられるのだろうかと、若干懐疑的なまなざしを向ける次第です。
ただ、低コストなままで政治主導を標榜するやり方では、政治の迷走・行政サービスの劣化を防ぐことは難しいと思います。
そんなことを考えながら、パーティー会場を後にしました。
・・・
最近、土壌学、学び始めました。(大学にいた時より何故か益々科学者になっているという怪奇‐回帰現象。) 福島県大波地区や伊達市で食品衛生法上の放射性セシウムの暫定規制値500 Bq/kgを超過する事例が発生しているところですが、 作土の性質によっては、土壌から放射性セシウムの農作物への移行の程度が異なるのではないかと思ったからです。
一般論として、日本特有の土壌統群である黒ボク土(日本の農地面積の40%を占める)は、灰色低地土等の他の土壌統群と比較した場合、 セシウム吸着力が弱く、水容態または交換体セシウムの割合が高いことから、作物体へのセシウムの移行の程度が高いと推定されます。
特に、黒ボク土の中でも、粘土鉱物としてアロフェンやイゴモライトの含有率が高いもの(層状結晶を形成せず、結晶格子内にセシウムが吸着されないもの)や、 土壌酸性度が高いもの(粘土鉱物や腐植の陽イオン交換反応の活性が低いもの)は、特に、土壌中のセシウムが作物体へ移行しやすい土壌環境であると考えられます。
福島県大波地区や伊達市の土壌統群が何であり、その理化学的性質がどのようなものかはわかりません。ただ、今後、 作付のための参考値として用いられる移行係数も、土壌統群ごとに細かく設定される必要があるのかもしれません。
先般、「食の安全・安心」に関する関心は高く、「食の安全・安心」はもはや定型句です。
しかし、「食の安全・安心」は、分裂した用いられ方をしています。 一方で、「ゼロリスク」を求める運動として。他方、ナチュラルなものを求める運動として。
一般に、この分裂用法は、分裂として認識されていないよう思われます。 ここには「ナチュラルなもの=ゼロリスク」という癒着があります。
その癒着を媒介できるのは食習慣、即ち、「今まで食べてきたものは健康に害をもたらさない」という経験的見解、と考えられます。 この見解、論理的には「健康に害をもたらすものは、今まで食べてこなかったもの。(対偶)」を導けます。
そのため、食品の新素材、技術は、食習慣の無さをもって批判にさらされます。 食品添加物、農薬、遺伝子組換え作物は最たる例であり、その批判論拠の多くは、長期毒性への懸念を最終的審級に挙げます。
しかし、これは「今まで食べてきたものは健康に害をもたらさない」という土俵上での懸念です。 この土俵、どれほど信頼に足るのか微妙なところです。
例えば、無農薬作物は「安全」との考えが広く普及しているところと思います。 しかし、食品安全の観点からすると、無農薬作物はリスクが相対的に高いものです。 何故なら、農薬でカビ防除をしていない作物は、カビ毒による汚染が懸念されるからです。 毒性は農薬よりカビ毒の方が圧倒的に高いことから、むしろ農薬散布をした方が食品安全の観点からは好ましい状態にあります。
また、食品は多くのわけのわからない成分を含んでいます。 例えば、トマトは健康的なイメージのもと語られますが、品種によってはアルカロイドを多量に含みます。
これらの例からも明らかなように、今まで食べてきたものにも健康を損ねるリスクがあります。 そのため「今まで食べてきたものは健康に害をもたらさない」という知見の信頼性は十分ではありません。 これをもって、「ナチュラルなもの=ゼロリスク」という癒着は断ち切られます。
以上より、「食の安全・安心」の名の下、ナチュラルなものを目指す運動は、実は食品安全上の運動ではないことがわかります。 これは単にライフスタイル上の運動です。多少リスクがあってもいいので、無農薬作物を食べる自然派のライフスタイルを貫きたい。 これがこの立場を取った場合の終局的な論理的帰結です。
また、「食の安全・安心」の名の下「ゼロリスク」を志向する運動は、ナチュラルなものにあるリスクをどのように低減するかに注視する点、 ナチュラルなものよりアーティフィシャル(人工的)に制御されたものを徹底的に志向するのが、この立場の終局的な論理的帰結となると思われます。 しかし、このような考えは一般的ではなく、比較的リスクの高い食品の摂取を推進することをもって、「ゼロリスク」への道程と考える人がいるのが、世の中というものみたいです。
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私は、食品に関して「安全・安心」の語を用いることが、できません。 そもそも、絶対「安全」な食品などありません。あるのはリスクの程度の違う食品です。 また、リスクの高低に依存せず、安心は人口に膾炙するようです。 「安心できるものは安全」という固定観念がある場合は、 リスクの高い食品であったとしても、安心できれば安全という、 アクロバティックなロジックが成立してしまうので、安心の語は使いたくないのです。
そのため食品に関しては、かつて「平生・平常」というまとめをしたことがありますが、 もっと前向きに、食品の「リスクバランスと納得感」という語を用いたいところです。 その根本思想は、「許容されるリスクの高低に依存せず、目的に応じて納得感を伴いながら食べる。」というところにあります。 自然派のライフスタイルを志向したいならそれでよいのでしょうし、 多少リスクが高くても美味しいものが食べたいなら食べればよいのでしょうし、 リスクを一層減らしたいなら。リスクのトレードオフに注意しながら、減らして食べればよいのです。 但し、どの場合であったとしても、「許容されるリスク」というベーシックなところが押さえられていないといけないため、 そこをどのように生産段階で管理していくのかが課題になります。
一般的に、作曲とは感性的なものと思われるかもしれない。 しかし、感性的な作曲方法では、作曲技術的な積み上げができないと思う。 天賦の才を除き、感性の摩耗とともに曲が書けなくなるだろう。
私には、感性だけで音楽が書ける才能がない。そのため、音楽は論理的に書くものなのである( 文章を論理的に書くのに似ている)。論理展開の産出性からみると、対位法音楽には大きな魅力がある。
対位法音楽は、2つ以上の独立した旋律を、和音構成音を適宜配合しながら、協奏させる方法である。 これは、動機となる基本的な旋律を設定し、その旋律が蔵する論理的な可能性を、時間的、空間的に展開する方法、と言ってよい。
対位法音楽の論理展開の産出性の射程は、遠い。 「和音構成音を適宜配合しながら、協奏させる」という部分を、論理的に純化すると、 「和音構成音のみを用いて、協奏させる」という形式が導かれる。 つまり、「適宜」の極限的な形態として、「全て」を導くことができる。 ここに、各小節を一つの和音のみで構成する、和音進行に基づく作曲法の萌芽を認めることができる。
各小節を一つの和音のみで構成する場合、流麗な印象を生むために、和音構成音を単一小節の中で旋律化することができる。 これは、二つの方向に展開できる。一つには、パーカッション音楽。他方には、メロディー音楽である。
例えば、単一小節の中で和音構成音を旋律化するにあたり、各音符の長さを揃え規則的に配置すると、曲の中で持続する独特のリズムが生まれる。 これがパーカッション音楽への萌芽である。ここから、和音構成音を捨象し、純粋にリズムだけを残すと、パーカッション音楽へ発展できる。
他方、単一小節の中で和音構成音を旋律化するにあたり、 小節間を通して一つのメロディになるように配置すると、「主旋律の声部と伴奏としての和音」という分離が生じる。 これがメロディー音楽への萌芽である。ここから、「単一小節の中で用いられるのは単一和音」という制約を取り除くと、 主旋律の声部の自由度が増し、メロディー音楽へ発展できる。
これが、今考えている、対位法音楽から見た作曲法の論理的展開の見取り図である。
最近、業務量がガクッと減りました(ルーティン化し、業務効率が上ったため)。 何もない時間ができたので、文献を検索しては、業務上関連する知見を吸収しています。 ノートには、統計学に関連する謎の計算過程がビッチリ並んでいます。 何だか、大学での研究活動の延長をしている気分になります。
研究室時代は、粗い統計の使い方をしていたと思います。 「N=3で正規分布を仮定して、Student T 検定」が常道の世界だったわけですが、 そもそも母集団の分布は正規分布なのか?という疑問は、そこでは抑圧されているわけです。
母集団の分布を全き形で知るというのは、定義上、標本数を無限にしなければならないため、不可能ですが、 母集団の分布を確率論的に知ることは可能です。その確率論的な程度によって、必要とされる標本数は変動するわけですが、 標準的にはN=119(抽出により、97.5%ile値以上が少なくとも1つ以上得られる確率が、95%の場合)です。
そのため、Student T 検定を厳密にやろうと思えば、
N≧119で正規性の検定を行った後、対照群と試験群の等分散性の検定(F検定)を行う必要があります。
データに基づいた上で正規分布が仮定でき、等分散性も仮定できる場合、Student T 検定で処理してよいのです。
(「N=3で正規分布を仮定して、Student T 検定」というのは、正確には「N=3で正規分布と決めつけて、Student T 検定」と表現するべきです。
「仮定」とはデータに基づき「仮定」するものです。論証抜きの「仮定」は決めつけであって、「措定」と言うべきです。)
一般に、Student T 検定のように、母集団の分布を仮定できる場合の検定をパラメトリック検定と言います。 これは、先に確認してきたように、厳密に母集団の分布を仮定できるために、多くの標本数を必要とします。 他方、母集団の分布を仮定しない場合の検定もあります。これをノンパラメトリック検定と言います。
生物系の実験は、実験の性質上標本数が少なくなる場合が多いです。 これを鑑みると、生物系の実験はStudent T 検定のようなパラメトリック検定には適していません。 そのため、マンホイットニーU検定等のノンパラメトリック検定で評価する方が、論理的にみて妥当性があるのです。
しかし、一般的にはパラメトリック検定をするのが「常識」として流通しています。 中には、Student T 検定さえ使えればよいという趣旨の生物統計教科書まで存在しています。 しかし、それは生物系の実験の標本数が圧倒的に少ないために、どんなデータでも正規分布、等分散として強引に取り扱えるだけなのです。
これは、統計学的有意差を気にする以前の問題です。
標記、何とかノーマルクリアしました。所感を述べます。 一言でいえば、「ますますピチューン(被弾)できないシステムになった」です。 理由は次の3点です。神霊廟は「欲」をテーマに扱っているためか、総じて禁欲的です。
(1)、(2)は前作の東方星蓮船のゲームシステムを受け継いでいます。 被弾するほど一層戦いにくくなります。
そして、(3)には驚愕しました。残機が増えない。 東方神霊廟も、東方地霊殿以降見られるように、残機の欠片を集めてエクステンドする仕様になっていますが、残機の欠片の絶対量が少なく、なかなか集まりません。 それでもなんとか集めてエクステンドすると、次のエクステンドに要する残機の欠片の数が増える香ばしい仕様となっています。
このように、東方神霊廟は禁欲仕様となっており、被弾はタブーです。 ただ、東方神霊廟には霊界トランスという新システムが導入されています。 これは、被弾時に一定時間無敵状態で悪あがきができるシステムですが、ゲージがMAXの時のみ、被弾時ではなく自発的に発動できます。 被弾を待っていてはだめで、霊界トランスという無敵状態をどう積極的に活用するかが、東方神霊廟クリアのキーポイントなのでしょう。
8月30日で会議が終了ということもあり、案件が急激に減少。 やっと人間的な時間に帰宅できるかしらん、と思っていたところ、 オペレーションチームに配属が決定。修行しろとのことですかね・・・。
どうも、Headquarters(司令部)として、調整と進行管理を行うようでして、 私も某セクターの調整担当責任者となってしまいました。
以前の業務からすると、現場寄りの仕事となりますが、是即ち、何百人単位の人がリアルに動くということです。 ・・・冷静に考えてみると、社会人一年生の仕事なんでしょうか。これ。
ただ、これまで、意味不明に激しい揉まれ方をしていたことを顧慮するに、随分楽になりました。 何より有難いのは、考える時間が与えられてあることでして、 統計学、分析化学若しくは生命科学を勉強しながら時間を過ごしています(←これらは我々の武器)。
データを根底から見抜く力が欲しいものです。
仕事に関する「How to本」は世の中にあまた存在すれど、 私にはそれは本質的なものではないように思われる。
確かに、仕事を効率的に捌くスキルは、無いよりあった方が良いのは然りである。 ただ、私が現代社会の仕事術につき、違和感を感ずるのは 「デキるオトコ、デキるオンナ」たることを目的化する風潮である。
周りを見渡すと「デキるオトコ、デキるオンナ」はあまた存在する。 しかし、時折違和感を感ずるのである。このデキル人たちはどこ向いて仕事しているんだろう、と。 組織内の事務処理を捌く限りでは効率的かもしれないが、 組織外の現場が本当に視野に入っているのか?と思料されることが、時折ある。
畢竟誰が困っているのか、誰が困ることになるのかを考えたら、そんな仕事のやり方にはならないと思うのだが・・・。
そういった様子を観察していると、 「デキるオトコ、デキるオンナ」たることは、重大な要件ではないと透見される。 むしろ私には、仕事術以前に、仕事に対する思想こそが本質的に思われる。
どこを向いて仕事をするのか?
外在的な視点からしても妥当性のあることなのか?
原則的な価値観を有すること。まずもって、これが重大である。
中身のない「デキるオトコ、デキるオンナ」になってはいけない。
朝帰り朝出勤を繰り返したことにより、体調を崩しました。 冷静に思い返してみると、毎年夏はゴホゴホ咳き込んでいたような気がするので、 どうも私は夏に体調を崩しやすい性質のようです。
土日も出勤する予定でしたが、来週は確実に斃れるイベント盛りだくさんなので、やめました。 そのかわり、市井の様子をみようと思いました。 高濃度の放射性セシウムを含む稲わらを給与された牛より、食品衛生法上の 暫定規制値(500 Bq/kg)を超える放射性セシウムが検出され、 食肉として流通、販売されていた件につき、消費の現場を見てみようと思いました。
ヒョコヒョコとスーパーマーケットに入り込んだのですが、 牛肉の質と価格がやはり釣り合っていないように思われました。 何というか、叩売り。極端なものでは霜降り肉2500円相当が「半額」。 価格を安く設定しているにもかかわらず、高く平積みされたままであり、 買控えの甚大さを物語っていました。
折角なので牛肉を食べようと思い、山形牛を仕入れている焼き肉店に入りました。 「いらっしゃいませ。何名様ですか?」「一名です。」という、 うらびれたやり取りを行い席に着いたところ、これがまた、人がいません。 店頭には、「当店では安全であることが確認された牛肉だけを提供しています。」 と張紙されていますが、そうは言っても、抵抗感があるのだろうと思われました。
ロース、ホルモン、切り落とし等を注文し、いろいろ思いを馳せながらゆっくり賞味しました。
・・・この国は、どこまで放射性物質を許容することができるのだろう。
日蓮宗を起源と標榜する新興宗教団体信者より、 いわゆる折伏(宗教勧誘)を受ける。ファミリーレストランにおける先方と当方の意見交換の内容は下記の通り。
(先方)(機関紙を示しながら)これを見よ。
(当方)日蓮の立正安国論の特集か。
(先方)立正安国論を知っているのか。
(当方)一般教養。日蓮は「我日本の柱とならん」とし、 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と、他宗に対し過激な対抗意識を有していたと記憶。
(先方)読んだことはあるのか。
(当方)否。
(先方)今の日本には立正が無い。正しさがないため安国ではない。 政治を見よ。正しさがないため各党バラバラであり、皆が利権とポスト争いに躍起になっている。 さらに、中国に付け入る隙を与え、日本に原発などという危険なものを大量に建設した原因は私利私欲にまみれた政治である。 今こそ正しさが必要であり、それは日蓮大聖人の立正安国論をおいて他はない。 日本が慈悲の力にもとづく仏の国となれば、天災は無く、侵略もなく、また飢餓で苦しむこともない。
(当方)極論である。私には政治家の皆が私利私欲に走っているとの認識はない。絶妙なバランス感覚を有する政治家もいる。
(先方)しかし皆が私利私欲なのが現実。現実を知らないからそう言うのだ。
(当方)あなたの言う現実とは何か、という問題もあるが。さておき、 日本が慈悲の力にもとづく仏の国となれば中国からの脅威を抑止できると言うが、具体的には如何。
(先方)他国が日本を守る。
(当方)何故。
(先方)慈悲の力を有する仏の国だから。(経典を開きながら)これを見よ。 「○○(註:何かの権化の名前だが、忘却。)」は天災や侵略を取り除き、福徳をもたらすとある。
(当方)(テクストを読みながら)ほう、あなた方は「○○」を現実的な作用を及ぼす実体として捉えているのか(実に興味深い)。 しかし、この一文を見よ。「○○」は世界の中で日本にのみ顕現する、とある。 つまり、他国をして日本を守らしむ直接的な作用はない、ということではないか。 さすれば、なぜ日本が慈悲の力にもとづく仏の国となれば他国が日本を守るのか。 他国にとって、日本を守る現実的なインセンティブは一体何か。
(先方)日本が慈悲の力にもとづく仏の国となればわかる。
(当方)左様か。一般論として、外交上の政策ツールは次の三点。軍事、経済、ODA等の国際貢献。 日本の対外的なプレゼンスは経済とODA等の国際貢献に依存。しかし、今般経済力の相対的な凋落に伴い、 日本のプレゼンスが凋落しているのが実情。 然るに、あなたたちは「慈悲の力にもとづく仏の国」ということを以て、国際貢献の充実化を目指すという理解でよろしいか。 さすれば、畢竟「慈悲の力にもとづく仏の国」というのは仰々しいと思料。現実的な対処方針としては、互酬性を期待する、でよいのではないか。
(先方)(機関紙の功徳体験記を示しながら)これを見よ。仏法に従い、祈ることで様々な功徳を得ることができる。 仏法を知る前の私は、自信や勇気がなく、こんなに話すことができなかった。仏法は活力を与えてくれるものだ。
(当方)左様か。ところで、仏法を知らぬ私が、斯くも自信満々に話しているのは何によるものなのか。 これは、仏法以外の方法論によって宗教的次元に到達できることの証左と解釈できまいか。
(先方)あなたのは正しい自信や勇気ではない。間違った考えだ。
(当方)なるほど、仏法のみが正しいと。それはさておき、 体験記を読むに、功徳の例としては世俗的に「よいこと」ばかりが列挙されているが、 仏法による功徳は「よいこと」のみを意味するとの理解でよいか。
(先方)仏法に従わないものには必ず罰が当たる。
(当方)私は、世俗的に「よいこと」も「わるいこと」も含めて宗教的には功徳と思うが。 畢竟、「罰」もまた宗教的には功徳の一つ。あなたがたの宗教上の解釈は不徹底ではないか。
(当方)仏法のみが正しいというのは、是如何。
(先方)日蓮大聖人の予言の的中が証左。 日蓮大聖人は鎌倉時代、仏法に従わぬ罰として、天変地異、他国からの侵略等を予言された。 事実、連続する大飢饉、二度にわたる元寇があった。これは日蓮大聖人のお言葉の正しさを示している。
(当方)予言の的中を伝える書は、いつ作られたものか。
(先方)元寇以前である。日蓮大聖人は未来を見通すことができた。
(当方)何故。
(先方)日蓮大聖人においては宇宙と一致されていた。これにより、全てを見渡すことができた。
(当方)その解釈は不徹底。過去、現在、未来という通俗的な時間概念、 つまり直線的に移行していく時間概念に即して解釈するというのは、宗教的次元を極端に矮小化している。 宇宙と自分の一致という次元においては、時間は永遠である。それは無限の過去と無限の未来が一致するということであり、 いま、ここの現れこそが永遠ということを意味する。あなたたちは宗教的な時間を日常的な時間として解釈するという錯誤をおかしている。
(当方)他宗教の例としてキリスト教を挙げる。あなた方は是をどう思うか?
(先方)外道である。
(当方)直截的に断ずるが、慈善活動を行っている者もいると思料。
(先方)偽善である。
(当方)何故。
(先方)キリスト教には因果関係の因がない。即ち、神の実在があらかじめ与えられてあり、それを説明する原理が無い。 しかし、日蓮大聖人においては因果関係が説明される。
(当方)キリスト教の神に対する洞察は妥当。しかし、積極的な意味での因を説明することは不可能と思料。それはたとえ日蓮においても同様。 何故なら、因は捉えようとすればするほど捉えられない、という否定性を通じて観ぜられるもの故。
(先方)意味不明。
(当方)それでよい。
(先方)(渋い顔をしながら)なんだかな。あなたはひねくれている。
(当方)はは☆それはよく言われる。 だが、あなたが私の理解力が無いと感じているのと同様、私はあなたの理解力が無いと感じている。 私が言いたいことは次の二点。 まず、私は貴方達の宗教体験を否定するものではない。それは尊重されるべきもの。 しかし、貴方達が真に宗教体験をしたのであれば、貴方達の原理の特殊性も同時に理解したはず。 何故、自身の宗教のみを正しいとして、他の宗教、価値観を否定できるのか。
(先方)それはわかった。だが日蓮大聖人の言われたことは生命の原理であり実践の原理であるから正しい。
(当方)「わかった」とは何をわかったのか。 多くの宗教経典は「生命の原理、実践の原理」と標榜している。なぜ、自身の宗教のみを正しいと言えるのか。 もとより経典はテクストである。宗教体験はテクストに内在するものではなく、内在的に超越するところにこそエッセンスがある。 それがわかっているなら、多様なテクスト或いは多様な表現の形態に対し、得心する必要はないにしても、理解を示すことはできる筈だ。
(先方)わかったからもっと単純に考えろ。あなた社会人だろ。大人になれ。
(当方)やれやれ(どっちが子供なんだか)。繰り返すが、私は貴方達の宗教体験を否定するものではない。ここは重要なポイント。 しかし、その道程としては他でもあり得た、という視点が欠落するのはいかがなものかと思料。 私は一元論的なあなたたちと異なり、多様な価値観と対話と調整を重視するものである。 あなたは私を折伏したいのだろうが、私はあなたの信仰自体は否定しない。
(先方)折伏を知っているのか。
(当方)一般教養だろう。
(先方)これだけは知れ。 (日蓮の説話を延々20分程度語り続けた後)日蓮大聖人の予言は鎌倉時代だけではなく、現在にも繰り返される。 東日本大震災はまさに日本が仏法に背いた罰。故に、今後10年の間に日本はより一層仏法に基づかなければならない。 政治は私利私欲にまみれている。その典型たる原発は直ちに廃止すべき。 私利私欲にまみれてあんなもの(原発)作りやがって。全て裏目。 だが今後、日本が慈悲の力にもとづく仏の国となれば立正安国である。
(当方)あなたは結果論者。確かに今般原発は事故に至った。 しかし、それを以て、裏目と見做して全否定するのは、歴史というプロセスの冒涜。 日本における原発推進は1970年代のオイルショックに対する対処方針。 そこには高度経済成長で築いた生活レベルを維持するという合理性があった。 その意義を汲み取ることなく、結果論として全否定する態度は甚だ気にくわぬ。 過去を現前において救済するのが「こころ」を預かるものの本義であろうが。 然らば、「今後」ではなく、仮に1970年代であれば、仏法はどのような答えを用意したのか示して見せよ。
(先方)私は1970年代を生きていない。そんなことはわかるわけがない。
(当方)愚昧。話にならぬ。(席を立ち、会計用紙を握りしめつつ)余が全て支払う。
(先方)(小銭を用意しつつ)受け取れ。
(当方)要らぬ。
(先方)せめて、この経典だけでも持って行け。
(当方)要らぬ。もらっても捨てる。必要としている者に配れ。
(先方)罰が当たるぞ。
(当方)当たらぬよう余のために祈るがよい。
食品安全行政においては「リスク分析」という手法が効果的と言わている。 今般、「リスク分析」は世界の食品安全行政の主潮流であり、 日本においても2001年に発生したBSE問題以降、本手法が採られている。
「リスク分析」は3つの構成要素から成立する。 「リスク評価」、「リスク管理」、そして「リスクコミュニケーション」である。
「リスク評価」とは、食品中の危害因子の及ぼす影響を科学的に評価、記述するものである。 リスク評価の段階では社会的なステークホルダーへの配慮はせず、 純粋に科学的に評価するという特徴がある。 これは、所謂「規制と振興の分離」を行うためである。 ( 評価の時点でステークホルダーの関与があると、 「生産者の実態に合わせた評価=現状追認」となる危険があるため、評価が有名無実化する惧れがある。 評価時点でステークホルダーの関与を排することで、規制的な評価を担保できる。)
「リスク管理」とは、前述の「リスク評価」に基づき、 社会的なステークホルダーへの配慮をしながら、社会的なコスト―ベネフィットのマネジメントを行うものである。 具体的には、生産段階や加工段階においてリスクの低減化を図り、社会的に許容されるレベルのリスクを実現しつつ、 消費者、生産者間におけるコストーベネフィットの社会的な最適化を目指すものである。
「リスクコミュニケーション」とは、食品中によるリスクを巡る社会的議論を行うものである。 先の「リスク管理」のパラグラフにおいて「社会的に許容されるレベルのリスク」と記述したが、 勿論社会ごとにリスクに対する認知が異なるため、 「リスクコミュニケーション」を通して妥当なリスクのレベルを社会的に構成することが企図される。
「リスク分析」の「リスク」は、一般の方の抱く「リスク」のニュアンスとは質的と言ってよい程の志向的差異が存在する。 「リスク分析」の「リスク」は「リスクはゼロにはできず、高いか低いかが問題である」という洞察を基にしている。 他方、一般の方の抱く「リスク」のニュアンスは「リスクはゼロでなければならない」という洞察を基にしているように思われる。
そのため、「リスク分析」における「リスクコミュニケーション」というプラットホームは 「リスクはゼロでなければならない」とする一般の方の参画する中では健全に機能しない。 「リスク分析」においては、社会的に許容なリスクの大きさを社会に準拠しつつ決するプロセス― つまり社会的回答を探求するプロセスとして「リスクコミュニケーション」を想定しているため、 そこに「リスクゼロ」という答えありきのスタンスは馴染まないのである。
(かくして「リスクコミュニケーション」を やっているはずが、実のところ「リスク」が共有できておらず、 「コミュニケーション」になっていないとすると、「リスクコミュニケーション」から「リスク」と「コミュニケーション」を 削除しなければならないのだろうが、そうすると一体全体何をやったことになるのか・・・。)
このディスコミュニケーション問題を考えるに際し、「リスクコミュニケーション」の範囲をどう想定するのかが一つの糸口となるかもしれない。 そのため、まず極論として次の命題を提示する。
命題:「リスクコミュニケーション」の対象の全域化を企図するべきか否か
この全域化というのは、「リスク分析」における「リスク」概念(=リスクはゼロにはできず、高いか低いかが問題である)をまさに皆で共有しようという話である。 しかし、これは次の2点の問題があると考えられる。1点目はプロセスの問題、2点目は価値観の問題である。 そのため、私は「リスクコミュニケーション」の対象の全域化を企図することについては難色を示すところである。
1点目のプロセスの問題、というのは どうやって皆と「リスク分析」における「リスク」概念を共有するに至るのかという問題である。 概してこういった問題は、「初等中等教育における食育等の取り組みを通して・・・云々」という 教育政策的なアプローチになろうかと思われるが、実効性については不確実である。 (例えば、平和教育を受けたはずの広島市民が、皆憲法9条の精神に則ろうとするわけでもなかろう)。 かくして、このような教育政策自体悪いとは思わないが、教育すればそれで丸く収まる問題でもないと考えられる。 そして、その要因として摘出されるのが、2点目、価値観の問題なのである。
私見ではあるが「リスクゼロ」を巡る諸問題というのは、ある意味で宗教論争的な構図として解釈することさえできるという点で、根深い問題に思われる。
一般の方の抱く「リスク」のニュアンスはリスク低減の極限に「リスクゼロ」という実体を措定しているように思われる。 これは、経験される世界内部におけるリスクの大小を志向するものではなく、「リスクゼロ」という抽象的状態の「存在」を志向している。 思うにこれは、世界内部における対象化の極について、内部では捉えきれないところのものの自覚―内部の否定性を、 なお外部に「存在」するものとして、実体的に「神」と措定することに相似形である。 つまり「リスクゼロ」というのはある意味超越神信仰に類型できる。
他方、「リスク分析」においてはリスク低減の極限としての「リスクゼロ」という実体を殺害するところからスタートする (歴史的には、「安全/危険」の二分法は成立しない、というところから「リスク分析」は胎動した)。 「リスク分析」においては、リスク低減の極限には到達するところなく無際限であるという自覚、 言わば、世界内部の否定性の否定を通して、反証的に世界内部のリスクの大小を志向するに至っていると見ることができる。 つまり、「リスク分析」とはある意味世界内部の否定性の否定を介した現世信仰に類型できる。
これらは、世界内部の否定性―しかもそれは世界内部からは検証不可能―に対する信仰のベクトルが全然異なっており、 その価値観の転回はある意味宗教的「回心」の経験と言ってよいものと思料する。 そのため、「リスク分析」の「リスク」を前提とした「リスクコミュニケーション」を全域化する企図は、 ある意味では宗教戦争の様相を呈するであろうことから、実際には困難を極めるものと考えられる。 (また、ある意味では信仰に対する侵害行為と捉えられても詮方ない。)
しかし、上記の宗教論争的な解釈からは、1つの興味深い知見を得ることができる。 先に「リスク分析」は「リスクゼロ」の可能性をさらに推し進めた結果、転じて世界内部のリスクの大小を志向するに至っているものとして扱った。 そうであれば、理屈の上では「リスク分析」は「リスクゼロ」の価値観を包摂するものとして解釈しなければならないと思われる。 その際、「リスクゼロ」は「リスク分析」という価値観に理解を示すことができないが、「リスク分析」は「リスクゼロ」という価値観に理解を示すことができる立場にある、と考えることができる。
もっとも、その場合両者が同じ「リスクコミュニケーション」という土俵に付けるということを意味しているわけではない。 厳密には「リスクコミュニケーション」においては「リスク分析」の「リスク」概念を信仰している者同士でないと、建設的な議論をすることができない。 その意味では、「リスクゼロ」の信仰者は「リスクコミュニケーション」からはやはりディスクローズされてしまう。
ただ、「リスク分析」の信仰者は、「リスクゼロ」の信仰者が食品を選ぶに際して納得感のある選択の余地を残す、という配慮はできるものと考える。 それは、「リスクゼロ」という科学的実態へ目がけた配慮ではなく、「リスクゼロ」志向という生き方、価値観、信仰への配慮である。
もとより、「リスク分析」においては、食品の安全性を担保することが目的であり 食品中に危害因子があったとしても生物学的に健康を害さないレベルを定めて管理するものである。 そのため、「リスク分析」を経て流通するものについてはリスクは限りなく小さく、統計的に差を可視化できるとは通常言い難いものである。 ただ、だからといってある食品中の危害因子(農薬、食品添加物、遺伝子組換え作物、最近であれば放射性物質等)をごく微量であったとしても摂取することが憚れる、という価値観を蹂躙する必然性を帰結できるわけでもない。
そういったわけで、そもそもこれらの危害因子が含まれていないものを選ぶ、 ということで「リスクゼロ」の信仰者がその信条に基づき納得感を伴う選択ができる余地を作っておくことは大切であるように思われる。 例えば食品の「表示」が担う大きな役割とはそういった選択を担保することである。「表示」は直接的には食品安全に寄与しない。しかし、選択の納得感に寄与するものである。
畢竟「リスク分析」の信仰者からすれば、いずれにせよ健康に害を及ぼすリスクの大きさではないよ (場合によっては、リスク回避行動自体が新たなリスクに直面する原因となっているよ・・・)ということになるのだが、 そこは選択者の信仰の問題であって、言わぬが仏という領域もあるように思われる。
重要なのは、どうであれ健康に害を及ぼすレベルの危害因子を含んだ食品が実態的に流通しないようにすること、 そして、信仰に基づく食品の選択ができるようにすること、なのだと暫定的に結論し、今回は筆をおく次第である。
・・・ある日のTyu-gen列伝(1)・・・・・・・・・・・
公園を歩いていたら、2人組の老婆に話しかけられた。
「すみません、お時間よろしいでしょうか?」と。
「はい?」と応じたところ、
次の一言が
「教会に行って祝福を受けませんか?」
「神は人となり人は神となる。この私が祝福を授けよう!」という高級な切返しができればよかったのだが、 あまりに突発な事態であったので「大丈夫です」としか返せなかった。
誠に修行不足なるかな。
・・・ある日のTyu-gen列伝(2)・・・・・・・・・・・
書店でライトノベルの棚の前に佇んでいたら、「最近のライトノベルって何が面白いんですか?」とリュックサックを背負った男性から話しかけられた。
「いや、僕もよくわからないから佇んでいたわけで、むしろ逆に教えてほしいぐらいなんですが・・・」と返答すると、 「好きな声優は誰ですか?」と。
「一昔前ですが、野川さくらや浅野真澄が好きですよ。」
「僕は水樹奈々です。このリュックの中にいっぱいグッズが入っているんですよ。」
水樹奈々ファンとしての熱い魂を見せてくれた。
・・・うーん。
なんか変な雰囲気を醸しているのだろうか?
今般、「Twitter、Facebook、Youtube」はICT社会の三種の神器とも言ってよいほど、 社会的な普遍性を獲得しつつあるように思われます。
これらのメディアツールの大きな特性として、 「個人から広範の個人へ対する即時的にして直接的な情報発信」を挙げることができます。
これは、個人レベルで見たときにはやはり革新的なことです。 かつてであれば、マスタイプのメディア映りが良い人間が特権的に有名になっていたわけですが、 その裏には、特権を享受する人間と然程に実力変わらない、 或いは、それを凌駕する実力がある、にもかかわらず表には出てこれなかった人たちがいたはずです。
そういった人たちにとって、 「Twitter、Facebook、Youtube」等は強力な自己プロデュースツールにして、 コミュニケーションフィールドとなるので、用立てることには積極的であってよいと思料します。
ただ、これら「三種の神器」に対して無批判的な求心性のある風潮については、 私の所感としては、疑義を呈するものです。 これらは誰にとっても「三種の神器」というわけではなく、 用立てるには慎重を要する属性の人間もいるはずなのです。
先にも若干触れましたが、これらのツールの特性はある種のアトミズムを志向していると言えます。 その即時性、直接性から鑑みるに、ICT時代の「三種の神器」にとって 最適なパフォーマンスを呈することのできる関係性というのは 「流動性のある個人対個人」。 つまり組織的な「キズナ=ホダシ」の無いフリーランスな個人同士の関係でないと、最適に使いこなすことはできません。 特に、その困難さは「Youtube→Facebook→Twitter」という即時性を要する並びで顕在化します。
例えばTwitterについて考えると、これは巨大な組織の長であれば使うことに躊躇するのが普通の感覚だと思われます。 自分のつぶやき一つで組織全体に影響があることがわかっていれば、即時的につぶやけない、 つまり、Twitterというツールの最大のうまみを活かすことができないはずなのです。 また、組織の長でない者が組織を代表してTwitterでつぶやこうにも、 通常のやり方であれば組織の決済が必要となるので、「つぶやくたびにハンコが必要」という 全くもって即時性から程遠いこととなってしまいます。巨大な組織にとって、Twitterのスピード感は早すぎるのです。 それでも、ポンポンつぶやける人は、組織実務上の現実が見えていないか、責任を感じていないか、その両方かの奇特な人です (つぶやくなら、せめて裏付けを取ってからつぶやくか、「今日は空が青いなう」(← So, what?)のように人畜無害につぶやくことが強く推奨(Strongly recommended)されます)。
なんとなくICT時代の「三種の神器」に乗っからないと、 洗練されていないような気分に、企業も行政機関も政治機関もなるのかもしれませんが、 ツールの特性をよく考えて導入しないと痛い目を見ると思います。 これらのツールは「組織活動」より「個人活動」に高い親和性を示すものと考えられるため、 実務的に広範な影響のある組織では慎重な取り扱いを要すると念慮します。
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これは行政機関についての一般論ですが、 Social mediaの発達に伴い個人の情報発信の力が相対的に強くなる時代では、 行政機関から対外的に情報提供する際、配慮すべきステークホルダーの優先順位を再考しないと、 大変なことになるのではないかと思われます。
かつてであれば、社会広範に影響力のある政治家、マスメディアのプライオリティが高かったと言えるのですが、 今般、「一般の方」こそプライオリティが高く、尚且つ、 情報提供するに難易度の高いステークホルダーになっているのではないかと思われます。
例えばFacebook、Twitter等で一度炎上すると、電話、E-mail等の問い合わせが殺到することとなります(問い合わせ先をスパム的に一挙に拡散させるという悪質なケースもある)。 加えて、行政担当者との電話でのやり取りは、最近Facebook、Twitterで情報公開される傾向があるため、「一般の方」に対する対応の困難さに拍車をかけています。 正確に伝わればよいのですが、誤解が伝わるとさらに問い合わせが殺到するということにもなるでしょう。
しかし冷静に考えてみると、もとより炎上しているセクターは、解決しなければならない事案を抱えているところです。 そこに電話やE-mail等の問い合わせが殺到すると、本来解決しなければならない事案へ力を傾注することが出来なくなってしまいます。 アイロニカルに言えば、皆が解決してほしいと思って問い合わせを行えば行うほど、その解決が遠のいていく、ということになります。
行政機関においては、「一般の方」を一層配慮する必要があることには間違いありません。 しかし同時に、Social mediaを用いて情報発信する個人も、 それがどういった影響をもたらすものなのか想像した上で発信することが求められていると思います。
それにしても、ホント複雑な時代になったものですね。
現在食品安全に関して日本でトピックになっているのは放射性物質による農作物類の出荷規制とドイツでのO-104食中毒と思料する。 ところで、ヨーロッパにおいては、O-104は当然としても、何故だかアスパルテームが物議を醸している。 今回は、その経緯について調べることとした。
今般、ドイツでO-104集団食中毒が問題となっていたので、 欧州食品安全機関(EFSA:European Food Safety Authority)のwebsiteをのぞいてみることにした。 すると、「EFSAは人工甘味料アスパルテームに関する科学的情報を広く求める」という記事が目に入った。 どうやらEFSAはアスパルテームのリスクを再評価するとのことである。 どうしたことかと思い、本記事の関連情報を集めることとした。(O-104は・・・、またの機会に。)
2010年に、アスパルテームの安全性に疑義を投げかける以下の2つの論文が投稿された。
[1]はアスパルテームの長期毒性として発がん性を示唆する研究結果である (なお、First authorのSoffritti M.はEuropean Ramazzini Foundation (ERF)の研究員であり、 2010年以前もアスパルテームの発がん性を報告してきた。[別添]アスパルテームを巡る欧州の歴史概要を参照)。 また、[2]は人工甘味料の飲用と早産との関連についての疫学調査結果である。
これらについて、European Commission(欧州委員会、EUの行政執行機関)はEFSAに評価を要請。 EFSAは2011年2月28日のNews Storyで「これらはアスパルテームに関する現行のリスク評価を変更する理由にならない」との見解を示した。
ところが、2011年3月16日にEFSAの主席研究員の一人が、ヨーロッパ議会の聴取に召喚された。 EFSAとしては、議会に対して以下の再確認を行った。
1.世界中の科学団体により、アスパルテームについてのあらゆるリスクは考慮されてきたこと。
2.現行のアスパルテームの一日摂取許容量(ADI)は消費者の保護を確実なものとしていること。
これに引き続き、2011年3月18日、EFSAは「アスパルテームに関する客観的で科学的なディベートを奨励する」と表明。 「EFSAは常に、オープンで誠実かつ責任のあるやり方で、科学的なディベートをする準備ができている。」と宣言した。
ところが、European CommissionはEFSAに対して、アスパルテームの完全なリスク評価を実施するよう継続的に依頼。
2011年5月26日、EFSAは「完全なリスク評価を実施する」と表明。その際、 「十分な証拠があれば、即座に開始したものの・・・。」と滲ませている。
2011年6月1日、EFSAはアスパルテームに関する可能な限りのデータを収集すると表明。 公表から未公表まで問わず広く情報を収集するとしている。なお、アスパルテームのリスク再評価の期限を2012年としている。
今般ヨーロッパにおいて見られる、アスパルテームのリスクを再評価するという流れは、 アスパルテームの使用が実質的に危険である、という事実ではなく、 アスパルテームの使用は不安である、という心情によって形成されている。
EFSAは、「アスパルテームのリスクを再評価する」と言いつつも、本音ベースではあまりその意義を感じていないと考えられる。 実際、EFSAは節目節目で、アスパルテームについては現行のリスク評価を見直す必要はない、と表明しており、 議会からの聴取を受けるほどの社会的不安を背景としながらも、「我々は常に科学的なディベートをする準備がある」と大胆不敵な宣言までしている。 終いには、5月26日にEuropean Commissionの依頼を受入れ、アスパルテームのリスクを再評価すると表明した際には、 「十分な証拠があれば、即座に開始したものの・・・。」と言うことで、「実際はそんな証拠はなかったからこそ、即座に開始しなかったんだが。」ということを滲ませている註1。
しかし、論文[1]や[2]のように、アスパルテームの安全性に疑義があるとする論文が提出されているのも事実である。 これらに対するEFSAの見解は、[1]については「実験動物の選び方が悪い」、[2]については「証拠不十分」とのことであるが、 私は当初これらを読んだ際、若干投げやり的な印象を受けたものである(「これは酷い」と吹き出してしまった)。
だが、その印象はあながち間違いとは思われない。 特に論文[1]の著者、ERFのSoffritti M.は、2005年以降アスパルテームの発がん性を何度も提起しており、その都度EFSAより動物実験に由来する問題点を指摘されている。 さらに、2005年以降のアスパルテームの安全性を巡る論争はEFSAとERFのSoffritti M.との論争と言い換えてもよい状況にある([別添]アスパルテームを巡る欧州の歴史概要参照)。 そのため、EFSAとしても「またか来たのか」という感があったのは否めないところであろう。
これを踏まえると、この度EFSAがアスパルテームのリスクを再評価するに当たり、「科学的情報を広く求める」としているのは、ある意味香ばしい。 普通の感覚からすると、食品安全に関して「科学的情報を広く求める」という場合、リスクが高くなることを見積もり行うものと思われるが、 EFSAが期待しているのは逆と推察される。つまり、「科学的情報を広く求める」ことによって、「多数の科学者」からの「アスパルテームのリスクの再評価の必要はない」とのお墨付きを期待していると推察される。 換言すると、2005年以降のアスパルテーム論争は、「特定の科学者(ERFのSoffritti M.)」による「(特殊な)動物実験」が火種となっているため、 EFSAは「多数の科学者」による「多数の評価軸」を公開参照とすることで、この論争に決着をつけようとしている、と考えられる。
これが邪推にしても、これまでに「多数の科学者」による「多数の評価軸」を参照にしてきたEFSAが、「政治的」に優位なポジションにあることは言うまでもない。
(註)
註1:原文は若干晦渋な仮定法で書かれてある。
原文:Had any evidence been found that would have led EFSA’s expert Panel to reconsider the safety of aspartame, a re-evaluation would have been immediately initiated.
邦訳:EFSAの専門家をしてアスパルテームの安全性の再考に至らしめる証拠が見つかっていれば、アスパルテームの再評価は即座に開始されていただろうに(実際はそのような証拠はなかったので、再評価は即座に開始されなかった)。
1980年代、諸国においてアスパルテームの食品添加物、卓上甘味料としての使用が認可されていったことを背景とし、 ヨーロッパではScientific Committee on Food (SCF)によりアスパルテームの安全性が評価された。 この時、一日摂取許容量(Acceptable Daily Intake: ADI)を40 mg/kgbwとした。
1984~1988年のSCFの評価結果に基づき、ヨーロッパでアスパルテームの使用が認可された。
Scientific Committee on Foodにおいて、 「アスパルテームはヒトの摂取において問題ない」とするレビューが出された。
European Ramazzini Foundation (ERF)により、ラット実験でアスパルテームの発がん性を示唆する論文が提出された(First author: Soffritti M)。
前年に引き続き、ERFによりラット実験でアスパルテームの発がん性を示唆する論文が提出された(First author: Soffritti M)。 ERFの提出した論文(2005,2006年)について、European CommissionはEFSAに評価を要請。 EFSAは「SCFの評価結果を見直す理由にはならない」との見解を示した。
前年に引き続き、ERFによりラット実験でアスパルテームの発がん性を示唆する論文が提出された(First author: Soffritti M)。 当該論文について、European CommissionはEFSAに評価を要請。
EFSAは2007年のERFの論文につき、「SCFの評価結果を見直す理由にはならない」との見解を示した。
ERFはSwiss miceを用いアスパルテームの長期毒性として発がん性を示唆する論文を提出。 また、Halldorsson T.Iは人工甘味料の飲用と早産との関連についての疫学調査結果を提出。 当該論文について、European CommissionはEFSAに評価を要請。
EFSAは2010年の2論文につき、「SCFの評価結果を見直す理由にはならない」との見解を示した。
European CommissionはEFSAにアスパルテームの完全なリスク評価をするよう依頼。 EFSAは2012年にはリスクの再評価を完了するとしている。
European Food Safety Authority (EFSA)
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川上とも子さん、突然の訃報。ご冥福をお祈りします。 ニュースでは「ヒカルの碁」や「少女革命ウテナ」の声優と紹介されていますが、 私にとってはAir(神尾観鈴)でした。夏が来ようとしているのに、寂寞の感があります。 無性に「夏影」を弾きたい気分です。
最近読んでいるカントの『実践理性批判』について、思うことを著述します。
カントにおける自由とは、感性的なものではなく理性的なものです。 経験的対象物に由来する形で行為することは、カントにとって自由な行為ではありません。 例えば、美味しそうなケーキを見て食欲に従うまま食べること、お金を求めて仕事をこなすこと、他者の笑顔を求めて慈善活動をすること。 これらは全て経験的対象物に由来した行為であることから、カントは感性的な「傾向性」と考えます。
しかし我々は、感性的な「傾向性」のみに準拠して行為しているわけではありません。むしろ、感性的な「傾向性」に傾かない、という行為も行うことができます。 それは、対象物のような感性的実質に準拠するものではなく、形式に準拠した行為として定式化されます (あなたの主観的なルールが、いつも同時に普遍的なルールとして妥当するように行為しなさい」)。
カントはここに、感性的ではないという点で、先天的な(ア・プリオリな)理性的原理=道徳法則の存在を見出します。 さらに、道徳法則あればこそ、これと照らし合わせて何が自由なのかを認識することができると考えます。 つまり、道徳法則は自由によって確証されるものであり、自由な行為とは道徳法則に準拠した行為 (自由は道徳法則の存在根拠、道徳法則は自由の認識根拠)として理解されます。 (一見循環しているように思えますが、前者は個別事例から普遍的な道徳法則への演繹、後者は普遍的な道徳法則から個別事例への適用に係ること、と私は理解しています。)
カントは、感性的なものを重要視するわけではなくあくまで道徳法則に重きを置いています。 しかし、冷静に考えてみると、カントの議論は感性的な「傾向性」に相当依存して進んでいるような気がします。 感性的な「傾向性」なしには「傾向性」に傾かない行為ということもあり得ないわけですから、道徳法則を確証することもないわけです。 ということは、感性的「傾向性」と道徳法則は重要度としては同位ではないかと思われるのです。 そこで今度はカントとは逆に、道徳法則を出発点として議論を進めることはできまいかと思うわけです。
まず「感性的な実質に依存することのない道徳的に必然的な行為」のみによって世界が説明されているとすればそこに自由はありません。 しかし実際には、普遍的ルールから逸脱するという行為が観察されるはずです。
従ってここに、理性的形式ではない感性的実質による「傾向性」を見出すことができます。 さらに、「傾向性」あればこそ、これと照らし合わせて何が自由な行為なのかを認識することができるはずです。 つまり、自由は傾向性の存在根拠であり、傾向性は自由の認識根拠というわけです。
このように理論上ではあれ倒置が成立します。
さて、私がこの思考実験を通して提出してみたかったことは、以下の三点。
1. 感性のみ又は理性のみの場合、それぞれの必然的な過程しか存在しないことから自由の認識が不可能。
2. 自由は感性と理性の境界に生じる。
3. 感性を出発点とした場合と理性を出発点とした場合とで自由の意味が変わる。前者は禁欲的、後者は快楽的。
その意味ではカントの自由は理論上は一面的と思われるのです。
此度、「知的障害者支援施設にて実地研修」という大変貴重な機会を頂いております。 職務規定上詳らかには書けませんが、重度知的障害者を受け入れ対象とした通所施設でして、 知能指数換算で20~34の方々がメインに通所しています。そこで揉まれて思ったことを書いてみます。
一般に知的障害と言えば、「他者からの支援を必要としており、自立性が低い。」 というネガティブなイメージが伴うかもしれません。そしてそれは一面では「正しい」と言えます。 知的障害のある方は、身体機能に制約がある、自己を表現することに困難を伴う等の理由で、 通常の生活を送るに困難を抱えています。そのため、これらの困難を緩和するため他者からの支援を必要としています。
しかし、「自立性が低い」とは一体全体何を意味しているのか、実は判然としていないようにも思われます。 自立しているとはどういったことを意味しているのでしょうか?健常者と言われている我々は自立しているのでしょうか?
自立を考える上で最もわかりやすい指標は、「経済的自立」かと思われます。 これは「自己の生活費を、自己の労働賃金で賄うことができる状態」として定義可能かと思われます。 しかし、労働賃金の出所にまで遡及して考えると、本当に自立していると言えるのか?という問題提起をできるかと思われます。
例えば、重度知的障害者は、作業所等で就労することに困難があり「自己の生活費を、自己の労働賃金で賄うことができる状態」とは言えません。 その意味で「経済的自立」は達成できていない、と言えます。 生活するためには様々な公的支援を必要としており、 公的機関の運営する施設に入居する場合であれば、重度知的障害者の生活費はほぼ100%公的負担によって成立していると言えます。
他方、公務員を例にとりますと、 局所的には確かに「自己の生活費を、自己の労働賃金で賄うことができる状態」が達成されているため、「経済的自立」が達成されていると言えます。 しかし、冷静に考えてみると労働賃金の出所は国民の税金です。そのため、公務員の生活費の100%は公的負担によって成立してます。
そのため、公的負担という観点から見たとき、 「経済的自立」という指標は非本質的なものになります。 知的障害者であろうと公務員であろうと公的負担の下で生活が成り立っており、その意味では両者とも実質的同等と見做し得ます。 さて、所謂健常な役人は「自立している」と言えるのでしょうか?
次に検討してみたいことは、「他者からの支援」という側面から見た自立の問題です。
知的障害のある方は、身体機能に制約がある、自己を表現することに困難を伴う等の理由で、 通常の生活を送るに困難を抱えており、困難を緩和するため他者からの支援を必要としている、ということを先述しましたが、 これを以て「知的障害者には自立性がない」とするのはクリアカットとは思われません。
例えば、健常者と言われている人であっても、自分ではできないことを他者に依頼するというのは日常の光景です。 さらに言えば、経済活動自体がそれを要件の一つとして成立していると言ってもよいように思われます。 自分ではできないサービスを他者に依頼して購入しているので。
つまり、依頼の難易度に程度の問題があるにしても行為の形式は同じと考えられます。そのため、 「他者からの支援」を理由に自立性が無いとする場合には何らか恣意があると思われます。
ここまでで、公的負担という側面、及び、他者からの支援という側面から、自立について考えました。 もしも知的障害者に自立性が無いとするなら、健常な公務員も同様理由で自立性が無い、と推論できます。 しかし、この推論にはなお違和感が残留するかもしれません。 確かに冷静に考えてみると、これらは両者とも「負担」という一側面から見られているに過ぎません。 そのため今度は逆に「他者への恩恵」という側面から自立を考えることを試みます。
例えば、公務員の場合、確かに公的負担、他者からの支援といった負担の側面がありながらも、 社会に何がしかのプロフィットを返しているという想像は、何となくではあれ、つくと思われます。 人々が生活する上での社会基盤を整えると言えば、確かにプロフィタブルな仕事をしています。
それでは、知的障害のある方は負担ばかりかけて社会にプロフィットを返していないのでしょうか?
今回一番提出してみたい洞察を含むのはここにあるのですが、 私は実は「存在するだけで社会にプロフィットをもたらす」という見方ができると思っています。 広範にわたってできないことがあるということは、そこには生活支援に関する需要があり、 需要を中心として雇用の必要性が創出されているということを意味しています。 つまり、知的障害のある方を支援している人は、ある意味、知的障害のある方によって生活の糧を得ている、ということでもあるわけです。
そのため、「知的障害者一人を支える職員数」という見方よりも、「知的障害者一人が雇用機会を提供した職員数」という発想の転換をしてみてはいかがと、思うわけです。 そうであれば、「他者への恩恵」という側面からの自立の問題もそれほどクリアカットではないことに思い至るわけです。
先の例を踏襲して結論めいたことを言いますと、 知的障害のある方を自立していないと言えば、健常な公務員も自立していません。 健常な公務員を自立していると言うならば、知的障害のある方も自立しています。
結局のところ、自立とは何なのかには答えることにはなっていませんが、最後に一点。
今般、介護、福祉に対する論調は負担という側面が強調されているような気がします。 先の知的障害のある方の議論を一般に介護、福祉の問題に敷衍すると、 介護、福祉は国家にとっての負担ではなく、ある種の公共事業と見ることができるようにも思われます。 負担と思うより、実はプロフィットをもたらしていると考えれば、理解と尊重に至りやすくなるのかもしれません。 (理想的には仮言命法ではなく定言命法によるものが望ましいのだろうけれども・・・。)
最近、興味のある書籍は専門書か、現代まで読み継がれてきた古書。両者に共通して言えることは「保存性」。 専門書であれば知識体系、古書であれば洞察に重厚感があると思うこの頃です。
ただ、それ故に益々私の財布の中身は軽薄になっていきます。 特に専門書は酷いもので、1冊4000円ならまだ購入しようという気になるものの、 先日目星をつけた書籍の値段を見たときには、流石に「オワタ」の象形文字が脳裏を過りました。 リスク管理に係る相当に学術的内容に立入った書籍で、「これだよ、これを求めていたんだ!」と、 背表紙を見るに「¥70,000」の5ケタの数値。やおら棚に戻し他の書籍を当たってみるに「¥60,000」の5ケタ。 そこで、極々一部のマニアにしか需要がないことを悟するに至りました。一般消費者との取引をまるで想定していません。 (余談ですが、最近漁っている擬古文調の書籍の背表紙には、例えば「¥1.50」とあります。ある意味これも取引不可能な数字です。)
5ケタの数字が並ぶ専門書として比較するに、まだ哲学書は需要があるんだなぁと思います。4ケタ。なんて良心的。 最近では、なぜかしらカント哲学に興味を抱くに至りまして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』を理解しようと試みています。
私、カントの認識論を大いに誤解していたと思っています。カントの「物自体」という概念は、通例的な間接知覚論とは異なるのです。 通例的な間接知覚論では、我々が感官を介して知覚する経験的対象界は現象に過ぎず実在ではないという見方をしており、 現象の背後に真の世界が実在しているとしています。その際、17世紀の粒子仮説論者、そして今般の分野横断型の科学者のように、 実在界は理性の推論能力で探求可能なものとされていました。
しかしカントは「物自体」としての世界は実在性/非在性を証明できないとしています。 ただ、カントは、実在性が証明できないのと同等に非在性も証明できないとした上で、「物自体」としての世界を「想定」するという道を採っています。 なぜ、カントがアンチノミーと知っておきながら、なお「物自体」としての世界を「想定」するのかというと、これは道徳的な必要性からであって、 通例的な間接知覚論のように認識論における実在界の探求の必要性からというわけではありません。その点では、ある意味プラグマティックに世界観を想定しているといってよいでしょう。
カントの主眼は認識論の限界を示すことであり、問立てとしては「世界がどのようにあるか?」から「世界をどのように生きるか?」に定位した上で 「物自体」という概念が構想されていると見るのが正当な評価なのだと思料します。「カントが科学と哲学を分離した。」という言を何処かで見たことがありましたが、 カントの「物自体」は実在的な科学的探究の対象ではない、という意味でまさにその通りだと思います。
認識の問題が最終的には倫理の問題になるというのは、ドナルド・デイヴィッドソンの「概念図式」の議論でもちらりと聞いたことがあるので、 ある種の必然性があるのかなぁと思われます。(しかしこの論拠では、ヒューム的には慣習=主観的必然性でしかないとの誹りを受けるだろう。)
これまで、「法の穴」という言葉を聞くことはあっても、 具体的にどのようなものなのかは、実感することはありませんでした。 しかし、法律の勉強を始めると、気が付くのですよね。 そこで、今回はなんとなく読んだ肥料取締法の「法の穴」について書いてみたいと思います。 概要としては、この法律では定義漏れによる「法の穴」が観察されます。
肥料取締法という法律では、まず肥料を特殊肥料と普通肥料に分類します。 特殊肥料は「農林水産大臣の指定する米ぬか、たい肥その他の肥料」と定義され、普通肥料は「特殊肥料以外の肥料」と定義されます。 一般に化学肥料(窒素肥料、リン肥料等)と呼ばれる肥料は普通肥料に分類されます。
さて、肥料取締法の主眼にあるのは、特殊肥料ではなくて普通肥料のようで、普通肥料についてさらに細かい分類が施されます。 特に、普通肥料であって「含有している成分である物質が植物に残留する性質(残留性)」があり、 「施用方法によっては、人畜に被害を生ずるおそれがある農産物が生産されるものとして政令で定める」ものについては 「特定普通肥料」と定義され、肥料の登録をするのに手間がかかります。
ところで、特殊肥料であったとしても、「含有している成分である物質が植物に残留する性質(残留性)」があり、 「施用方法によっては、人畜に被害を生ずるおそれがある農産物が生産されるものとして政令で定める」ことは可能なはずです。 つまり、「特定特殊肥料」という分類を想定できるはずなのです。しかし、実際には「特定特殊肥料」というカテゴリーは肥料取締法中にはありません。 そう、定義漏れしてしまっているのです。(そういった意味では、肥料取締法には「人工物は危険だが、天然物は安全」という考えが反映されているのではないかと勘繰ってしまいます。)
「特定特殊肥料」を定義漏れすることの何が問題なのかというと、 現状の肥料取締法では、放射性物質を含むたい肥を適切に取扱えません。 今後日本は、土壌の放射能汚染を前提として物事を考えなければならないので、 「特定特殊肥料」というカテゴリーは必要になると思料・・・。
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本日、美術館に行って曼荼羅や仏像を拝んできました。
江戸時代の曼荼羅が展示されていたのですが、日輪と月輪がなければ曼荼羅だとわからないような代物でした。 構図が神社の俯瞰図で、仏の姿がどこにもありません。
この曼荼羅を見ていると西洋絵画には無いものを感じたので、それがいったい何なのかをじっと考えていたのですが、一言でいえば「主題の遍在性」ということになりましょうか。
俯瞰図にはいろいろな人物が描かれているのですが、何か統一的な主題の下で布置されているわけではなく、 それぞれがそれぞれの主題を生きている様子なのです。参詣したり、遊んでいたり、話していたり、舟を待っていたり、見世物やったり・・・。 見ていて飽きないというか、それぞれの主題を追ってみたくなるのですね。
曼荼羅が世界の実相の表現であるならば、ある意味もっとも曼荼羅らしい絵なのかもしれません。 仏の形而上学的秩序の表現たる曼荼羅は、かえって作為的に過ぎるように思われます。
また仏像を見ていますと、「偶像崇拝」なのか「偶像を媒介とした崇拝」なのか?というところが気になり始めます。
例えば、観音菩薩像は、正面から見るとそうでもないのですが、斜めから見ると何というか手足の造形が艶めかしく、 また、陰影の関係か不思議な微笑を湛えているように見えるため、「(当時の)萌えフィギュア」としか思えません。
しかし、それが一部の修行者(というヲタク)以外にも一般に受け入れられてきた経緯があるとするならば、今と昔はやはり違うのかもしれません。 現代的なフィギュア信仰が偶像をメインとするなら、昔は畢竟崇拝をメインとしていたところがあるのかもしれません。
マキャベリの君主論においては、統治上の様々な状況を分析し、それらに対する処方を示していますが、 畢竟その目的は「長く政権を維持すること」に集約されるかと思われます。 それはただ、冷徹に完遂されるべきものであって、それ以上の目的を有しません [1] 。
さて、私は環境問題というものを考えた時に、 「人類は如何なる環境倫理学的立場を採用するべきなのか?」ということを延々と考えていましたが、 畢竟マキャベリアンになるべきではないかと思われるのです。 つまり、環境上の様々な状況を分析し、それらに対する処方を行うにしても、 畢竟その目的は「長く人類という種を維持すること」であるべきと考えています。 そこで、私はこの立場を「環境マキャベリズム」と称することとします。
環境保全をどのような根拠で実施するのか、という問題は藪蛇もので取扱いが難しいのですが、
環境倫理学的にはその根拠を以下のように分類するのが一般的です [2] 。
1.人間中心主義
2.苦痛感受能力中心主義
3.生命中心主義
4.自然中心主義
つまり、これらが当為の対象として想定しているのは、
1.人間
2.苦痛を感じることのできる高等動物
3.植物を含む生命一般
4.生態系全体
ということになります。
これら4つを更に分類すると、 「人間中心主義を採るのか採らないのか?」というダイコトミ―に帰結するかと思われます。 というのも、「他の生物種への配慮が主軸として設定され得るか否か?」 という大きな境界設定の下では、苦痛感受能力中心主義、生命中心主義、自然中心主義はその適用範囲の相違でしかないからです。
さて、環境保全活動は通常、人間の身勝手な開発行為へ警鐘を鳴らし「人間中心主義からの脱却」を志向するものと考えられるため、 「他の生物種への配慮を主軸として設定する」ということに親和性を示すはずです。
しかし、生態学的に考えると、「他の生物種への配慮を主軸として設定する」ということには懐疑的にならざるを得ません。 生態学的には「他の生物種への配慮は、別の生物種への侵害と相即する」という場合が殆どであろうからです。 その際、特定の生物種への配慮ということ自体、他の生物種からすると身勝手な人間の発想となるわけです [3] 。
そこで、その身勝手さを払拭するために、他のすべての生物種とその生態学的環境を含めて「生態系全体を配慮する」というホーリスティックな極を取ったとします。 その際は論理的には全ての人為的介入を絶たなければならず、人間の居場所は地球上から消滅することとなります。 センセーショナルな物言いをしますと「環境保全活動の極限解は、人類絶滅推進論」ということになってしまいます。 (…どうでもいいですが、「機動武闘伝Gガンダム」の東方不敗が自然を守るために人類の抹殺を企図したのはこれに相当します。)
もちろん、それでよいという説を展開することもできるのでしょうが、少なくともわたしは「他の生物種への配慮を主軸として設定する」ということは棄却すべきと思います。 あくまで主軸に置かれるべきは「人間」と考えるわけです。
「人間」を主軸に置くとなると、「生態系の破壊を無際限に許すことになるのではないか?」という疑念が生じるかもしれません。 しかし、その際は「生態系」という概念で何を指示しているのかを検討する必要があります。 「生態系」を、時間的に追うのか、追わないのか? 「人為的介入が生態系を破壊する。」という言説があるならば、生態系を時間的に追ってはいません。 この言説の背後にある洞察は、「現今の生態系に完全性を見出している。」というものになろうかと思われます。
「生態系」を時間的に追うのであれば、 「人為的介入によって生態系が破壊された」ということは「現今の生態系」の不在を意味しており、 大局的に見れば「生態系が変化した」というのが妥当な物言いかと思われます。 生態系は「人為介入によって破壊されるもの」ではなく、「人為介入に相当した生態系」へと現生していくものです。
そうすると、「人間」を主軸に置いた場合、 「生態系の破壊を無際限に許すことになるのではないか?」というのは的外れな問題設定です。 この立場においては、 「人為介入に相当した生態系が人類の長期生存にとって好ましい生態系なのかどうか?」 ということが適切な問題設定と思われます。つまり、環境マキャベリズムということなのですね。
話は少し変わりますが、昨今「生物多様性」という語が環境キーワードとなっています。 しかし「生物多様性」というのは実際のところ利害交渉上の政治経済ワードであって、 生物学上の概念ではありません。「生物多様性」とは、環境団体と経済団体が交渉するためのプラットホーム あるいは、生物資源国と生物資源利用国が交渉するためのプラットホームとしての機能を有する概念です [4] 。 そのため、ここでは生態系用語としてのニュアンスを出すため、「生物学的な多様性」というものを考えます。
さて、「人為介入に相当した生態系が人類の長期生存にとって好ましい生態系なのかどうか?」という問題に対して、 「生物学的な多様性の増大」が課題として呼応しうるのか、ということを考えますと、真偽判断上は偽、という結論になろうかと思われます。 つまり「生物学的な多様性の増大」を目的とすると、アクションによっては人類の生存上その基盤が危うくなります。
湖を例にとります。湖の水質汚濁は不衛生であり、人類の生存上好ましい現象ではありません。 しかし、生物学的には水質汚濁は富栄養化を意味しており、多様な生物種が生息している状態です [3] 。 「生物学的な多様性の増大」に則っとるならば、水質汚濁は汚染ではなく「改善」と言われなければなりません。 (具体的な事例に即して考えると、飼料作物を国外に依存し畜産業を営むことの問題として、窒素循環の機能不全、 つまり、家畜の糞尿に由来する富栄養化に伴う河川等の汚染、ということが挙げられていますが [5] 、 「生物学的な多様性」の立場からは、むしろこれは環境「改善」という事例になるわけです。)
未だ検証は進んではいないと思うので確たることは言えませんが、湖の事例を一般環境にまで敷衍すると、 「生物学的な多様性は、利用可能なエネルギーが環境中にどれだけ蓄積されているのかに依存する、 つまり、そのエネルギーが多く蓄積されてあれば生物学的な多様性は増大する傾向にある」 という仮説を立てることができるのではないかと思われます。そうであれば、 「生物学的な多様性の増大」を目的とする場合は環境の富栄養化を行えばよいので、 ハーバー・ボッシュ法に大活躍してもらって大気中の窒素をアンモニアに変換し、あらゆる環境中にばら撒けばよろしい、 ということになります。それが人類の生存上好ましい生態系を実現するかどうかは二の次としても、 生物学的な多様性を増大する種まきにはなることでしょう。
そういった具合で、「人為介入に相当した生態系が人類の長期生存にとって好ましい生態系なのかどうか?」という問題を考えるとき、 「生物学的な多様性を増大すること」を課題に掲げるのは、ナンセンスとなり得るわけです。
「人為介入に相当した生態系が人類の長期生存にとって好ましい生態系なのかどうか?」という問題を考える時に重要になるのは、
生存期間として設定する期間に関して、
利用資源の使用量-利用資源の生成量>0
という不等式が成立しないことだと思われます。
(さらに、生存期間を区分けした際の各区間のバラつきが小さければ、生存期間としての設定を上回る期間を、生存できるかもしれない。)
我々が生態系に配慮することがあるとしたら、無暗に守ろうとするのではなく放っておくことです。我々は、人類の長期的な生存だけを考えていればよいのです。
つまり、私の考える環境倫理というものは、自然と調和するようにするのではなく、自然との調和と成っているようにすべき、というものなのです。
|参考文献|
一応生きています。大変なことになっていますね。東北地方太平洋沖地震。
どうも日本国内の報道機関は当座の情報に右往左往している印象があります。 こういった緊急性の高い情報は、遠くから見る方が近くで見るよりもよく分析しているかもしれないので、 諸外国の報道機関が東北地方太平洋沖地震をどのように報道しているのかを調べてみました。
BBC(イギリス)では、"Huge blast at Japan nuclear power plant(日本の原子力発電所での大爆発)"ということで、福島原子力発電所のメルトダウンが最大の関心事となっている(13日、3:00(日本時現在))ようです。
BBCの報道ですと"Huge blast"のとおり「大爆発」している動画が放送されています*。爆発動画については日本の報道機関では政府の報道規制が入っているのではないかと思われます。
(*どうもBBCも規制に入ったようで、動画が削除されています(13日、7:00(日本時)。)
CNN(アメリカ)でも、"Japan struggles with nuclear reactors in wake of quake(地震に端を発する日本の核反応器との闘い)"ということで、福島原子力発電所のメルトダウンが最大の関心事になっています。 「現段階でこの事故が終結したとしても、原子力の歴史上、原子力発電所で発生した最悪の事故の3つのうちの1つに数えられるだろう。」という専門家(Joseph Cirincione, an expert on nuclear materials and president of the U.S.-based Ploughshares Fund)の評価が紹介されています。 既に、アメリカのスリーマイル原発、旧ソ連のチェルノブイリ原発に並ぶ日本のフクシマ原発という扱いになっているようです。
さらに次点の関心事が一歩身を置いているからこそのトピックになっています。"Quake moved Japan coast 8 feet; shifted Earth's axis (地震が日本の海岸を2.4メートル移動させ、地軸をずらした。)"というやや学術寄りの記事が関心を呼んでいます。 GPSによる位置情報のズレから、日本の海岸が2.4メートル移動していることがUSGS (U.S. Geological Survey)から発表されているようです。また、地軸がおよそ10センチずれたとイタリアの National Institute of Geophysics and Volcanologyという機関から発表されているようです。 また、ニュージーランドのクライストチャーチを襲った地震と時間間隔が近かったこともあり、今回の地震と関連性があるのかどうかということも扱っていますが、「関連性は非常に薄い、と思われる。」と専門家(Stephan Grilli, ocean engineering professor at the University of Rhode Island)によって評価されているようです。
ARD(ドイツ)でも主要な関心事は福島原子力発電所のメルトダウンです。どうも、地震の規模はさることながらも、それ以上に世界が注視しているのは原子力発電所のメルトダウンの動向のように思われます。
しかしCCTV(中国)を見ておりますと地震や洪水による被害状況が主要な関心事であり、原子力発電所のメルトダウンについては日本政府より淡々とした扱いをしている印象があります。「原子力安全・保安院は放射性物質であるセシウムが福島第一原子力発電所から検出されたと発表しました。同院はセシウムの検出はメルトダウンが起こりつつあることを示唆するものとしています。」と報道した12日昼以降、更新がありません(もっとも英語版で閲覧している故かもしれませんが…)。 近年中国では原子力発電所の増設が凄まじいスピードで計画(一説には毎年7~9基のペースで着工)されているので、原子力発電のデメリットに関心が向かうことをあまり良しとしていないのかもしれません。
どうも各国の関心事はそのような感じになっています。
今日はひな祭りというのに、ひな壇には予備校生が上げられ若干血祭りの様相を呈しているように思います。 インターネット入試問題流出事件です。
私、予備校生を援護するつもりはないのです。現行の日本的大学入試のルールから逸脱しているのは事実であって、競争環境としては不公正の誹りを免れないでしょうから。
ただ、連日の報道には若干違和感を感じています。連日の報道、一言でまとめると「犯人捜しに熱狂」という印象がありました。 勿論、人物を特定することが不要だということではありません。しかし、私にはどうも帰責先を探すにしては随分一方的な展開であるような気がしたのです。
一般的には「携帯電話で試験問題を打ち込むことなど不可能だ。」という信念があろうかとおもいます。また、識者によっては「最近の学生は5分で打ち込める」、 「画像を取り込んでテキスト化する機能が携帯にはある」などの見解を示し、技術的には可能であること示唆しているかと思います。
しかし、可能/不可能を問わず、両者には共通の前提があります。「大学の監視体制は十全であった。」という前提です。もしも「携帯で試験問題を打ち込むなど不可能だ、と思う必要もない程に監視体制が不十分だった」のであれば・・・。
実は私が最初に疑ったことはこれだったのですね。一般的には「京都大学だから」のような信頼感があるのかもしれませんが、 京都大学であろうとどこであろうと、試験監督は専任の担当者がいるわけではなく大学教員が行っているはずです。まして、連日雑務で忙殺されている大学教員のことです。 入学試験監督であるからといって格別の危機意識を有していたと考えてよいのか、私には疑問に思われるのです。
従って、「犯人捜し」と同時に、大学の監視体制に対する懐疑の声が上がってもよいと思っていたのですが、どうも言論空間が「犯人捜し」に傾注という一方的な展開を見せていたので、 「大丈夫なのこれ?」とバランスでもとってみようかと思った次第です。
加えて、気になっているのは、京都大学は何を目的として被害届を出したのか?というところです。 私の認識では「不正合格者がいれば当該人物を不合格とするため」であってそれ以上でもそれ以下でもない、であって欲しいところなのです。
仮に、大学が独自に該当する人物を特定できたのであれば、通常は大学自治に則ってこれを不合格として示談で解決する道を採るのではないかと思います。 何故なら「入学試験は将来の可能性を掴むためのものであるにもかかわらず、不正があれば将来の可能性を社会的に絶つ。」というのは、いささか過剰対応と思われるからです。
ただし、実際にはIPアドレス等の個人情報は大学が独自に調査できるわけではなく、警察を介さなければ利用することができません。また、警察は被害届なしに抽象的に調査を進めることは通常はなかったのではないかと思います。 そのため、被害届を提出すること自体に関しては理解できるのです。ただ、人物特定後の対応にこそ、京都大学の器量が試されるところがあるように思います。
被害届の提出は、あくまで不正合格者を特定するための手段でしかありません。これは不正合格者を不合格とすることこそが目的であるべきで、不正合格者を刑事罰に処することまでを目的に含むのは過剰対応と私は考えます(そもそも、大学が警察を介さず独自に該当する人物を特定できたのであれば、刑事事件にはなっていないはずなので)。
前者に留まるのか、後者に踏み込むのか?つまり、予備校生に再チャレンジの機会を与えるのか、それとも、社会的に破滅させるのか? これは、京都大学の教育機関としての器量が問われるところなのですね。冷静な対応を採ることが期待されます。
今後、予備校生の人格的属性にまで踏み込んでセンセーショナルに書き立てられていくのでしょうけど、咎められるは当座の不正行為。 「不正行為を以て不合格となった、以上終わり」の話であって、すでに1年間を棒に振るという罰が事実上確定しています。 それ以上に人生を狂わしかねない風土をつくるのはいかがなものかと思われます。
総じてこの件に関しては冷静な対応を採ることが期待されると思っています。どうどう。
3年間所属していた研究機関での私の任務は完了しました。
なんとなくですが「一人の人間は一つの時代しか生きられない。」という命題が思い浮かびました。 いや、時間が許せばもっと違った時代を築くこともできると思うのですが、いかんせん研究者としては3年間は短すぎました。
わたしは、研究に内在する問題性を認識した時より、研究室が築いてきた一時代を終焉に導くことを目的として活動していたと思われます。 それはもう勉強しましたし、提案してきましたし、そしてデータも出してきました。
結果としては、私の出したデータは研究に内在する問題性をよりいっそう可視化するものであり、 事実上研究室の一時代を終焉に導くものでした(研究室的にはネガティブデータだが、私にとってはポジティブデータとして解釈可能だったわけである)。
わたしは、書きたいことを書き殴り、言いたいことを言い散らし、研究室が中心原理と考えていた現実をもはや幻想と指摘してきました。
そのため、今や元々やりたかったことを築き得る状態なのですが、私にはその時代を築くだけの時間が残されていませんでした。
・・・
業より抜け出るにはそれだけで一時代。しかし、私に積み残したことはもはや無く、次の世代が望ましい形で研究を展開できることを、ただ祈るばかりなのです。 ああ、本当にやるべきことはやったなぁ。
・・・
私は、実によい時代を生き抜いたものです。人間的な成長をもたらしてくれた研究というフィールドに感謝。
さて、次のフィールドにでも行ってきますかね。
随分昔に ( いやひょっとしたら未だに係争中かもしれないけれども ) 初等教育における英語教育の推進の是非について、議論が賑わいでいた気がします。
言うまでもなく、この問題は英語教育の是非ではなく、 初等教育の枠組み内で実施することの是非の問題なわけでして、 いかに初等教育での英語教育の推進を否定する論客でも 「英語が使えないよりは使えた方がよい」という命題まで否定することは考えていないことでしょう。
ただ、初等教育の枠組み内での英語教育推進を否定する際によく持ち出される論拠として 「英語を教えるよりまずは日本語を教えるべき」というのがあるのですが、 個人的にはこれは非常に興味深い話と思っています。それは真の論点なのか?という意味で。
ともあれ、「英語を教えるよりまずは日本語を教えるべき」というのは日本語を用いて生活している者にとっては奇妙な説得力があるもので、 どんなに英語の必要性、重要性を論 ( あげつら ) ったとしても「でもやっぱり日本語だよね☆」というように日本語教育の重要性に還元しつつ、議論を中断できてしまいます。
たぶん一部の哲学ヲタクにしか伝わらないと思いますが、ジョージ・バークリが知覚現象全てを心象的に還元することに成功 [1] した、 マスターアーギュメントのような求心性があることから、わたしはこれを「初等教育における英語教育推進に係るマスターアーギュメント」と称したいものです。
さて、マスターアーギュメントによって英語教育以前に日本語教育に立ち返ってくるわけですが、日本語の何を教えることが重要なのかが問題です。 その際よく、若い世代の人たち ( 初等中等教育を経た後の若者 ) は「日本語が使えない」という事例から問題点が抽出されるように思います。 もちろんかれらは日本語を使っているのですが、内容的に浅慮なため ( 浅慮なものが抽出されているため? ) 「抽象的思考能力が無い」というように判断されるわけです。 従って、日本語を用いて抽象的思考力を涵養することが大切だ、と結論し初等教育下での日本語教育推進の基礎を与えて議論を終結する、 というスタイルをとるものが多く見られるように思われます。
議論の筋としてはもっともらしいのですが、実のところ英語なのか日本語なのかということは問題ではなく、真の課題は抽象的思考力の問題だということなんですよね。 そのため、議論の上ではという留保をつけますが、英語教育を通して抽象的思考力を涵養できれば、日本語教育を基礎づけできたのと同様、 初等教育における英語教育の推進を基礎づけできるということを意味しているわけです。
論拠の純化を図ると英語なのか日本語なのかという問題が消失するというのは、なんだかまたもやバークリ的ですね ( :バークリの観念論は、純化を図ると物質なのか観念なのかという問題が消失する ) 。
そういったわけで、「英語を教えるよりまずは日本語を教えるべき」という立場は、マスターアーギュメントの存在やダイコトミ―の消失、といったバークリの観念論的要素を含んでいることから、 「観念論的国語推進論」に思われたわけです。
・・・・・・・・・・・・
おそらく、初等教育における英語教育推進の問題は、教育時間や教育人材といった教育システム上の問題圏がボトルネックなのであって、 「観念論的国語推進論」等に見られるように児童の能力的特性の問題圏から英語教育推進に対して否定的見解を示すのは的外れなのではないかと考えます。 なぜなら、単純に時間があって人材も揃っていれば、「日本語も英語もやりましょう。」という話で済んでしまうと思われるからです。
必ずしも一般化はできないでしょうが、英語教育推進問題等に見られる教育改革に係る問題の多くは、子供がついてこられるか以前に、大人がついてこられるかどうかの問題が律速段階なのではないかと思います。 教育というのは、大人の様々な夢と意図と現実的制約が錯綜する、巨怪なセクターです。子供やってると「反面教師もまた教師」のスタンスで充分な気がするんですけどね。
最後に、自己言及性も含め、色んな意味で中和 ( 的破壊 ) を 。
友人:「教育についての言論空間は非常に特殊で、皆が経験してきたものであるが故に皆が好きなことを言えてしまうのです。」
私:「ギャルゲとかで学園ものが多いのもそれが理由だよね☆」
|参考文献|
先日、私の生命科学系研究者としての区切りとなる専攻発表会が終了しました。あー緊張しました(嘘)。
このプレゼンテーション、実は折衝に折衝を重ねて練り上げた妥協の産物でして、何度指導教員と火花を散らしたことか・・・。
当研究室が着目していた物質、つまりこれは当研究室の存在意義的な物質に相当していたわけですが、 どうも私の実験結果や過去の実験データを多面的に解析すると、期待していたような機能を特異的に見出せる可能性はほとんどない、という結論が示唆されまして、 はてさてどうしたものかということで物議を醸していたのです。
この結果が何を示唆しているのかを丁寧に読み込むと、「物質による要因より細胞による要因が決定的」という、 物質に着目している限りにおいてはまことに味気のない結論が導き出されるというのが、私の最終的な立場でありました。 しかしこれは研究室の存在意義を否定することになるわけで、指導教員としてはその物質の機能評価を抜きにした形で発表して欲しかったようです。
ただ機能評価を抜きにすると、「牛丼を作る過程にありながら牛肉を入れなかった」と言いますか、内実を全く伴わない意味不明な実験をやっていたことになるので、 私はその考えに対して極めて懐疑的な見方をしておりました。また、我々がこれまでによくやってきたように(やってはいけません)、 ご都合主義的に目的を捏造するにしてもその捏造がかなりの無理筋だという認識もありましたので、 「どうしても、と仰るのならそれでいいんですけど、例えばどうやってまとめるおつもりなのか示していただけませんか?」 ということで意見伺いをしました。結果、論理破綻、又は、他研究室の再現性を取っただけ、というストーリーにしかならなかったので、初志貫徹、 「当該物質が期待した機能を有するかのどうかの仮説の検証」をストーリーの幹にすることで落ち着きました。
ただ、このストーリーに帰着できたのは一点ほど妥協点を作ったからでした。 それは即ち、当該物質が期待した機能を有することをなんとか示唆できるデータを最後に提示することで、当該物質がポジティブである見かけを作ることでした。 確かに、研究者コミュニティーにおける対外的―政治的な理由から、現状で研究室の存在意義をまるごと失うことはできない、 ということに理解を示せないわけではないので、ここで妥結することとしました
従いまして、私のプレゼンテーションのミッションは、 対内的には根本的な見直しを喚起しなければならないものの、対外的には政治上の問題から期待を持たせなければならない、 というかなりアクロバティックなものだったわけです。
私のプレゼンテーションは何故か昔から定評がありまして、今回も概ね好評だったようです。 少なくとも研究室の存在意義の延命措置には限りなく成功したということなのでしょうが、 延命期間中に新たな意義を作っていかなければならないという基本認識を対内的に共有できるかどうかが、今後の真の課題だと思います。
渚「なにもかも・・・変わらずにはいられないです。楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。・・・ぜんぶ、変わらずにはいられないです」
(・・・中略・・・)
朋也「見つければいいだけだろ。(・・・)あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか?違うだろ」
Key, 『CLANNAD』, (2004) より抜粋
(・・・ひとつだけなんです、とか言われたらどうしよう。)
はてさて、研究より研究経営の方が私を成長させてくれたなぁとしみじみ思います。 ただ、本当に証拠ベースの研究をやっている現場がどのようなものなのかを実感できずに、研究者人生に区切りをつけてしまうので、 科学者の営為に対する一般的信頼という観点からすると、大きなマイナスであったと思います。
それを象徴的に示そうと思えば、仮に私が企業の経営者だとして大学と提携するようなインセンティブが働くならば、それは 大学の知的誠実性に期待するからというわけではありません。おおまかな条件出しをするための安い労働力(学生)の活用、 という観点からまず提携しようと考えることでしょう。加えて良し悪しをきっちり判断する知的誠実性があれば、 むしろそれは賞賛に値することで、そういった研究者と継続した関係性を構築したいと考えることでしょう。
これは私の研究観ですが、結果がポジティブ、ネガティブであることよりも、どれほど証拠に即した判断を下すことができたかこそが、真の評価対象だと思っています。 研究はわからないから行うものなのであって、結果としてネガティブだと判断することも、知見の増大に寄与することには変わりありません。 結果がポジティブでなければ評価にならないという潮流の下では、ネガティブデータに対する判断は内部留保され続けます。 ネガティブだと判断しながらも「ポジティブの可能性もネガティブの蓋然性も依然としてある。」と確信犯的に言い続けることは、何の付加価値も生まないばかりか、 予算ばかり消化しようとするため害悪以外の何物でもないわけです。
・・・・・・・・・・・
少し重たい話だったので、東方projectという弾幕系シューティングゲームに関する話を。
かれこれ半年ぐらいシューターやっています。シリーズとしては紅魔郷、妖々夢、永夜抄、風神録の4作品に手を染めましたが、 世間と難易度に関する認識が異なっていて、何でだろうと不思議に思っていたものです。
割と世間では、「紅魔郷は難しく、風神録は簡単」みたいに言われていますが、私の認識では「紅魔郷は簡単で、風神録は難しい」のです。つまり認識が全く逆なのです。
事実、紅魔郷はHardでノーコンテニュークリアできるのですが、 風神録はNormalですらノーコンテニュークリアできたのが60回に1回程度の戦績です。「マウンテンオブフェイス」という最後のスペルカードまで辿りつきながらも、ピチューンと逝ってしまい、何度そこで満身創痍になったかわかりません。
冷静に考えてみると、道中はパターン化できているのですが、ボスとの戦いで謎の細かいミスをしてしまっていることが多く、「マウンテンオブフェイス」に至るときには残機数がほとんど無くなっていることが多かったのです。そこで、私は一つ極端な実験をしてみることにしました。 その内容とは、次のような味気のないものです。
「ボスのスペルカードは全てボムで潰す。」
すると、一発でノーコンテニュークリアできてしまいました。簡単というより、むしろ、「あれ、こんなのでいいの?」と唖然としました。
風神録では、シューターというよりボマーに徹することがクリア優先上最も合理的な戦略であることを見出して以降、 「風神録はゲーム性の破壊がクリア優先上通用するという意味で特異的に簡単」という認識を持つに至りました。
いや、でもやっぱり普通に弾避けやってると、このゲーム難しいよ。ボスの弾幕の密度が高い印象があり パターン化していても細かいミスが命取りになってしまうケースが多いです。うまく全てが繋がらないと満身創痍death・・・。
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
年賀状を送ってくださった方、誠にありがとうございました。
気が付いたらこんな時期になってしまっていたので、
この場をもちまして新年のお慶びを申し上げます、と同時に申し訳ありませんでした。はい。
昨年度の抱負が「成り行きに基づいて騒ぐこと」にあったとすれば、概ね達成されたと見てよいように思われます。 色々ありましたが、パワーでゴリ押しして結果としては上手くいってしまった年でしたので。例えば…
人生においてはこれまでの成り行きに基づいた省庁に入省することが決まったこと。 本業の研究においては大枠の展望を描き、その展望へ向けた布石を打てたこと。 趣味においてはピアノ演奏から作曲の方へ覚醒したこと、など。 全般的には、同時並行で様々な物事を動かしていたなぁと思います。
さて、今年の施政方針ですが、転じて思弁的な年にしたいと考えています。 …いや、状況が許してくれないだろうなとは思ってはいるのですが、 あまりパワーで乗り切ろうという気がしないので、落ち着いたものの見方をしていこうかと考えています。 境遇も変化しますし、覚えなければならないことが多いと想定されるので、おとなしく潜伏しつつ、 身に付けるべきは身に付けていこうというスタンスで臨んでまいります。
「思弁的」と言えば、最近、Thomas Nagel著『どこでもないところからの眺め』(2009)春秋社、が類稀なる良書だと思っておりまして、 原著 "The View from Nowhere" で読みたいと思うくらいに、いやはや実に素晴らしい。 所に謂う哲学書なのですが、内容は「主観性による客観性のおそらく限りない追及」を積極的に肯定し、 どこでもないところからの眺め、即ち、「客観的自己」という視座へ至りて後、 認識論や価値論について、解答に至らないにしても、大局的に回答する、という、野心的なものになっています。
客観性を追求する為には主観性を排除しなければならない、という信念構造において、単に事物に注意が向いている段階では実在論が導き出されますが、 その信念構造において、客観性を追及する為には主観が拭い去れないことに気が付く、つまり反省的に観察者に注意が向くと、転じて懐疑主義が導き出されます。 そういった意味では実在論と懐疑主義というのは表裏一体なわけです。 より厳密には、懐疑主義というのは、ある意味その立場が実在論と表裏一体であるという気付きを持っているという点では「実在論的懐疑主義」と言うべきです。 Nagelが定位するのは「これらは表裏一体」というところにしても、あえて上記の古典的ダイコトミーに従って表記するなら 「懐疑主義的実在論」というべき、単なる実在論ではない転じに転じた実在論、と言ってもよいような気がします。
これはNagelの思考過程とは別で、私の個人的見解ですが 「実在論→実在論的なものを内包した懐疑主義→懐疑主義的なものを内包した実在論」で区切れば発展的過程として見れるのですが、 大局的には「…→実在論→懐疑主義→実在論→懐疑主義→…」という具合に 極に当たりては不動点として措定する視座を反転しうる永久の循環過程を見ることができるはずです。 循環過程を「辿る」というのは視点を色々現実に埋め込みうるということなのですが、 視点を色々現実に埋め込みうるということ自体は、現実のどこにも埋め込められえないという意味で 「どこからでもないところからの眺め」なんだろうなぁと思います。
不動点として措定する視座は反転しうるにもかかわらず、 それを反転せずに不動点として堅持するのは現実側の要請なのであって、そこに意志や当為が生ずるのだと思われます。 Nagelが「主観性による客観性のおそらく限りない追及」を堅持するのは、その意味では極めて意志的、或いは、倫理的な問題圏に係ることなのだと思われます。
偶有性のない単なる必然としての意志や倫理というものは、実のところ流されているだけ、なのでしょう。
日記というより月記というのが適当な更新となりました。久しぶりに土日の完全休暇がとれて素朴な喜びを感じております。太陽も眩しいものですから、布団を干すなどという人間的営為を気まぐれで実施しております。非人間的な日々の活動の反動なのだと思われます。
最近、なかなかまとまった時間が取れていないので、本業の研究 (To examine the immunological effects of supposedly ligand proteins on the aspects of intestinal mucosal immunity ) 外での研究活動が滞っております。 とはいえ、研究外研究として、「生物多様性」という概念を批判的に検討しようと意識しながら、非人間的生活を営んでいます。
私の問題意識を一言で表明すると「ポジショニングの問題」ということになろうかと思います。「生物多様性を保全すること」は大いに結構なのですが、 日本の言説空間を観察しておりますと、「生物多様性を保全」するにあたり「どのようなポジションから生物多様性を保全するのか」というポジショニングに係る言論の層があまりに薄いことに私は危惧を覚えています。
「生物多様性を保全」するといっても、そのポジショニング自体に多様性があり、なおかつ、玉石混交であることをよく分析しておかなければなりません。 それは、生態学進化学的という自然科学的観点に依拠するものなのか?道徳倫理的な当為に係る観点に依拠するものなのか?あるいは、資源経済的な政治的観点に依拠するものなのか? ポジショニングのとり方によって、生物多様性を保全する上での、実質的なターゲティングとアプローチが大きく変わることをよく把握しておかなければなりません。
さらに詳細な分析に立ち入ると、自然哲学、認識論上の問題、つまり世界観として何を採用するのかという、極めて合意を確立しにくい哲学的問題に帰着すると私は見ています。 「自然主義の誤謬」は誤謬なのか(反基礎づけ主義)?事物自体に内在的価値は存在するのか(人間中心主義)?等、哲学をやってきた者であればどこかで見たことのある問題だと思いますが、 私の知る限りでは、日本の生物多様性を巡る言論空間ではこのような哲学的素養が見受けらません。
私の印象では、日本の言説空間ではポジショニングに関する議論はエポケー(判断停止・・・というより思考停止?)しており、 とにかく「生物多様性の保全」というスローガンが良きものとして感性的に独り歩きしているように思います。そして「生物多様性の保全」の根拠を求められたときには、適当な論拠を無批判に様々なポジションから借りてきて、スローガンの正当化を図っているように思います(ポジションが無いことの「利点」!?)。
そこで、ポジショニングを考える上で有益と思われる公案をいくつか以下に記してみます。
絶滅と生物多様性の縮減それ自体が独立自存に問題なのでしょうか? 6500万年前の隕石衝突で、地球上の生物種の90%以上が絶滅したと言われています。
隕石による種の大量絶滅は良いとしても人為による種の大量絶滅がダメだとするなら、それは何故でしょうか? 人為もまた自然的営為の一つの作用として見ることができるのではないでしょうか?
人為活動が自然の進化過程を攪乱するというのは、進化的に不自然なことなのでしょうか? われわれは里山という人為淘汰圧のもとで生存するに至った生物種の保全にやっきになっています。
生態学的に希少な種であるという事実は、その種を保全しなければならないという当為に結びつくのでしょうか? われわれはアホウドリは守ろうとするのに、感染症を撲滅することに疑問を感じていません。
苦痛感受能力のある所謂「高等動物」を道徳的に配慮するとはどういったことなのでしょうか? われわれは、牛、豚、鶏の肉がスーパーマーケットに並んでいるのを日常的に目の当たりにします。
高等動物の苦痛への配慮から菜食主義を採用するというのは道徳的に妥当な行為なのでしょうか? 植物生理学的に植物の苦痛感受能力が示唆される可能性は皆無ではありません。
われわれが道徳的理由から生物多様性を考える時、どこまでを道徳的主体と位置付け保全に努めればよいのでしょうか? もし植物の苦痛感受能力が認められるのであれば、細菌類にも拡大適用できるはずです。
「生物多様性の保全」というスローガンの下、いったい何を保全することに優先価値を見出すべきでしょうか?
人為の介入しない原生自然?絶滅が危ぶまれる希少種?苦痛感受能力のある生物種?有益な生態サービスを提供してくれる生物種?
それとも、徹底的に人間の生存?
はてな、よくわかりませんが、とある市役所の職場訪問チームに参画しておりました。 何でも、市民目線の行政を実現する取り組みの一環らしく、一般市民に行政に対する親近感を持っていただくと同時に、 職員の意気向上を図るというのが目的の事業だったようです。そういったこともあり、年配の方から大学生に至るまで、 幅広い層の方が参画していました。
訪問チームの仕事はただ訪問して業務を知るだけではなく、訪問先の職場の雰囲気、職員の勤務態度等について評価を行うというものでした。 その評価はチームの意見を集約して提出しなければならないのですが、若輩ながらも何故か取りまとめ役になってしまい、 皆さんの意見をヒアリングし、調整し、執筆するということを担当していました。
「○○さんは斯く斯くと仰いましたが、それは云々ということでまとめてよろしいでしょうか?」
「△△さんのご意見ですが、□□さんのご意見と抱合せて、こちらのアンケート項目に移してもよろしいでしょうか?」
「おおむね、斯く斯くという方向で肉付けして原稿を作りますので、後ほど確認お願いします。」
(・・・あれ?冷静に考えてみると、市民の中に行政官が一人混ざっているに等しい構図じゃないか?)
私が市民感覚を代表しているかどうかと問われれば、それはかなり謎です。 私自身は、役所サイドの感覚を持った一般的でない市民なのではないかと思っていたので、きっと意見が参考にならないだろうなぁと。 そういったわけでむしろ逆に、一般的な市民感覚から行政の職場を見たときに、どのような印象を抱くのかを忌憚なく伺えたのはよい経験だったと思っています。
例えば、執務室が殺風景なことが問題視されたり、思った以上におとなしい印象だった、というような素朴なところが指摘されていました。 評価項目の中に「よかった点」というのがあったのですが、実際「うーん、何だろう。」と押し黙ってしまう傾向がありましたので 割とあら探しの方向から見ているよなぁという印象はありましたが。それだけに、行政官に対する社会的期待値が高いということを示しているのだと思います。
(おそらくその証左にもなろうかと思うのですが、役所が所管するある研究施設を訪問した際、評価が軒並み高くなりました。 どうも話を伺っていると、もともと研究者の対人能力への期待はそれほど高くなかったみたいなのですが、実際は予想以上に丁寧な対応であったそうです。 この場合は期待値が低い分、評価が軒並み高くなったのだと思います。)
私自身の感想としては、統括する業務領域に見合った人数より相当少ない人数で業務を執行しているような印象を受けました。 ある課に至っては課長含め10人くらいしかいないのですが、統括業務としては3領域をカバーしているということでしたので、 単純に割り算すると、1領域3人程度で回しているということになります。肌感覚としては、普通、1プロジェクト5人くらいじゃないかと思います。 また、残業が多くなる理由がよくわかったのですが、どうも事業所が9時~17時で仕事をしている間は事業所との電話対応等で忙殺されるため、17時以降に市役所内部の仕事をせざるを得ないそうです。
総じて少ない人数で、頑張って取り組まれているなぁと思いました。 こういった側面はもっと一般に評価されることを期待してやまないところです。
最後に・・・どうでもいいことですが、役所が所管する研究施設を訪問した際、 一般市民としてはどうなんだこれは?みたいな会話をしてました。
担当職員 「こちらで分析を行っています。」
私 「ああ、液クロですね。マスもあるんですか?」
担当職員 「あ、マスはこちらです。」
私 「いろいろ機械ありますけど、検出感度はどれぐらいでやっているんですか?」
担当職員 「ppmくらいの濃度が見れるようにやっていますが、10-3 ppmくらいまでは検出できます。農薬は0.1 ppmまで見なければならない場合がありますので。」
私 「ああ、ポジティブリスト制ですね。しかし、これだけ微量成分を定量するとなると、操作的要因で値がばらつくということはありませんか?」
担当職員 「ええ、実際そこが難しいところで、みんな操作が一定するように持ち回りでテクニックを習得するようにしています。」
うーん、やっぱりどう考えてみてもイレギュラーな職場訪問チームだったんじゃないかと。本当に参考になるのかなぁ。
昨今の食品安全行政の基本的な考え方は「食品危害の危機対応から、食品危害の未然予防」というものになっています。 冷静に考えるまでもなく、食品危害は生じてしまったら一巻の終わりなので、危害が生じないようにフードチェーンのレヴェルで品質を保証するシステムを導入、普及することが重点課題となっています。(GAP, HACCP,Traceability, etc.)
もちろんこれら未然予防的アプローチの重要性は強調してもしすぎることはないと思います。しかし、だからといって未然予防にのみ注視しておけばよいというわけでもなくて、何がしかの食品危害が生じるリスクは常に存在しているので、危機対応的アプローチについてもしっかり展望を描くべきであると思われます。 その際、「危害要因の除去」と「消費者対応」という二つの側面を見なければなりません。前者が所謂「安全」に係ることであれば、後者は所謂「安心」に係ることで、行政上優先順位をつけるとしたら、前者がより重大なファクターであることも言を俟たないところかと思われます。それは「安心」させておきながら実は「安全」でなかった場合(例えば英国におけるBSE問題における政府対応 [1] )を参照すれば、明らかかと思います。
そういった前置きから考えると、「消費者対応」というのは決してプライオリティの高くない、むしろ非常にニッチなところであるとも言えます。しかし、私の関心事としては非常に面白い領域だと思っておりまして、 一言で言ってしまうと、「食品危害が生じたときの消費者行動のロバスティシティの担保」というところに関心があります。何だか難しいようですが簡単に言ってしまうと、「危険な食品だとして忌避行動を取るのは当然の反応だと思うが、それが過剰にならないようにしたい。」ということです。
なぜ、そのような問題意識を有しているのかと言いますと、「製品にはなっても商品にはならない」ということで食品安全上問題無いものまで廃棄される、ということが果たして望ましいあり方なのだろうか、とふと立ち止まって考えているからです。
それは、消費者に品質保証を行う側からすると消費者に対するメッセージともなるわけで、消費者向けの倫理行動と解することもできます。しかし、「問題なく食べられるものを廃棄する」というのは倫理的に見てどうなのか?という問題提起もできるわけで、ここには倫理的表象を伴った価値の対立を見出すことができます(逆に言えば、「倫理」とは疑義を呈するには都合の良い言葉だとも言えるのだが)。
私は、両者を綜合する立ち位置としては、「危険なものは危険、安全なものは安全」という区別が適切にできること、にあると考えていまして、それが望ましい危機対応なのではないかと思っています。 「危険なものは危険、安全なものも危険」というのは、社会をシステムとしてみたときには負荷のかかる発想の筈で、私のような生物屋からしますとそれは病態なのぢゃないかしらん、と思います(過剰免疫疾患みたいなものである)。
そういったわけで、私は当初、この問題をリスクコミュニケーションの問題として解くことはできまいかと考えていました。 しかし、消費者に対して、企業や行政の危機対応を信頼しなさい、という倫理的要求をすることが重点課題になりそうなので、これをコミュニケーションと言うとしたらそれは畸形なわけでありますから、コミュニケーション以前の問題として解くのが適切なのではないかと考え直しています。
そこでここでは、消費者の倫理行動を喚起するには、それを裏付ける実効的なシステムが設計されてあることが重要と考えてみることとします。倫理行動というのは個人の内発性の問題と考えられるかもしれませんが、外部環境による裏付けから独立に存するわけではありません。同一人物であったとしても外部環境によって倫理行動を取るかどうかが変化します [2] 。
(より詳細に分析すると、外部環境それ自体というより、個人が外部環境をどのようなものとして知覚、認識しているのかに依ると思われるので、内在的外部環境に依存する、というのが適切かもしれません。実態としての外部環境と内在的外部環境に齟齬がある場合、特に個人の内発的倫理行動に見えるということなのだと思います。)
例えば、どのようなシステムが候補に挙がるのかということを考えると、食品トレーサビリティーシステムを利用できないかということに思い至ります。 一般的には食品トレーサビリティーシステムと言えば、「消費者が、調べようと思えば産地情報、加工情報等の履歴を遺漏なく調べることができるシステム」というイメージがあるかと思いますので、情報公開的なものとして認知されているのではないかと思います。 そのため、そんなシステムがあったとしても実態的には律儀に調べる消費者は稀ではないか?ということで、食品トレーサビリティの導入は費用便益に適わないとする言説も見かけたことはありますが、実はこれは一面的なものの見方です。 逆に、生産者が、どの原料がどこでどのような形で製品として加工され、最終的に出荷されたのかを調べることができるシステムでもあるわけです。
そういったわけで、前者のようにフードチェーンの川上へ向かうことを「遡及」、後者のように川下へ向かうことを「追跡」と呼ぶそうです [3] 。ここで重要視すべきは、通念とは異なり、「追跡」です。
つまり、「追跡」というのは食品危害が生じた際の危機対応として、迅速で適切な食品回収を担保できることを意味します。 ある原料のあるロットに問題があることが判明すれば、そのロットが使われた加工品をターゲットに出荷先を「追跡」し、危険な製品のみを迅速に適切に回収できるはずです。
従って、食品トレーサビリティシステムにおいて宣伝されるべきは、確かに平時向けとしては消費者への情報公開ということでよいのでしょうが、危機対応時において迅速に危険な製品のみを回収することができる、ということはもう少し強調されて然るべきと思われます。
そのようなシステム的担保の下でこそ消費者の過剰な忌避行動を抑制することが期待できるはずで、後はそれがどれほど消費者にとっての内在的外部環境となりうるかの問題、つまり知覚や認識の問題なのだと思われます。 どうも行政においては、どうやって伝えるのか?というある意味マーケティング上の問題にいつも直面するような気がします。この場合、身も蓋もないのですが、実際に食品危害が生じたときの迅速な対応以上に宣伝効果の高いものはないように思われます。その際「危険な製品のみをシステム的に適切に回収できる」ということをやや強調しておくとよいのかもしれません。
あるいは、平素から伝えるべきなのでしょうが、あまり表立って宣伝だけ行うのはかえって不信を生むことになりそうです。 もしも、平素の各フードチェーンにおける品質管理をリアルタイムでマッピングして公開できれば、取り組みがより可視的なものとなるので、それを基にした危機時の対応というのにも説得力が生まれるかもしれません。
(意外にこの発想は面白いかもしれない、と書きながら思った。トレーサビリティとGAPやHACCPにおける品質管理データを組み合わせて、フードチェーンを品質管理という観点からマッピングし、リアルタイムで公開する。これは感性的にわかりやすい。 現在、GAP、HACCP、Traceabilityの導入に躍起になっているが、ポスト導入期には、これらの組み合わせによるデータシステムの構築という展開が考えられるだろう。)
|参考文献|
「大学卒業後3年は新卒扱いになるらしい。」
そのような話題があったことをふと思い出したのですが、「それは誰が言っているんだ?原著は何だ?」ということが気になったのでいそいそと調べてみました。
まずは、どこが主体となって提言しているのかを調べてみました。「日本学術会議 大学と職業との接続検討分科会」というところでした。日本学術会議は、内閣総理大臣直属という意味でまさに生粋の政府系シンクタンクと言ってよい位置づけだと思われますが、行政機関からは独立した機関のようです。したがって、提言したことがそのまま政策に反映されるわけではありませんが、文部科学省へ政策提言したのは事実のようです。
日本学術会議において提出された報告書が気になる方、以下のリンクから「資料1-1 報告書案(PDF)」を選択すると原著を読むことができます。
リンク:日本学術会議|大学と職業との接続検討分科会|第17回議事次第
報告書によると、「卒業後最低3年間は、若年既卒者に対しても新卒一括採用の門戸が開かれること」ということが確かに言われています。さらに、それを実現する方法についても検討されています。
具体的には、「規制的」な手法、と「経済的」な手法とに、二分されるとしています。前者では、経済団体の自主努力を挙げつつも、「法的措置を講ずるということもあり得る」という強い言い回しをしています。後者に関しては、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象としている会社を公表し、従来型の採用方法を取っている会社との比較でどちらが求める人材を効率よく採用できるかを競合させてみる、という内容の提言を行っています。(報告書(案) 20項参照)
私見では、法的措置というオプションはかなり危険な発想かなと思われます。普通には経済団体は規制を嫌うというところがあるかと思いますが、冷静に考えてみると学生が不利益を被るのではないかと思われます。
例えば、「新卒要件は卒業後3年間までとする。既卒者に対して採用上不当な扱いを行った場合、斯く斯く云々という罰則規定を適用する。」というような内容の法制化を行ったとします。すると、問題点を2つほど提出できるかと思われます。
一つ目には、不当な扱いを立証することが難しいこと。企業が意図的に既卒者を採用枠から外していたとしても、「当社は既卒者の採用にも意欲はありますが、今回は残念ながら結果として既卒者に該当者がおりませんでした。」と言えばうやむやにできます。二つ目には、新卒要件が明文化されることで、新卒要件を外れてしまった人材を合理的に採用から排除できること。「あなたは、新卒法第1条1項に記載されている新卒者に該当しませんので、新卒としては採用しません。」
つまり、学生を守るために法的措置を図っているはずなのですが、どうも企業の「合理的選抜」にとって有利な材料を揃える危険を孕んでいるように思われます。
それよりか、社会実験を行ってみる、というスタンスの「経済的」な手法の方が、相場かなと思われます。ただ、これも「若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象としている会社」を公表するにあたって、「どの程度の取り組みをもって、若年既卒者を新卒者と同じ枠で採用対象としているのか?」という線引きをしっかりやらないと有名無実化する危険があります。ポーズをとるだけでOKというのは論外にしても、「過去N年間における既卒者採用の割合がP%以上の実績を有していること」とした場合であったとしても、NとPをどうするのかで一悶着ありそうです。
ともあれ、そのような社会実験を通じて「既卒1年でもいける、2年でもいける、3年でもいける、じゃあ4年はどうなのだろう?」という具合に、そもそも新卒概念自体の有効性に疑義が呈されるようになったら面白いと思います(法的に明文化しないことによる利益)。
・・・
それにしても、報告書の前提には、大学在学中の就職活動、が根強く存在しています。「概ねの課程を修了した段階で開始」というような言い方はしているので、早期化に対する負担に対する配慮がうかがえるのですが、それでも在学中は在学中です。
私は、「新卒要件を卒業後最低3年間」とするのであれば、もはや大学在学中に採用活動を行うのを廃止すべきだと考えます。
どうも、就職活動を巡る議論の中では「学生と企業」については各々の不利益に焦点が当たっているのですが、「大学」の被る不利益に対しては割と無頓着に思われます。大学当局も昨今は「高等教育の質的保証」の名の下に教育改革に臨んでいるはずなのですが、肝心の学生が就職活動で気もそぞろ、というのでは困るはずです。さらに、大学院まで進学した場合、就職活動によって学生が研究室から抜けてしまうので、研究活動にそれはもう支障をきたします(ちなみにこの報告書は人文科学系の大学生を対象として想定しているらしいので、大学院という発想は基本的にはしていない)。学生は公式には学業に専念できる環境に置かれてあるべきです。
無論、大学在学中に企業とコンタクトすることを禁ずるものではなく、学業に支障の出ないコンタクトのあり方ならむしろ推奨されるべきと思います。
どうあれ、採用活動を在学中に行わないこと、が重要です。企業とコンタクトを取ることに熱を挙げても、卒業しなきゃ始まらない、という風土を作ることが、高等教育の質の向上へ向けた取り組みに資することでしょうし、それなりに知的訓練を受けてきた学生を対象に採用活動を行うことは、企業にとっても悪い話ではない、はずです(余程、知的に歪んでいない限りは・・・)。
<脳科学は今までブラックボックスだった人間の意思決定などの研究を中心に様々な分野で応用的に研究されており、その研究成果は消費者・生活者の意思決定や行動を踏まえた政策を考えるうえで、今後、重要な示唆を与えうる。>[1]
昨年出版された国民生活白書(内閣府 著)からの引用ですが、わたしはこの一節を読んだ時、「内閣府は随分と野心的な白書を書いているなぁ。」という感想を抱いたものです。
「脳で世界を認識している」という考え方は、哲学的には物議を醸す領域ではありますが[2]、およそ現代社会では幅広く受け入れられつつある考え方のようです。そういったわけで行為者のあらゆる意思決定の場面―例えば、囚人のジレンマ等に代表される、利己的判断と協調的判断の場面、マーケットにおける消費者の購買選好の場面、等―での応用が、なにがしかのブレイクスルーをもたらすものであると考えるのは、無理からぬことだと思われます。
しかし、私見ではこれら「脳科学とその応用」研究は過大な期待を受けている印象があり、然程に楽観的な影響を社会に与えるものではないと考えています。それは、原理的な問題と倫理的な問題の二つの側面から論ずることができます。
まず、原理的な問題ですが、単純に言ってしまうと「研究が与える示唆は一般的な読心術の横展開か、その精度の向上したものにとどまる。」ということです。手始めに、「脳科学とその応用」研究がどういった性質のものかを分析してみましょう。
おおむね、当該研究目的は「行為者が特定の認知、判断、行為を為す時に、特徴的に活動する神経領域を同定する、或いは、特徴的な神経活動を同定する。しかる後に、行為者の認知、判断、行為に関する一般的な解釈に供する。」というところに落ち着いてくるのではないかと思われます。その研究目的を実現するために取られる手法は、「行為者に特定の認知、判断、行為をしてもらった際の、神経活動をリアルタイムで観察する。」というのが概ね採用されているかと思われます。さらに、その応用としては、「同定された神経活動を観察し、行為者の認知、判断、行為を解釈する。」というものとなることでしょう。
手早く具体的に考えてみます。あなたは、相手が嘘をついているかどうかを知りたいとします。そこで、相手の神経活動を調べればわかるに違いないと考え、(どういった方法で観測したのかはさておき)嘘をついている時に特徴的に観察される神経活動を観測することに成功しました。したがって、「こいつは嘘を言っている。」と解釈し、そのように判定しました。
さて、もう気づいている方もいると思いますが、冷静に考えてみますとこれは「観測結果の解釈」なのです。相手が嘘をついているという事実ではありません。
解釈であるところからもっと冷静に考えてみますと、我々は古来より読心術というものを開発してまして、例えば「目は口ほどにものを言う。」等ということが言われています。この場合、相手が嘘をついているかどうかは、目をそらす、まばたきの回数が多い、等の身体表面上の現象の観察を通して解釈されることでしょう。
そういったわけで、身体内外の差異はあれども、身体内部と外部は同位相に存在する一大現象ですので、「脳科学とその応用」研究は、伝統的な読心術の延長上以上の性格を有するものではないと私は考えています。「目は口ほどにものを言う。」時代から「脳は口ほどにものを言う。」時代にシフトしただけです。
ただ、一つだけ画期性があるとしたら、身体表面に表出されない機微を解釈の俎上にのせることができるので、読心術としての精度と幅は向上することでしょう。
次に、倫理的問題について見ていきたいと思います。簡単に言ってしまうと、「『脳科学とその応用』研究は、読心術以上のものとして発展させることはできるのか?」ということです。読心術以上のものとして、というのは、つまり介入試験です。
読心術としての「脳科学とその応用」研究から、行為者の特定の認知、判断、行為と、特定の神経活動が関連付けられたとします。そこで今度は逆に、特定の神経活動を惹起せしむることで、行為者の特定の認知、判断、行為を導くことはできないか?と発想するのは、必要十分条件を満たしたい、と考える研究者からすると当然のことでしょう。
しかし、これは非常に繊細な問題です。具体的に考えてみましょう。あなたは組織のリーダーです。メンバーが組織に協調的に活動してくれることを望んでいます。見聞するに、協調的な判断を下す際に活動が観察される神経活動が同定されていたようなので、逆にその神経活動を惹起せしめることでメンバーの協調的行動を導き出すというアプローチを採用しようとしています。これは果たしてアプローチとして可能か否か?
いくつかの考えなけばならないことがあります。第一に、因果的強制力の問題。第二に、神経活動の惹起の方法、です
まず、因果的強制力の問題ですが、神経活動惹起と協調的行為の間に因果的強制力があった場合、当該神経活動惹起を是認できるかどうか?簡単に言ってしまえば、あなたは神経活動を利用して自由に思惑通りメンバーの協調行為を導き出すことができる状態にありますが、それは是認できるものなのか?
まず、カント的に積極的に人間の自由意思を認める立場だと、「けしからん」ということになるでしょう。これは他者を道具として扱うことに他ならないからです。また、積極的に自由意思を認めなくとも、他者の他者性を認める立場でもこれを認めることはできないと思われます。「目的達成のためなら手段を選ばなくてもよい」というぐらいのラディカルな立場を取らないと、是認することは難しいのではないかと思われます。
そういったわけで、実際に神経介入できるにしても、そこに因果的強制力が認められる場合については実用上排除されるのではないかと思われます。有意水準が低すぎても高すぎてもダメという、微妙な介入となることでしょう。
次に、神経活動の惹起の方法を検討します。簡単に争点を言えば「直接的に脳に電気パルスを入れることを是とするか否か?」ということです。
正直、これは倫理問題以前に、安全性の問題として提出されるべき課題だったなぁ、と思っているのですが、安全かつ因果的強制力が無ければアプローチとしてはありだと思われます。ただ、安全性を担保するところで、社会的に相当物議を醸すことになることでしょう。
そこで、間接的に特定の神経活動を惹起する、ということになると、もはやそれは環境管理の問題圏なのではないかと思われます。極端な話、「メンバーの協調行為を導くために脳の特定の神経活動を惹起したい。そのため、金銭的動機付けを与えたところ、脳の特定の神経活動が惹起され、協調行為が得られた。」みたいな話なのであって、何をいまさら仰々しく脳科学を持ち出す必要があるのやら・・・(試みに「脳の特定の神経活動が惹起され」の部分を除去しても、普通に文意が通るはずです。)仰々しく脳科学を持ち出したとしても、この文脈では特定の神経活動を惹起する環境因子のスクリーニングに用いられるぐらいであって、それは読心術と同様、単なる評価系にしか用いることができないということを意味しています。
そういったわけで、私見では「脳科学とその応用」研究が読心術以上のものとして発展することについては比較的懐疑的です。見積もっても、身体外を参照にした評価系として機能する程度のものだと思われます。そのときにはきっと次のような問題が浮上することでしょう。
「あなたは幸せと感じていないかもしれないけれど、脳は幸せと感じているから、統計的には幸せな人として集計します。」
「そう、なのかなぁ・・・。」
|参考文献|
If you cannot or are reluctant to read English, please scroll down until you find Japanese sentences.(英文が読めない、あるいは、読むに気乗りしない方、日本語の文章が目に入るまで下にスクロールしてください。)
Last week, the international confernce of immunology was held in Kobe. Although this conference was capped the word 'international', intranational for Japanese people!
Be that as it may...
I attended the conference because I had been related to it in terms of making a poster for the presentation of our laboratory's researches. The problem was that I had to make a presentation in poster session as the representetive of our laboratory because my graduate educator was extraordinary busy for odd jobs in that terms.
Of course, as a general rule, English was only permitted language. So, I felt difficult to explain our researches. In addition to English difficulity, most of researches had been done before I attached to the laboratory, so I did't know the very details of the experiments!
At the end, I simply exhausted in a lot of way. HUUUUU...
I decide to make more oppurtunities to use English. As you immediately sense, this site updating can be regarded as one of them. Whether this trial will be related to the accademic researches or not, we youngs are now faced with globalization and expected to have skills to communicate with forine people. I critically recognized these severe realities in this international conference.
By the way, referring to contents of the conference, the trend of mucosal immunity in terms of immune regulation is shifted from TGF-β1 to retinoic acid, a metabolite derived from vitamin A.
Intestinal dendritic cells (DCs) such as CD103+DCs which express RALDH (one of the aldehyde-dehydrogenases) can produce retinoic acid from retinal. In steady state, naive T cells are effected by these retinoic acids and convert into regulatory T cells which are said to make contributions for the prevention of immune defections such as auto-immune deseases, allergy, chronic inflammation, and so on. In short, retinoic acids can be important regulator for intestinal immune systems and have good effects on the whole body.
As I previously descrived, retinoic acid is a metabolite from vitamin A. So I wonder where vitamin A is derived from. Hypothetically, the candidate resources might be foods, commensal bacteria, or the cells in the body. Especially, what concerns me is that whether the supposition of retinoic acid producing commensal bacteria is realistic or not. Anyway, the probiotical supplementation of vitamin A might be one strategy though there are risks of the hypervitaminosis A because of it hydrophobicity.
日本語による要約
国際免疫学会に行って、英語の必要性を感じたので英文をわざわざ書いてみることにした。学会ではレチノイン酸がトレンドになっているように思われた。その前駆体であるビタミンAの供給源として腸内細菌が挙げられたら、リスクはあるが面白いように思う。
この半年間、パソコンは潰れるやら何やらありましたが、一段落つきましたので更新してみることにしました。 半年の経過は新年の抱負(:成り行きに基づいて騒ごう)通りに進展したといいますか、いやはや騒ぎまくりという感じです。
最近、研究そのものより、研究運営に深くコミットしておりまして、長期研究戦略構想から直近の研究企画立案、人員体制等の提言を行う、研究経営シンクタンカーと化しているように思います。
「研究が健全に機能する仕組みを研究する」方が私の趣味に合っていると言いますか、研究そのものよりも、意思決定のプロセスやロードマップ等の内部文書を作成して折衝することの方が楽しいという、一介の大学院生としてはどうなんだこれはみたいなことになっています。
きっと、「興味は理系、されど、能力は文系」という、どっちつかずの境界性の適性が具体的に発揮される現場というのは、「科学的対象を取り扱う部門の組織経営」というところが一例に挙がってくるのでしょう。
そういった兼ね合いもあってか、この半年でとある行政機関に勤めることが決まりまして、いわゆる理系行政官としてそれはもうゴリゴリ働くことになりそうです。「科学的知見を行政に反映する」というのを幹としてキャリアを積めたらよいなと思いますが、正直言ってしまうと何でもさせてください的なところがあって、結局一所に留まっていないのではないかと思います。
そんな感じの近況なのでした。
新年明けましておめでとう御座います。
本年も宜しくお願い申し上げます。
新年の挨拶にしては遅い感がありますが、パソコンのネットワーク環境に異常があって、解決するのに謎に時間を要したのが主たる要因となっています。
さて、かつて日本人には暦をもって、生活や自身のあり方を秩序付ける、という風習が存在していたらしいのですが、世間的にも随分とそれも希薄なものとなったというような話を聞きます。 私に至っては年末年始セールすら、どこか遠い国のことのように思われてならず、何でこんなに人がいるのだろう?と頭をかしげていたくらいなので、重病患者であろうと思われます。 (尤も、いつどこであったとしても、人がたくさんいる場所であるならば「何でこんなに人がいるのだろう」と言っているという説もある。)
とは言え、新年ということなので、昨年の決算と本年の所信表明くらいの境界付けはしておこうかなと思います。
実は昨年には昨年の抱負というものがあったのでして、一言で言えばそれは「沈静」ということでした。 即ち、過去3年間でもぎ取ってきたものをそろそろ落ち着いて見てみようというものでした。
実際にはどうだったのかと言えば、まずまず成功したのではないかと思われます。 無闇に新奇を求めるでもなく、元々構想していたことに終始した一年だったように思います。
読書などを例に取ると、昔は読めているのか読めていないのか意味不明な状態で、とにかく多読しましたが、そのような読み方はやめました。というより、出来なくなりました。
かつての読み方は人の考えを知る読み方ではなくて、自分では描ききれない思いを描くための言葉を獲得するための読み方でした。
ですから、随分と読み方も直感的に都合のよい読み方をしていたものなのですが、昨年はむしろ体系性の理解というところに主眼がありました。
例えば、哲学書の読み方というのも、哲学者は誰でもいい、というのから、哲学者を決めて理解を深化するほうに特化していきました。
具体的にはそれが西田幾多郎だったわけで、『叡知的世界』という論考ばかりを読んでいました。というのも、『叡知的世界』は西田幾多郎の形而上学体系の中でも比較的理解しやすい、という触れ込みがあったからなのですが、言うまでも無く読んでは撃沈していました。
(なお、読めなかった理由は、私の「基体」概念の理解が乏しかったことに主因がありました。アリストテレスの「基体‐属性」というのは、基体に属性が内属するというものであり、基体は判断以前に屹立するという側面が強く出てきます。そのため、それ以上の遡行が発想的に難しいものとなっています。
しかし、西田の「基体‐属性」というのはむしろ、基体が属性に包まれるという側面から見られています。そのため、基体は概念的に把握されないにしても、なお直観されるものである以上はその基体を包むものが要請されることになります。それが「述語となって主語とならないもの」という超越的述語面として仮想されています。
普通の意味では、主語と述語というのは記述された主語と述語を考えてしまうところだと思うのですが、西田の「主語となって述語とならないもの」と「述語となって主語とならないもの」は記述上の主語と述語の話ではなくて、記述上の主語と述語の関係を保持したまま、極限までそれぞれ一方向に押し進めたときに見出される記述を超越したそれぞれの面なのだというように最近腑に落ちました。)
また、Pianoに関しても、かつては色々な楽曲に手を出しては中途半端と忘却を繰り返しましたが、昨年は、M. Ravelの"Jeux d'eau"(水の戯れ)のみを延々と練習していました。 結果としてこの曲以外の曲は悉く忘却しましたが、そのかわり、以前よりピアノを弾くには幾分ましな指を得ました(が、依然として不十分)。 どうも延々とやっていると、否応なくピアノとピアノ周辺に対する興味も若干深まるらしく、結果(もしくは原因)として謎に知見が深まりました。(おそらく今後は益々知見が増大すると推定。現在のわたしにとっての成長分野に思われる。ウラディミール・ホロヴィッツの演奏するChopinのEtude op.10-4(所謂超絶技巧曲。その1曲前のEtude op.10-3は「別れの曲」として知られている)は単なる超絶技巧曲以上に、表現の豊かさに驚かされる。 ホロヴィッツはあまりペダルを多用しない印象がある。Fantasie-impromptu op.66(幻想即興曲)は最たるもので、1音1音がはっきりしている。私のように下手な人間はペダルで響かせて誤魔化すわけなのだが、ペダル無しでどれほど表現できるのかが根本的に重大な課題なのだということを学んだ。)
そして、これはある意味ずっと構想していたことではあったのですが、「相対主義」というものが如何にして可能か?という問題に、一つの答めいた表現を手にするに至りました。 これは昨年着想した段階ではどこにも書いてはいませんが、論点先取りをすると「自分を超えて」という境位が「相対主義」を「何でもよい主義」から分つ上で鍵になると考えています。
こうやって境界付けて見ると、何がしかの進展があったものだなぁ、と思います。 それでは、今年の抱負はどうしたものか?
去年は成り行きが成り行きになるために沈静していましたが、今年は昨年までに形成した成り行きに基づいて騒ごうと思います。
そのような1年になると思います。
・・・・・・
最近、統計資料を読むのが楽しくて、白書、年報の類を買おうかと本気で考えつつあります。
食育白書、国民食生活年報、高齢白書、オタク産業白書(!?)etc…。こういったのがあれば、勝手に研究できるよなぁ。
今年もようやく仕事納め、というよりか、研究納めになったので、冷静に今年の研究室生活を振り返ってみることにしました。
振り返ってみると、実はかなり逸脱した生活が認められていたのだなぁ、ありがたやありがたや、という感慨を抱きました。
そして、来年はもっと逸脱した生活をしよう、わっはっは。と思いました(←莫迦につける薬は無い)。
平日9:00~17:00は研究室に居なさいという規則と風土が存在していたらしいのですが、行きたいときに行き、やりたいことをやり、帰りたいときに帰っていました。 具体的には昼出勤をやらかすやら、やっと出勤したかと思えば「少し徘徊してきます」ということで情報収集という遊びに興ずるやら、徘徊中に知り合いに出会えばもはや一巻の終わりで、そのまま話し続けて夜中になっていたやら、という感じでした。 特に予定のない日で、なおかつ、面倒くさいときには、出勤すらせずそのへんをフラフラしながら考え事などをして遊んでいました。(結果、「Tyu-genさん徘徊してたの?」「はい。」というやりとりが常態化するに至った。)
とはいえ、放縦放蕩の蕩尽生活というのは一面的で、他面ではこれがまた別の方向で逸脱した生活を送っていました。
実験のある日は、朝8:30ごろから研究室に出没して夜2:00に消え去るというのが基本的な生活で、期限付きのプロジェクトが与えられようものなら、朝から朝までぶっ通すこともざらにありました。
ちょうど今年のクリスマスはそんな感じで、12/24 9:00~12/25 12:00までぶっ通しで研究室に引き篭もって、実験とディスカッション用の資料作成を行いました。
当初、夕方まで眠らないつもりでしたが、さすがに睡眠を取らないと17:00からのディスカッションで死ぬなぁと思ったので、
家に帰って4時間だけ睡眠をとってディスカッションに臨みました(17:00~20:00)。終了後、再び残りの実験を夜通しで行い、12/26 6:00に帰宅。死んだように眠り、12/26は一切お日様を拝むことがありませんでした。
まあ結局は、行きたいときに行き、やりたいことをやり、帰りたいときに帰っているということです。
かつて、エマニエル=カントが自律(オートノミー)を自由の条件に考えていたような気がしますが、 わたしの言葉では、自由の条件とは次のように与えたいところです。
やるときはやるけど、やらないときはやらない。
こういったスタンスは大好きですね。
このところ、1日2食で3000kcal以上を摂取していると思われるのですが、痩せていきます。
謎にフル稼働する日々が連続し、昨日に至っては2日分の実験仕事量だったような感じです。
即ち、9:00~22:00は実験という肉体労働、22:00~26:00はデータ解析と戦略会議という頭脳労働。
我々はどうやら岐路に立っている模様です。
・・・・・・
おそらく実験一般に成立することだと思われますが、実験というのは「系の構築期」と「系の検出期」という2つの期に大別されます。 譬えていうなら、前者がプログラムを構築することに相当し、後者がプログラムに具体的な変数内容を与えてアウトプットを見ることに相当します。 もっといえば、前者が旨いカレーのレシピを作ることに相当し、後者はレシピに基づいて材料を加工した結果として、客からの旨いという反応とお金を頂くことに相当します。
「民間的経営手法」なるものが金科玉条の地位を確立しつつある昨今、科学の分野においても「結果を出せ出せ」というのが昨今の風潮ではありますが、 結果が出るというのは全体の実験の流れの中でもごく一部の話です。もしもたくさん結果を出せばいいのなら、既に確立された実験系の中身を変えればいくらでも量産できるわけですが、実験系の有する可能性以上の結果は得られないでしょう。 カレーのレシピで言うなら、肉の種類を牛から鶏に変えて、チキンカレーを作って販売すれば、チキンカレーの結果が即座に得られるわけですが、「カレーライス」という系の大枠は変わらないわけです。 つまりは、結果は量産しようと思えば系の内容を変えればいくらでも量産できるのですが、新規性には乏しいということになります。
「新規性」と「売れること」という評価軸があれば、経済社会ではどちらが重大な評価軸なのかといえば「売れること」だと私は判断します。何故かと言うと、「これは新時代の商品なんだ!」と言ったところで、それが売れなければ「何だったんだろう?」ということになりますが、「これは二番煎じなんだ!」と言ったところで、売れてしまえば「それでいいじゃない。」ということになるだろうからです(それをある業界用語で「曲芸商法」という)。 おそらく、こういった経済社会の論理構造では「結果を出せ出せ」というのはありなのですがそれが、果たして科学分野でもそれが適切な経営方法たりえるのかは疑問です。 というのも、科学の分野において真に評価されるとしたら、ノーベル賞やNatureに代表されるように新規性が全てであるとも言えるからです。結果を量産したところで、新規性が無ければ「頑張っているのはわかるんだが、君の目指すものは何?」ということになってしまうでしょう。
そういったわけで、科学分野に適する風潮は「結果を出せ出せ」という風潮より、新規性を求める風潮‐即ち「系を作れ作れ」という風潮なのではないかと思われます。
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我々の場合は、実験の流れ全体として見たときに、本年度は「系の構築期」にあたります。振り返って見るとこの「系の構築期」も三段階に分けることができます。
|系の構築期|
1.細胞調製の条件検討(2009年7月初~2009年10月末)
2.細胞培養の条件検討(2009年10月初~2009年11月末)
3.細胞検出の条件検討(2009年11月末~2009/12/09現在)
我々は、細胞検出の条件検討が終了すれば、ようやく「系の検出期」に入ることになります。つまり、結果が出るということになります。
しかし、この最後の細胞検出の条件検討で用いる試薬が、かなりマズイものだということ(それ故に、この検出方法を用いている他の論文の結果は疑った方がよいということ)が2009/12/08で判明しまして、検出のコンセプトと方法を根本的に変更する必要が出てきました。
簡単に言ってしまえば、条件検討でやるべきことはほぼ終了して、その結果、我々の当初の目論見は失敗に終わりましたよ。さて、次の一手はどうする?ということです。おそらく、厳密性は下がりますが、解釈としてまだ合意のある範囲でやっていくということになりそうです。
次の一手を打って、年内は終了することになるでしょう。系を構築するには時間がかかるものです。
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多忙でヒイヒイというのは、その主たる因子は実験に依るところばかりなのですが、何も実験ばかりしていたわけではなく、 その他の活動もかなり多く入ってまして、この1~2週間はフル稼働という感じでした。 ようやく時間を取れたので、カタカタとパソコンの前でキーボードを叩いています。
実は12/3に実験の合間を縫って新幹線日帰り東京旅行に行きました。 目的は「三菱総合研究所」という民間シンクタンクの企業セミナー(東京限定:本社開催)に行くためでした。 「百聞は一見にしかず」という言葉がありますが、殊更、就職活動なるものはそういったもので、 情報として重要なのは、現地入りして何を感じて何を得ることができたか?ただそれだけの話だと思います。
三菱総合研究所に対して感じたことは、「ミニ霞ヶ関」ということです。 顧客の70%が官公庁ということに反映されてか、組織図を見るとまるで国の機関のように思われました。 実態としては、政府から出される政策研究課題を落札して政策研究するというような形で今のところは推移しているらしいです。 今後は政府の出す課題設定自体に言及をしたいという意識があるようです。 民間企業とはいえ政府系シンクタンクと言っても過言ではない模様です。
他方、単純に政府を相手にしているわけではなく、経営コンサルタントとして、 未来創出という観点からコンサルをしようとしてるみたいです。つまりは、シンクタンク部門の研究結果を参照にしながら 次世代の新たな価値の提案を行っていこうとしているようです。多分、経営コンサルタントとしては大企業が主な相手になると思われます(というのも、中小企業の場合、未来以前に今食えるか食えないかが重要だろうから)。
また、ITやICTシステム構築のアウトソーシングも行っているようでして、これらを包括して「研究、提案、実現」を一挙に担った、政府ー大企業系総合シンクタンクといった位置づけになる模様です。
ただ、「研究、提案、実現」という話ではありましたが、「研究、提案、実現」は比重の重いものから「研究>提案>実現」であり、扱う事業の裾野の広さも「研究>提案>実現」という印象を受けました。
このように「ほえー」と話を聞いていましたが、その時に気がつかなかった点があったので、今度それを質問して見ようかと。
三菱総合研究所は私見では研究比重が高いと判断されますが、今のところ研究は政府から与えられた課題に基づいて行われています。 その研究はプロジェクトとして一仕事あって「はい終わり。次の与えられた課題へ。」というような一過性のものなのか? それとも、課題をこなしていくのは当然として、元々やってきたような研究に基づいた政策インキュベーションをしているのか? しているとしたら、どれぐらいの重要度を以ってインキュベーションしているのか? (今後「国に物申す」とするなら、独自に政策をインキュベーションしないといけないだろうから、その当然その重要度は高くなっていなければならないだろう。)
いずれにせよ、興味深い企業でした。 ちなみに、人事の方の第一声が「本日お越し頂いたのは、殆んどがM2か博士課程の方だと思いますが…」 というあたりがなんとも世間ずれしていて、ますます気に入りました。(一般には学部3回かM1がメインとなる就職市場。多分このような企業は外資系金融、コンサルを除けば他にはないだろう。)
三菱総合研究所から北に歩くこと20分くらいで、つくばエクスプレスの終着駅があったので遊びに行きました(これが目的だったと言う説もある)。 虎児を得ることができるところに入りました。
マルコ=ポーロの「東方」見聞録が店頭で多数確認されました。相変わらずの活況を「てい」しているなと思いました。また、最近「ラプラス変換」と見ると、ラの次にブが入っているようにしか見えないのですが、そういったもの( L[sinX]= 寧 というような変換?)も既に店頭に並んでいました。
それにしても、最近の同人絵は絵的に洗練されているなぁと思いました。
しかし、それを問題意識として捉え返すと、「描き方が画一的で飽和状態にある」ということになるのだと思います。
危機感を抱きました。
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最近、企業で重視されているのがコミュニケーション能力だそうですが、それは一体何なのだ?という話題がありました。
コミュニケーション能力は、発信側と受信側に分けることができます。 コミュニケーション能力が重要視されているというのは、反照的にコミュニケーション能力が不足している人が目立つということでしょうから、 その場合、どちらの能力が不足しているのかを考える必要がありそうです。発信側か?受信側か?
見聞するに、私は若い世代のコミュニケーションは内容よりも形式性が重大であるという洞察に至りました。 しかもその形式性は、キャラ的形式性と物語的形式性の2つの側面を有しています。
キャラ的形式性というのは、「Xキャラ」なるカテゴリーのデータベースを共有することで成立するコミュニケーションが可能となる形式性です。 「斯く斯くキャラ」「云々キャラ」というカテゴリーにはそれぞれのどういった存在なのかという属性が与えられています。 そして、ある集団内における各構成員を「斯く斯くキャラ」「云々キャラ」とカテゴライズします。 このようにして、「キャラ」という形式をまとった各構成員は、自分の「キャラ」そして、相手の「キャラ」の属性に則した振る舞いを行うことが期待されます。
このコミュニケーション形式を有する者の間では、実はやり取りは滞りなく円滑だろうと思われます。「キャラ」はそのカテゴリーを共有しているものの間では、普遍です。 誰であろうとその人が「キャラ」である以上は「キャラ」として扱えば間違いはない。 だから、知人Aが「aキャラ」としては規定されている状態があったとして、Aさんに対して「aキャラ」に対するように振舞っていたとします。そして、新しく知り合ったBさんが「aキャラ」に分類された場合、別人だからどうやって振舞ったらいいのかわからないと躊躇する必要はなく、Aさんと同様「aキャラ」に対して振舞うように振舞えばよいということになります。 従って、不確実性が高いよく知らない人であっても、「キャラ」を共有する限りは、滞りない対応が可能となる、形式化され標準化されたコミュニケーション形態だということができます。 ただし、統計学でデータを標準化をするとデータの単位が消滅するのと同様、個人を「キャラ」として標準化すると個人自身が消滅します。 「キャラ」として標準化すると、他者とのやり取りを効率化できますが、それは、その人自身がどういった存在であるのかということに対する興味を中断するが故の効率化、ということもできると思われます。
他方、物語的形式性ですが、キャラ的形式性が個人に対するものだったのに対し、物語的形式性は話の構成に対するものです。
話をするにしても、話が一つのまとまりとして完結している必要があるようで、具体的には「オチ」が存在することが期待されています。
なお、「オチ」のない話に対しては「で?何が言いたいの?」という言葉によって強制的に「オチ」を求める傾向にあるものと考えられます。
「オチ」付き物語という会話のあり方は、話の内容はともかく話の形式は分かりきったところにおいて為されることになります。そのため、
物語的形式性が共有されたもの同士では、誰であろうと話の基本骨格は同じなので、用意してある完結した物語を提供しあうことによって、円滑なやり取りを行うことができるものだと思われます。
また、完結した物語であるが故に、誰かが話っぱなしということが抑制されるため、各構成員の発言の機会平等が原則的に担保される技術でもあるのでしょう。
ここでも、話の構成の物語的な標準化という原理が働いており、他者とのやり取りを効率化がなされているもの予想されます。ただ、この標準化も根本的には他者に対する興味を目的としているよりか、円滑かつ平等に物語のやり取りし合うということ自体が目的であるように思われます。 故に、物語的形式性を共有できていない他者は、話のよくわからない人であるか、もしくは、各構成員の発言の機会平等を侵害する空気の読めていない人なので、扱いに困る存在なのだと考えられます。
以上より、若い世代のコミュニケーションは形式性が重要であると推定されます。それは、その形式性を共有している者同士であれば、誰でも通用するという、標準化された効率的なコミュニケーション形態です。 しかし、逆に言うと形式性からの逸脱ーつまり不確実性の高い状況下ではどのようにやり取りしたらよいのかがわからないということでもあります。 おそらく、年配の方が若い世代のコミュニケーション能力の低さを指摘するとしたら、まさにこういったところなのだと思われます。 それは年配の方が、形式性を重視するコミュニケーション形態に生きていないからこそ生じる必然的な齟齬だとも言えるわけで、年配の方が自身を標準化さえすれば若い世代とのコミュニケーションが円滑に行えるようになると思われます。
しかし、私のような楽隠居の年寄りからすると、その標準化に薄っぺらさを感じるのも事実です。少なくとも若い世代のコミュニケーション能力の中で何が根本的に欠落しているのかを考えると、 発信側ではなく受信側の能力であると考えられます。他者がどういった存在であるのかということに対する興味が然程に重大ではないというのは、受信側の能力としては問題があるように思われます。
したがって、企業で重視されているコミュニケーション能力とは、単純に言ってしまえば、「キャラの物語じゃなくて人の話を聞けよ。」ということなのだと考えられます。
巷では行政刷新会議にて「事業仕分け」なることを行っていた模様です。各省庁は恐々としたことだと思います。例えば、文部科学省は、ホームページにて事業仕分けの結果に対する国民の意見を募っていますが、それだけに文部科学省にとって厳しい結果だったということでしょう。
そういったわけで「事業仕分け」という受難に遭遇した政策の数々を確認してみることにしました。なるほど、これは文部科学省の存在意義が問われるような厳しい結果だなと思いました。
まずは、「事業仕分け」では、どのような思考プロセスで判断を下しているのかを確認しておいてもよいと思われますので、イントロダクションと言うことで紹介しておきたいと思います。
最初に、「社会の役に立つか?」という絞りをかけます。多分、天下り団体の排除を想定して設けているものだと思います(どうでもいいですが、わたしのような哲学者はこの時点で仕分けられてしまうことでしょう。「社会の役に立つか?」→「いいえ。無用の用です。」→「廃止」)。
次に「国が担う必要があるか?」という絞りをかけます。民間や地方公共団体でできることはそこに委ねましょう、ということで地方分権を担保しようとしているのだと思います。
さらに、「緊急性はあるか?」という絞りをかけます。次の予算の概算要求が95兆円を超えていますので、緊急性のないものはそこで体裁よく排除してしまいたいのだと思います。
この絞りを通過できた政策が、取り敢えずは予算配分される政策としての地位を確保する模様ですが、ここから、予算規模の縮減を念頭において、「政策構造の変革(つまり、縦割り行政の一元化)」や「政策規模の妥当性(つまり、政策の波及効果)」という絞りにかけられます。
そういったわけで、これら全ての製造工程を通過した「ナチュラル政策」は、概ね予算縮減というプロセシングを受けた「プロセス政策」となって、事業仕分け結果という資料に陳列されるに至る模様です。
さて、「事業仕分け」という製造工程によって、文部科学省の「ナチュラル政策」が「プロセス政策」化したものをざっと概括して見ますと、家庭、学校、地域に関連する教育上の政策(食育、読書習慣の涵養、道徳教育、地域教育活動などの政策)は、概ね国がやるようなことではなく民間や地域公共団体のやることであるということで、廃止、または、縮減という判断が下されています。これらに関わる生涯学習政策局、初等中等教育局、スポーツ・青少年局はかなり痛い目を見たことでしょうし、今後も事業仕分けが実施されるならば同様の理屈を突きつけられて痛い目を見ることになると思います。
また、科学技術関連政策に関しては、進捗状況が予定通り進行していないか収益性が悪いということで費用対効果が不透明な政策(次世代スーパーコンピュータ、液化天然ガスロケット、Spring-8(レーザー施設)、深海探査、タンパク質解析など)、もしくは、経済産業省、厚生労働省、農林水産省と重複する研究助成政策(科学技術研究費、データベース構築、産業イノベーション研究、感染症対策研究など)に対しては、さすがに廃止と言い切ってしまわないにしても、大幅な予算縮減という判断が下された模様です。科学技術・学術政策局、研究振興局、研究開発局は、かなりの困惑を覚えたのではないかと思います。
確かに、「事業仕分け」が効果的に作用している政策もあると思います。例えば、学生の読書習慣の涵養という理念は正しいと思いますが、その理念を実現する内実が、パンフレットの作成、図書館の整備というのであれば、それはまだクリティカルなものではないでしょう。読書習慣の涵養に関してそれが実現される要因分析をすると、重大性という要因は読書をする時間を確保できるかどうか?満足性という要因は本が興味深いものであるかどうか?ということでしょう。しかし満足性の方は基本的には学生に委ねられることです。従って、いかに効果的に読書をする時間を確保するかということが政策上のクリティカルターゲットのはずです。
それは結局、各学校が朝読書という時間を定めれば実現されることなので、国策としてイニシアティブを取るのは的を射ていないというのは妥当な意見だと思われます。
もっとも、それは国策としては「各学校に対する朝読書の励行」という形での振興策を考える余地が残っているということでもあります。もしも、国が介入している教育政策上で各学校が朝読書を実施する上での阻害要因が存在しているならば、その阻害を解除すればよいということでしょう。もしも、阻害要因が認められない上で、なお、積極的な関与をするならば、朝読書の実施を前提に学校に一定の補助金を提供するというような策も考えられるでしょう(朝読書という重大な前提が達成されていれば補助金の使途は自由でよいでしょう。学校側は自主的に図書館整備を実施するでしょうから「図書館整備のため」という使途の限定は必ずしも必要ないと思います。柔軟な財源の方が受け取った側も嬉しいものですし、受け取れるなら受け取りたいでしょう)。
しかし、そんなことをするぐらいなら始めから学校予算を増やせばよいだけという説も浮上すると思われます。そうなれば、結局国に阻害要因がない場合は「朝読書してくださいね。」と各学校にお願いする、以上終わり、というだけの話なのかもしれません。
しかし、一方で科学技術政策に対しては全般的に事の重大性が認識されていなかったように思います。9大学学長、ノーベル賞受賞者、先端研究者、科学ジャーナリストなど科学技術分野の有識者が苦言を呈しているように、これは非常に評判が悪い模様です。(とある学会からは【緊急】というタイトルで、「皆様、文部科学省が事業仕分けに対する意見を募っていますので、意見を書き込みましょう。」的なメールが届いたほどです。)
次世代スーパーコンピュータについては、さすがにマズイと思ったのか、既に事業仕分けの結果を反映しない意向が伝えられています。「世界一である必要があるのか?」という意見も出ていたらしいのですが、そのあたりに科学の現場と社会との間のディスコミュニケーションが明確に顕在化していたと言えるでしょう。
私見では、これからの学問の勢力図はアルゴリズムの計算効率に大きく依存することになると思います。地球科学、生物学や経済学といった非線形、多変量の複雑ネットワークは、従来の要素還元的な手法では解析することができません。
従来の方法論は厳密にパーツを揃えることに特化しています。しかしそれで全体を構成することができるわけではありません。ある条件に関する部分解析は境界付けられた部分においてのみ厳密に正しいのであって、全体連関の中では同じ条件でも当該部分が同様の挙動を示すとは限らないのです。簡単に言ってしまえば、「睡眠不足にある個人を一人だけ取り出してくると眠るという知見が得られた。従って組織の中でも眠るに違いない。」というのは必ずしも正しくないでしょう。
そういったわけで、これからは従来の方法論で出揃った部分を基にして、それらをネットワーク的に制御して模擬的に全体を構成するという方法論がかなりの位置を占めることになります。そのことによって、複雑ネットワークのどの因子が重大なのかをある程度の精度で予測することができます。つまり因子選定の効率化を行えるということです。それがいかに重大な意味を有しているのかと言うと、例えば、新薬として使用されるある1つの化合物の裏には10000の候補化合物が死屍累々と横たわっており、選定作業におよそ10年を費やしていますが、候補化合物の選定を効率化できれば大幅にコストを押さえることが可能になります。つまり、「とりあえず実験、云々と言われているから実験」というのではなく、「計算結果から実験」という実験方法論の根本的な転換がなされるということです。
これから10年の推移を考えると、情報基盤に(ソフト的にもハード的にも)貧弱な研究室は、どの分野であろうと衰退の一途を辿ることになると予測されます。もちろん従来のパーツ同定方法論は必ず残ります。しかし、それはある意味ニッチ産業という形で残るのであって、主導力を発揮することはできなくなります。なぜかを譬えていうならば、一般企業には経営部門と研究部門があり、両方あって企業として体を成しますが、主導力を有しているのはどちらでしょうか?全体を思い描く経営部門です。従来のパーツ同定方法論はここでの研究部門の位置づけになってしまうということなのです。
そうすると、「世界一」であるスーパーコンピュータが如何に重大な存在であるかは、日本が今後の生存戦略として知財戦略を掲げる以上は自明です。特許権益は「世界初」のスピード戦略がなければ獲得できないからです。そのスピード戦略は如何にすばやく目算をつけることができるか?ということに依存しており、目算をつけるためには膨大なデータベースをもとに計算する必要があるということなのです。
次世代スーパーコンピュータに対する私の認識は以上ですが、スーパーコンピュータは科学技術政策の事業仕分けに対する批判のメルクマール(標識)として一般に認識されていると思うので、おそらくこの程度のことは多くの識者が既に語っていることでしょう。 そこで、少し視点をずらして、予定通り進捗しない、収益性が低い、費用対効果が不透明ということで仕分け対象になった他の科学技術政策を見てみましょう。
私はどうやらライフサイエンスみたいなことをしているらしいので、ライフサイエンス分野について見てみたいのですが、この分野では「革新的タンパク質の同定」という政策事業が仕分け対象になり、予算が縮減されています。 そこで、何が論点になっていたのかを調べてみたのですが、主に費用対効果が不透明ということに起因している模様です。要は、「君たちがこの事業によって創薬に寄与できると謳っている割には、創薬に結びつかないタンパク質ばかりじゃないか。もっと役に立ちそうなタンパク質を決め打ちしてやったらどうなの?」ということです。中には、「かつて『タンパク3000』という事業を同じ名目でやっていた割には成果がなかった。故に今回も同様だろう。」という具合にバッサリやっている意見もあります。
これらは、根本的には「創薬に寄与できないタンパク質は無用」という発想に基づいているのだと思います。 そうだとしたらこれは明白な誤りです。創薬に寄与できないタンパク質は、創薬上極めて重要な役割を果たします。タンパク質の立体構造を推定するためのデータベースの提供です。
創薬の場合、薬の候補となる低分子化合物と作動点となるタンパク質の構造が重要になってきます。 作動点となるタンパク質の立体構造が分かればそれに作用できる低分子化合物の設計を行うことができますし、 また、そのように設計した低分子化合物が、ターゲットタンパク質以外と相互作用をするかどうか、つまり副作用があるかどうかをある程度評価することもできます。 問題なのは、全てのタンパク質の構造をX線結晶構造解析によって決定できればよいですが、そんな悠長なことは確かに言ってはいられないところにあります。 ですから、ある程度でもよいので多くのタンパク質の立体構造を推定できるだけでも強みになり得ます。特に副作用を検討する際は大きな効果を有するでしょう。ではどうやって推定するのでしょうか?
タンパク質はアミノ酸がペプチド結合によって結合した重合体であり、アミノ酸の性質とその配列によって「ある程度」その立体構造が決まってきます。 ここで、あるタンパク質のアミノ酸の配列についてその立体構造が分かっている状態を考えて見ましょう。その配列と相同性の高い配列が他のタンパク質に存在している場合、このタンパク質の立体構造には先のタンパク質と構造的に相同性の高いモチーフが存在していることが示唆されます。 ということは、創薬上メリットのないタンパク質でも、アミノ酸配列に関する立体構造のデータベースを与えてくれているということになります。 それらをもとに、アミノ酸配列だけ分かっているが立体構造は不明のタンパク質の立体構造を推定しておけば、創薬ターゲットタンパク質の選定効率を上げることに寄与できるということになります。
推定精度を上げるにはどれだけ多くのデータベースを保有できるかが重要なので、結局どのタンパク質も役に立っているのです。「創薬に寄与できないタンパク質は無用」というわけではないのです。
基礎研究とはこういった性質を持つものなのだということを、きちんと認識する必要があると思われます。 総じて事業仕分けという試みは、既存サービスを選別する際には有効な手法だと思いますが、それを先行投資にまで適用するのはアプリケーションミステイクか、実施するにしても慎重に実施するべきものだと思われます。 事業仕分け自体は地方公共団体が実施したことを参考にしているはずですが、地方公共団体は地域サービスに特化しているからこそ、事業仕分けが極めて有効な手法だったということなのでしょう。
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冷静に考えて見ると、文部科学省に存在するほぼ全ての局で、その局に特色ある政策が影響を被っているようでして、それは確かに存在意義に関わるだろうなと思われました。いつぞや、民主党によって「文部科学省解体」というようなことが言われていたと思うのですが、それをするには都合がよい結果と見ることもできるでしょう(もちろんそれを意図していたかどうかは別問題です)。しかし今回の結果は、ありえそうな合理的シナリオとして「教育部門は地方に委ね、科学技術部門は主に経済産業省に統合する。」というのを示唆しているように思われます。もしも「効率的な行政」ということで省庁再編を実施するという話がどこからともなく湧いてくれば、その時は、憲法26条の解釈(義務教育は全国一律の教育)が変わらない限りは、せめてもの落としどころとして文部省が復活し、科学技術部門は主に経済産業省に吸収される可能性が高いと予測します。
官庁訪問では、最大3つの省庁で就職活動をします。従って、事前に3つは希望省庁を絞っておく必要があります。 第一志望は文部科学省なのですが、その他ははてどうしたものか。経済産業省か厚生労働省か。はたまたもっと面白そうなものはあるのだろうか。
というわけで、先日再び中央省庁セミナーがあったので、これまでに説明を聞いたことのない省庁に赴いてみることにしました。
そこで出あったのが「特許庁」でした。。
国家一種採用者は多様な業務に携わるジェネラリストというように表現されることが多いと思いますが、 それを具体的に言えば、2~3年という高い頻度で様々な部署を転々とする、ということを意味しているのだと思います。 その一方で、そのような業務形態で果たして、仕事や使い物になる専門性が身につくのかどうかという疑念が呈されているのも事実のようです。 国内外への留学研修制度が充実しているのは、そういった事情もあるのではないかとわたしは思います。
特許庁は、専門性という側面から見れば、申し分ありません。まず間違いなく身につくところでしょう。しかも、二重の意味においてです。
特許庁に技官採用されると、採用区分に応じた科学技術分野の特許を審査する業務につくことになります。 つまりは、自分の専門知識がダイレクトに使い物になる世界が広がっているということです。さらに日進月歩の特許事情に追いついていくために、 ますますそれらの分野に詳しくなっていくことになるでしょう。したがって、特許庁では、もともと有している理系専門知識がさらに深まるチャンスがあります。これが第一点です。 第二点には、「特許」という行政処分を下す以上は、特許関連の法律分野のスペシャリストになるだろうということです。(実際、審査官として7年勤務すれば弁理士の資格を得ることになるらしい。)
このように、文系理系のそれぞれで特化した専門性を有していれば、仕事は間違いなく多様化するでしょう。専門分野の実務を知っている者はそれだけでも強みです。
それを裏打ちするように、特許庁は技官(特許審査官)と行政官を行き来できるようなので、専門知識を活かしながら様々なところ(他省庁、独立行政法人、大学)に出向することができるようです。
最悪、公務員制度改革と称したリストラにあったとしても、民間シンクタンクで働ける可能性があるようにも思います。
可能性がある。しかも、潰しが効く。
ジェネラリストというのは確かな専門性に裏打ちされて、はじめてジェネラリストになれるのだと思われます。 きっと、どこでも言えることだとは思うのですが、就職してから最低2年はその分野の勉強と研修に集中して職人的素養を身に付ける必要があるのではないかと思われます。
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正しさと正しさが問題となったとき、それを調停する具体的な方法はない。要は、スタンスとスタンスの忍耐強い戦いをするしかない。
大切なのは、戦いそれ自体を目的に戦うとしたら、それは単なる破壊行為でしかないということである。 必ずどこかに戦いの落とし処があると信じて、落とし処を探すために戦うのである。それが対話である。
対話というのは私は徹底的に精神論の問題、つまり意志の問題でしかないと思っている。 落とし処を探すために戦い続けることを意志するかどうか?否、意志できるかどうか?
相手に伝えたいことがなかなか伝わらないのは、はっきり言ってしまえば当たり前なのである。そこは嘆くようなポイントではないのである。
そこで諦めてしまうというのは、対話を求めているのではなく、主に相手からの理解を求めているということなのである。そのような場合、相手は「理解しあえない存在」でしかなくなる。
だが、そこで諦めない人間は、「相手が理解しあえない存在であることを、理解しあえる」ことに注目する。相手は理解しあえない存在ではない。だから、必ず何がしかの合意は形成できるはずなのである。
対話に必要なのは意志だけである。もしも嘆くポイントがあるとするなら、対話を意志できなかった、ということただそれだけの話であって、それ以上の禍根を残すというだけの話なのである。
国家公務員1種試験に最終合格したというのは、一般企業で言うところのエントリーシートが通過した段階に過ぎません。 官庁訪問という面接を経て、内々定を頂ければ採用ということになりますが、もちろん不採用の場合もあります。 ちなみに、採用されるのは国家公務員試験最終合格者の30%程度ということらしいです。この数字を高く見るか低く見るかは人によりけりでしょうが、 それ一本だけで攻めるには若干低いように思われたので、どうやら最近いそいそと世に言うところの就職活動のようなことをしているらしいです。 というわけで、わたしのスタンスとしては「対象化された自己は自己ではない」ことから「自己分析というのは自己分析にして自己分析にあらず」と言いたいところですが、 まずは自己分析というステップを踏んでみることにしました。
温故知新という言葉もあるので、これまでの人生を振り返り(あとは入滅するだけかなぁ。)、就職という文脈からそれを組織化してみますと、実務に携わるより問題を分析してアイディアによって問題解決への舵取りを行うのを得意とするらしく、特定の企業に所属してそこでの利益を上げるより社会全体の利益を上げる方に興味があるらしいです。
ちなみに、就活的人間観から構成せられた自己、という幾分恣意的な自己像を与える適正診断テストを行ってみたところ、果たして「頭脳労働型、調和型」というような診断が下されました。
以上より、(自省的という意味においての)主観的手法による診断と、(間主観的な合意に基づくという意味においての)客観的手法による診断が一致しましたので、この自省自体には、間主観的な合意を得られるだけの合理性があるだろうということが示唆されました。従いまして、自己を「アイディアによるソリューションと包摂的な社会の利益」を意志内容とする意志主体として措定し、
これらを満たしうる業界を検索することにしました。
なるほど、自己分析というのは確かに大切だと思います。 巷間溢れるほどの業界情報があるわけですから、ともすると「うひょひょ!なんかいっぱいあるぞ!あれもこれも!」というように、自己分析無き自己啓発という自己論駁に陥りがちだと思います。しかし、「あれもこれも」の帰結は、結局何がしたいのかわからない、ということでしかないでしょう。このような場合に調査が足らないとしたら、それは業界ではなく自己の調査が足らないだけだと考えられます。
そういったわけで、私はシンクタンク、コンサルティング業界を中心に物色しようと目論んでいるようです。 これらの業種では、多数のクライアントを相手に、クライアントの抱える問題分析や解決策の提案などを行っているため、「アイディアによるソリューションと包摂的な社会の利益」といった自己観にはある程度適合しているものと思われたからです。
ただ、それがどれほど実際的なのかは企業によりけりでしょう。ところによっては、企業利益の追求、というところもあろうかと思います。 一つの基準は、「企業が社会に対してどのようなヴィジョンを持っているのか、持っていないのか、もしくは、敢えて持とうとしないのか?」だと思っています。 そのあたりは実際に足を運んで確かめてみるしかないか、という世界だと思いましたので、うろうろして企業を物色してみようかなぁ、という意欲が生まれてくるに至るようです。
先日、船井総合研究所という国内中小企業向け経営コンサル会社の説明会に赴いてみたのですが、ここは敢えてヴィジョンを持っていない、という異彩を放つ会社でした。
「方法を持たないプラグマティズム(R.ローティ)」という言葉がふと思い浮かびますが、まさにこれはプラグマティックな問題でして、中小企業は社会のヴィジョン云々以前に食っていけるのかが問題だということのようです。
「社会に対するヴィジョンはありません。売れて食べていければ幸せ。それでいいじゃないですか。」
なるほど、その言葉には真実があったので、かえって気持ちのよさを感じた次第でした。
さらに興味深かったのは、国内の中小企業が直面している構造的な問題として、「大企業‐子会社‐孫会社‐(…etc)」といった 中間下請け会社が多数存在するツリー構造を挙げていたことでした。この構造によって、中間会社が多いため利益の分配率が低くなってしまうことと、 下請け会社は大企業の要請で商品を開発するので消費者のニーズが分からず、独立して製品を市場に展開するのが難しいことに帰結する模様です。 したがって、中小企業の再生には、下請けではなく直請けに如何に転換していくのかが重要だそうです。社会に対するヴィジョンはないと言っていたわけですが、これが社会に対するヴィジョンそのものだなぁと思いました。
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なんとなく悟ったことなのですが、就職を目的に就職活動をするのはつまらないし面倒くさいのでどうでもいいや。 視野を広げ社会構造を知るために就職活動すればいいや、という気分になってきた先ごろです。
(
そして、それが究極的には近道のような気がする。例えば、自分が採用人事担当者だったとして面接を行ったとする。そして、「私は貴社でこのような意気込みをもって云々という夢をかなえるために働きたいのです。貴社でなければ嫌なのです。ぜひ入社させてください。おねがいします!!」という人と「うろうろ彷徨っていたらここに辿りつきました。特に大言壮語できるような夢はありませんが、入社することのできた企業に固有の問題を一つ一つ解決していけば、結果としてはそれが企業にとっても自分にとってもヴィジョンになっているのではないかと思います。」という人がいたとする。
その際、私なら間違いなく後者を採用する。
前者は視野狭窄。就職活動中だけは輝いているが、いざ就職となると使い物にならないか企業を辞める危険性が高い。恋人になることそれ自体を目的とする恋愛をするのと同じようなもので、恋人になった以降は熱が冷めてしまうのである。一方、後者は成り行き任せであるが、その分環境適応能力の高さや粘り強い将来性を感じるため、さて就職となるとその中で柔軟に対応してくれるだろうと思われるのである。
そして私自身はそのような「適当」な採用を行っている会社でないと、どうでもいいような制約が多くて面倒くさくてやってられない、ということになるのではないかと思っている。選んでもらうにしても、万人受けするスタンスよりもズレたスタンスで選ばれた方が、就職以降も動きやすいだろう。
「普通はそんなことはしないけどなぁ。」
「変だからしてもよいのだ。わっはっは。」
)
畢竟、私という存在の限界であり、それであるが故に、私という存在に根付いている問題は「何故生きてしまっているのか。何故生きているのか、ではなく、何故生きてしまっているのか。」という問題ただ一つだと思われる。
もとより、「なぜ生きてしまっているのか。」という問題は、人生における原初的な出発点や最終的な終着点といった問題ではない。
一般的に考えられているような「過去から未来へ」向う人生史の問題ではない。さらに人生史における究極的な目的に係る問題でもない。
もしもこれらの問題に積極的な意義を与え、積極的な答えを授けようとするものがあらば、それはおそらく政治社会的な理由に基づく甘美なまやかしである。
「おれに人生の究極的な終着点を教えてくれ!何を目的に生きているのだ。おお、恐怖!恐怖!」
「あなたがこの世に生まれた目的は、死んだ後に天国で安穏と幸福にまったりと暮らすことなのよ。そのためには徳を積んで悪行を為さないことが大切だわ。死ぬまでは大変かもしれないけど、死んでからゆったりまったりしましょう。(そうしてくれた方が共同体の維持には都合が良いのよね…)。」
「おお!ヴェリテ!ハレルヤァー!」
根本的には「なぜ生きてしまっているのか」という問題は、仮に人生の原初的な出発点や最終的な終着点を知っており、人生史の究極的な目的をも知っており、それらを自分や他者に向かって言語的に明快に表明することができたとしても、なお、解決不能な位相に横たわっている。それを考えるために次の問いを考えて見よう。
|問|
これら人生史に関する認識や表明は、一体全体どこにおいてなされたものであろうか?
|答|
生きてしまっているところにおいてなされたものである。
どんなに、これら人生史に関する認識や表明をなしたところで、生きてしまっていることそれ自体に関しては、何ら答えを提出していない。生きてしまっていることそれ自体は、むしろこれらの認識や表明の前提であるから、これらの認識や表明においては無条件に合意されたことなのである。
しかるに、あらためて「なぜ生きてしまっているのか?」というの問うとしよう。すると、この問いの問題性の存する位相は「生きてしまっていることそれ自体」であることが浮き彫りになってこよう。問いは、さしあたっては、明確になった。
だが、この問題に対する答えを積極的に提出しようとすると、先ほどの人生史の認識や表明の問題と同じ自体に見舞われる。 つまり、「なぜ生きてしまっているのか、ということに対して答えることは、生きてしまっているところにおいてしかなされない」のである。 従って、この問いに対する答えは、生きている限り無際限に同じ問いを喚起する。これを譬えていうならば、なぜ「1+1=2なのか」について「2+3=5だから」と答えたところで、「それはなぜ?(結局、1+1=2ぢゃないかしらん)」と詰問されるようなものなのである。
どうやら我々には、「なぜ生きてしまっているのか。」という問いに対する答えがどこかに収斂して、「もはや問わなくて済むぞ。のほほん。」と左団扇な生活を送ることは許されてはいないらしい。問いに対する答えが同一の問いを喚起するのではどうしようもない。
だが、どうしようもない、と考えるときにはまだどこかに収斂する答えを求める心性の残渣が残っているように思われる。冷静にこの事態を捉え返してみると、問いに対する答えが同一の問いを喚起する、と見るのは実は一面的なのである。他面では、答えが問いを喚起することで同一の答えを与える、と見ることもできる。
これまでの議論では「問→答→問→(…以下無際限)」という設定で物事を捉えていたので、答えを求めたがっていたのであるが、問いと答えが無際限に反復することを自覚すれば、逆に「答→問→答→(…以下無際限)」という設定で物事を捉えることも可能である。要は「(…)→答→問→答→問→(…)」という矢印をどこで切断して何を原初に措定するかの違いでしかない。
(註:だが、それが根本的に大きな違いになる。無際限の連鎖のどこを切断面にするかによって生じる対立は多いので、注意深く観察されると面白いと思われる。例えば、個人の行動様式を分析するにあたって、社会環境から出立するか個人の内面から出立するか、といった問題や、進化学説上において個体から出立するか集団から出立するかの問題は好例だろうと思われる。)
そこで、切断面を「答→問→答→(…以下無際限)」というようにとる。ここでは「なぜ生きてしまっているのか。」に関する答えを求める必要はない。既に全てが答えなのである。そこで我々が求めてしかるべきなのは、答えではなくて逆に「なぜ生きてしまっているのか?」という問いである。問いは答えを求めるためのものではない。答えが問いを求めるのである。
故に私は「なぜ生きてしまっているのか」という問い自体を重要視する。それに答えようとするためではなく、そもそもが答えだったから問われてくるのである。
その意味では答えは表現的であり、問いは創造的である。生きてしまっていることそれ自体は表現的に与えられてある。そして、生きてしまっているところが問われて、新たなる生きてしまっているところへと、創造されゆくのである。
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私はかつて、2007年10月3日に「なぜ生きてしまっているのか」が問いとしての条件を満たさないことを証明し、これを棄却する、という文章をはじめて書いた。 しかし、問いは本当に滅却されるべきだったのだろうかという疑問が残った。疑問が残っている時点で、問いを復活させる方向性にはあったというわけであるが、 本日に至って問いを積極的に是認するという転回をするに至った。かつては、「答のない問いは問いではない」として棄却したものだが、かえって「答にあって問う」という転回に至った。 我々は答を求めるのではなく、問いを求めることによって、創造を是認し、表現に寛容たる、基本的な性向を有することができるものと信ずる。
そういえば、日本の教育は答えに偏重した教育だと昔から言われていたと思う。だから、子供が自身で問う力が大切なのだということも言われていたと思う。折角なので、答えに窮する問いを問う力が大切だと付記したい。
時々、思います。
教育では「視野を広げ、広い世界に羽ばたけ!」というようなことはよく言われると思います。
そして、実際教育システムにおける高学歴者は、社会的存在として闊歩できる世界が広がる模様です。
つまり、何がしかの形で総合的に対象を扱っていく立場になるようです。
そのような意味での世界は対象を総合的に扱うという意味では極めて広い世界です。
ですがその一方、人的ネットワークという意味では次第に内輪になってきているのではないか。
どうやら、広い世界に出るほどに、かえって世界の狭さを感じることになる構造があるようです。 そして昔はもっとそれが顕著だったのだろうと思います。それこそ知り合いの知り合いまでで国や世界が動いていたような時代もあったのでしょう。
さておき。
先日中央省庁セミナーに行きました。1年前の2008/10/18に出席したセミナーの本年度版です。
日程としては昨年と同様、午前中に国家公務員の一般業務説明、午後に各省庁の業務説明でした。
ただ、今年の一般業務説明は…壮絶でした。どういった人事上の意図があったのか知りませんが、公務員がさらされているシビアな現実の一側面を特に反映された方が公演をされました。 普通、業務説明では如何に仕事が魅力的であるのかをプレゼンテーションするものだと思うのですが、まったくもっての真逆です。とにかく公務員に対して肯定的ではありませんでした。 希望を持って入省したものの、希望を失い、保守的になり、満身創痍。はてさて、どうしたものか。というような感じでした。 わたしはその停滞した雰囲気を好むところではないので、公務員の一般業務説明云々以前に、その方自身が直面している問題から公務員にとって建設的な方向性を考える、という舵取りを試みようと思い、いくつか質問してみました。
戦略としては、入省当初抱いていた気概(存在意義の供給源)をまずは発掘することが肝要だと思われたので、それを第一点の質問にしました。次に、それがどのようにして腰砕けになったのかということで、「日常業務はどのようなものだったのか。」を第二点の質問にしました。 最後に、公演全体の論旨を「公務員という現実は甘くはない」という(ずいぶん柔らかい)形で斟酌した上で、「業務をしているなかで何か問題性を感じたところはないか、あればどのように改善するのがよいと思われたか。」ということで建設的な方向性に発想を切り替えるような質問をすることにしました。
さて、各質問に対する回答を要約しますと「人の役に立ちたかった。」「雑務。」「倫理。改善案はわからない。」ということでした。特に3つめの質問に対する回答で「改善案はわからない。」ということだったのですが、これは問題意識の対象に起因するものだと思われました。即ち、問題を「倫理」という個人の気持ちの問題に還元するから改善案を提出するのが難しくなるのです。
通常、倫理性というのは環境に依存せずにそれ自体で保持されてしかるべきものだと考えられているかもしれません。つまり環境ではなくて気持ちが原因であってしかるべきだという通念があるかと思われますが、私はむしろそれは一面的な考え方だと思っています。 逆に、倫理性を可能ならしめる環境というものもあると考えます。もっとも、環境決定論というわけではなく、性向として倫理性を有しやすい環境もあろうということです。
(そして、そのような環境設計の奥底に見出されるのが個人の気持ちの問題なのです。たとえ環境をいくら整えたところで、畢竟真に或る個人のあり方を意思決定するのはその個人でしかありません。これについては、周囲がとやかくできる問題ではないのです。周囲がとやかくできるのは、ある個人が特定のあり方に意思決定しやすい環境を整えることでしかないのです。それは我々が個物として自己であるということの臨界点なのです。)
そういった考えを私は持っていたので、「確かに個人の倫理が問題だというのは明快。しかし、倫理が問題であるということは倫理を破壊する環境、乃至、構造があると考えられる。そのような環境、乃至、構造があるとしたら、それはどういったもので、どのように改善したらよいと思われるか。もしくは、実際の業務の際に、漠然とでもこれは変えた方がよいのではと疑問に思われたことはないか?」という具合に、環境側に限定して問題を明確化し、改善への方向が考えられたらよいな、と思い質問し直しました。
ですが、「わかりません。」ということでした。対象を明確化するのには落ち着いた状況と相当な精神力が必要と判断し、質問を切り上げることにしました。(結果的に私はいぢわるしたということです。)
これは公務員の現実の1つです。もう少し表沙汰になってもよい現実だろうと思います。 いつも不可思議に思っているのですが、公務員に対する心象が国民的に形成され、政治的に処遇が決定されるにしても、そこでは公務員への華美な心象が先行するため、公務員の実務的実態に関する国民的議論が不在なのです。公務員と国民には、もう少し生々しいコミュニケーションの場が必要なのではないかと思われます。
…ところで、もちろん他にも質問をされた方もいたわけです。 ですが、公務員は厳しいということからむしろポジティブに持っていこうとされる方ばかりでした。流石だなぁ、と思いました。
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われわれの抱える社会の問題は、広い意味での「不確実性」をどのように扱うかという問題に集約されるのではないかと思われる。
ところで、「リスク」と「不確実性」というのは異なる概念であるので、定義しておく。 「リスク」は危害要因が同定されており、尚且つ、危害の生じる蓋然性が(ある程度)確率的に論ぜられるもののことを言う。 それに対し、「不確実性」というのは危害の生じる蓋然性が確率的に論ぜられないものである。
「不確実性」にはさらに、危害要因が同定されている、もしくは、危害要因すら同定されていない、ということで区分を設けることが可能である。 前者を「既知の不確実性」と定義し、後者を「未知の不確実性」と定義することにしよう。(定義できるのだから「未知の不確実性」も「既知の不確実性」に含まれるのではという趣もあるかもしれないが、危害要因を形式的に定義できても危害要因の内容が不明である以上それは「未知の不確実性」として取り扱う。)
さて、「リスク」と「不確実性」という道具立てから社会を見たときに、科学行政の臨界点が「リスク」と「不確実性」の境界に存在していることに気がつく。
例えば、遺伝子組み換え作物(Genetically Modified Organism; GMO)の問題を考えると、GMO肯定派とGMO否定派の不和は、「リスク」と「不確実性」というフレームの問題だと考えられる。しかもこのフレーム内ではこの不和はおそらく解決不能である。
というのも、GMO肯定派は「リスク」という観点から安全性を謳うのであるが、一方、GMO否定派は「不確実性」という観点から安全性に懐疑の念を向けるのである。 GMO肯定派が如何に安全だと説明しても、それは「リスク」の範疇内での限定的な安全性である。できることはすべてやったとしても「リスク」である以上、限定的な安全性である。GMO否定派は「リスク」の範疇外での「既知の不確実性」または「未知の不確実性」に対して懐疑を向けているので、GMO肯定派の説明は何の説得性もない。それはまるで、日本の外には何があるのかを聞きたいのに、網羅的に日本内のことを聞かされるかのようなものである。 だからといって、GMO肯定派は「不確実性」に対しては確たるコメントはできないのである。確率不明である以上、「そういった危険性は否定できません。」としか言いようがない(そしてそれは望ましい科学的態度ですらある)。このようにして、根本的にすれ違う。
これはGMO固有の話ではなくて、BSE、食品添加物、原子力発電所などなど「安心・安全」という標語が好んで使われそうな分野では頻繁に成立する話であろうと思われる。 そして、専門家は「リスク」から安全性を謳うが、消費者や住民などの一般人は「不確実性」から疑念を呈するのである。はて、どうしたものか。
思うに、「不確実性」というのはその性質上、どこまでも何とでもいえるので、「不確実性」に起因する危害の発生がどこまでも問題なのだと考えられる。だから、「不確実性」に起因する危害が生じた場合、もしくは、「不確実性」が「リスク」の問題として顕在化した場合の対応(一時凍結の手続き、責任主体、制裁条件など)に関して、あらかじめ利害関係者間で合意を形成する必要があるのだろう。 そして、そういった「不確実性」に対する手続き上での合意を前提とした上で、どこまで「リスク」を許容するのかという議論がなされてしかるべきなのだろう。「不確実性」を盾にして、または、「リスク」を盾にして、一方が一方を捻じ伏せようとするのは原則的には建設的ではない。
だが、そもそも「不確実性」に対する手続き上の合意が取れるのかという問題がかなり大きい。特に「不確実性」を盾にする利害関係者の場合、そもそも交渉のテーブルにすらつかないこともあるだろう。つまり、結局問題がここに後退してきているだけの話になってしまうのである。 きっと、任意にすると問題が後退する蓋然性が高い場合は、ある程度強制力を有するように制度設計をしないといけないのだろう(罰則とか?)。
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…どうでもよいかもしれないが、 街角を徘徊していると若者の演奏家が「自分も他人も傷つけたくない」というような歌を歌っていた。 ふと、「普通には自分が傷つくような真似までして他人を傷つけることはしないだろう。私とあいつの関係を考えるに、私を傷つけるためにはあいつは傷つくことになる。だからあいつは私を傷つけることはないだろう。」 というような思考様式が世の中にはあるのを思い出した。これは、人間関係上の「リスク」(或いは「不確実性」?)の低減を期待する安心志向の発想なのだろう。そして、私という判断主体にとってここで第一に想定されているのは私の利益であろう。 さらに、裏返すと「あいつを傷つけると私が傷つくことになるからあいつを傷つけない」ということでもあるのだろう。ここでも判断主体にとって第一に想定されているのは私の利益であろう。(そして結果的には「あいつ」にとってもどちらにせよ利益になる。)つまりは、どこまでも自分が傷つきたくないだけなのだよなぁ、と思われる。
年配の方の著作を読んでいると、「最近若者が妙に優しくなった。」というくだりを見かけることがあるが、妙にというのは言いえて妙である。実はこの優しさは気持ちの問題ではないのである。空気を読んであくまで自分が傷つかないことを目的に動けば、相手も結果的に傷つかなくてもすむ、という構造の問題なのである。従って、この構造が機能しないところですら、妙に優しい若者は優しいのかと言ったら、おそらく否である。
だいぶ前に「規範の外面化」というようなことを書いた記憶がある。近代的自我のモデルでは「わたし」の属性に「良い子」があったのだが、逆に「良い子」の属性に「わたし」があるようになってきているため、所与の構造こそが「わたし」を意味づける動かしがたいアルキメデスの点になっているという話だったと思う。これまでの分析から、妙に優しい若者はとある構造によって優しいため、その構造が機能しないところでは必ずしも優しくないだろうし、規範の外面化ということを考えれば、異なる構造ではその構造の属性としての「わたし」となるように努めることが推察される。 (なので、ある種、環境決定論的に振舞う蓋然性が高いのかもしれない。それはかえって望むべきものではなく、環境を設計するにしても、あくまで個物としての自己の自覚を介して、設計環境に内属してはみ出ているということが大切だと思われる。)
自分を傷つけてでも相手を傷付けてやりたいものです。
世の中には宗教勧誘というものがあるらしい。
だが、これは根本的に迷いそのものである。勧誘を行う宗教というのは未だ自己を対象論理的にしか捉えていない。真の自己が何たるかを把持していないのである。
宗教とは本来教義ではない。また、その意味では道徳ですらない。 宗教というのは、善も悪も含んで自己と世界をただ冷徹に見つめることである。それは分析的に見つめるということではない。自己が世界で生起しており、自己が世界の生起そのものであるという、自己が徹底的に客観的な事実であることを見つめるということなのである。 そしてそこに対象論理的に捉えられた自己を可能ならしめる真の自己というのがある。
自己は求めるものではない。手にしたものは自己ではない。 我々は自己でないことはない。それをもって自己ではない。 自己の外に自己に対するものがあるのではない。自己の内に自己の否定がある。もって、我々は自己でしかありえない。
そういった真の自己、世界内の対象物でありながら世界を対象化する自己という事実を、ただ冷徹に見つめるところに宗教がある。教義、道徳が滅び生まれるところに、そしてそこ自体は滅びず生まれないところが宗教のあるところなのである。
それがわかっていれば、つまり、真の自己を把持していれば、自己を今更誇大妄想的に拡大しようなどとは思わないはずである。 かえって自己の無い者が、自己を求めてさまよい歩くのである。自己を対象論理的に捉えるからさまよい歩くのである。そして手にした対象論理的な自己に安住せんとするため、皆をその中に包摂しようとするのである。 対象論理的な自己を絶対視し、自己の外に対するものを滅却することで自己になろうとするのである。
だから宗教勧誘というのは本質的に自己を求める運動である。迷いそのものである。勧誘を行う宗教は、宗教の何たるかすらわかっていないのである。
宗教の何たるかがわかっていれば、対象論理的には相対主義に結実するはずである。対象論理を歴史的履歴のある制作物として見ることになる。即ち、対象論理を絶対視しないということになる。ここで、「対象論理を絶対視しない、という言説が絶対になるからそれは相対主義に反する。」と考えるならば、それは単に的外れに過ぎない。その考え方自体が対象論理を未だ脱していない。「対象論理を絶対視しない」という言説を対象論理化するのが誤りである。
絶対視すべきは対象論理を超えたものなのである。対象論理を超えたものを絶対視するからこそ、対象論理を相対化できるのである。
かつてヴォルテールが「寛容」と言った時には、それは「宗教間での寛容」であり、無宗教者に適用されるものではなかったと思う。ヴォルテールの論ずる宗教の位相は詳らかには知らないが、それを純化させた精髄はつまりこういったことであろう。対象論理を絶対視する者には相対主義を適用することができないのである。相対主義は対象論理を超えたところを絶対視するものに適用可能なのである。そこでは、相対主義が絶対的であることが、対象論理的言説の中で価値的に表現されるのではなく、判断以前の直接に与えられた/構成された事実なのである。それは徹底的に客観的事実、本来誰であっても成立しているところの事実そのものであり、そしてそれを絶対視するというのは、徹底的に客観的事実を共通基盤とするということなのである。
我々が通常「事実」と判断しているものは徹底的に客観的な事実ではない。判断されたものである以上すべからく価値である。そういった偶像的な価値を崇拝し共有するのではなく、判断以前の事実を共有するのである。
尤も、事実は共有化しようとして共有するものではなく、既に共有のものである。先に論じたように、それを見つめるのが宗教である。徹底的に客観的な事実、我々が世界において生起するものでありながら、世界の生起そのものであるという事実を見つめるのが宗教である。通常宗教と同一視されているような道徳や教義というのは宗教の問題ではなくかえって社会や政治の価値的な問題である。
宗教はむしろ善も悪も肯定かつ否定する。教義を肯定かつ否定する。とにかく何であれ、否定的契機を含んであるがままなのである。
善。それはよろしい。でも絶対でない。
悪。それはよろしい。でも絶対でない。
教義。それはよろしい。でも絶対でない。
あるがまま。あるがまま。
M.Ravelの「Jeux d'eau(水の戯れ)」の譜読みがやっと終わりました。 楽譜を買ったのが今年の3月20日だったので、13ページ読むのに半年かかりました。 粘り勝ちです。あとは、単純に弾き込むだけ。(…いったい何年かかるのやら。)
F.Chopinの「Fantaisie-impromptu, op.66(幻想即興曲)」を練習していたときから、超絶技巧に限界を感じていたため、 Jeux d'eauは、常に「限界を感じる」と言いながら譜面を読んでいたのですが、この1ヶ月で手が大きく変わってきました。左手は安定し、右手はそれぞれの指の力をコントロールできる兆しがあります。 そのため、幻想即興曲は弾くだけなら随分易しいように思われてきました。それに、その他の曲の譜面がとても見易くなりました(量が少ない、音符が少ない)。
「限界、限界」と言いながらも、もがいていれば、いつの間にやらかつての限界は突破してしまっているもののようです。
朝はすがすがしいです。
薄明過ぎて、明けの明星が姿をくらます頃
辺りを包む清澄な空気が、程よい緊張を肌に与え
処々に響くエンジン音が、かえって静寂を知らせます。
犬の散歩にランニング。
店頭掃除に早朝出勤。
一日は、
まこと健やかに始まっているのでした。
かくして、わたしも健やかです。
自販機前にて紙パックの抹茶ラテをすすりながら、
薄雲かかった空をただぼんやりと眺めます。
今日も一日終わりました。
朝はすがすがしいなぁ。
おやすみなさい。
そのような朝が大好きです。
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生細胞数を測定する際に、ミトコンドリアでの代謝を指標にして測定する、というものがある。
原理は明快である。生細胞は生体エネルギーであるATPを必要としているから、ATP産生のためにミトコンドリアで代謝が行われている。
そこで、代謝に用いられている酵素と反応すると発色する物質を、細胞の入った培養液に添加してやる。そうすれば、細胞数に応じて発色物質が生じるだろうから、発色物質を定量して細胞数を定量することができるのである。
ここにある暗黙の了解というのは各生細胞の代謝能が一律であることである。 もしも、ある物質が細胞増殖に与える影響を評価する際に、ミトコンドリアでの代謝を指標にして生細胞数を測定するとしたら、その結果は疑わしい。 なぜなら、この方法では「ある物質を添加した細胞群は対照群に比べて細胞数が多い」というようなことは厳密には言うことができない。 というのも、もしもある物質によって代謝量が増えたならば、細胞数が増殖していなくとも発色物質は多く検出されるからである。 だから、細胞数の指標を代謝量としている場合、厳密に分かるのは細胞数ではなくて代謝量なのである。
ある対象を示す指標は、厳密にはその対象でしかない。 だが、「対象の指標は対象」というのは「細胞数の指標は細胞数」と言っているのに等しい。 ここでは、もはや指標の使い方が誤りとなる。 ある対象を厳密に知るというのは、直接的に知るということに他ならないようである。 加えて、指標で示せるのは、厳密には指標の状態なのである。 その意味では、指標の状態から対象の状態を言うのは近似であって、一致ではない。 一致ではないが故に、近似の精度のよい系を設定することが重要となる。 近似の精度のよい系が設定できるということは、近似の良し悪しが判定できる基準があるということである。 その基準は「対象に一致する」ことであろうから、指標の対象近似のためには「既に対象が分かっている」ということが必要条件ということになる。 ところで先に、「ある対象を厳密に知るというのは、直接的に知るということに他ならないらしい」と書いた。 これが正しいとすると、直接的に知ることができない対象に対する指標は、基準無き近似を行うことになるので、近似とすら言うことができないだろう。 つまりは、それは指標という名の対象だったということなのである。
そういえば、世の中はエコエコということで、地球温暖化とCO2濃度を等価に扱っているかのごとき趣がある。 だが、本論ではCO2濃度という指標は地球温暖化という対象に近似しても、一致ではないという言い方をすることになる。 そこで気になるのはCO2は地球温暖化に対する近似精度のよい指標なのだろうかということである。というわけで少し考察して見よう。
物質Xの収支を考える場合次のような関係が成立するだろう。(工学部の人なら物質収支式と呼ぶものだろう。)
Xの流入量=Xの流出量+Xの蓄積量+Xの転換量 (1.1)
ここでX=太陽エネルギー(Es)として、蓄積量を大気中への蓄積量とする。(熱力学的には大気中のエネルギーは大気の温度と比例関係にある。)
かくして(1.1)式を大気中のEs蓄積量について解くと次の(1.2)式が得られる。
大気中のEs蓄積量=Es流入量-Es流出量-Es転換量 (1.2)
さて、(1.2)式から明らかなように、大気中の太陽エネルギー蓄積量は、エネルギーの流入量、流出量、転換量の変数として表現されるわけで、 地球温暖化という現象は一般的にはこれらの変数の総和から論じられるべきものだろう。
ところで、温室効果というのは、太陽エネルギー流出量を低減させる要素だから、(1.2)式でいうところの太陽エネルギー流出量の要素関数であろう。 そして、CO2は温室効果ガスの一要素だから、大気中のCO2濃度は温室効果関数の変数の一つであろう。
とすると、地球温暖化=CO2濃度上昇という構図は地球温暖化という現象の相当な特殊解であることが理解される。この構図が成立する条件を示すと以下のようになる。
1)
太陽エネルギーの流入量と太陽エネルギーの転換量の変動が、太陽エネルギー流出量の変動より十分小さいために、太陽エネルギーの流入量と太陽エネルギーの転換量を定数項として扱えること。
2)
温室効果の太陽エネルギー流出量に対する寄与率が、他の太陽エネルギー流出量に寄与する要素関数の集合より十分大きいこと。
3)
温室効果関数におけるCO2濃度の寄与率が、他の温室効果ガスの濃度の寄与率より十分大きいこと。
これら1)、2)、3)の条件を満たしているとき、CO2濃度は地球温暖化という対象に精度よく近似する指標として確固たる地位を獲得することができる。
どこまで近似条件を満たしているのかは、わたしは知らない。だが、実際には未だ研究中なのではないかと思われる。 (1.2)式の流入量、転換量の研究の詳細はまだあまり聞いたことが無いが、太陽活動や海洋循環が大気温度に影響を与えると言われている。(海洋循環だけで論ずるならいずれ寒冷化するというような報告もちらりと聞いたことがある。)
だが、太陽活動や海洋循環というのは、(今のところ)人間の操作できる対象ではないだろう。 科学的厳密性をもって原因がわかったところで、それが人間的に操作できないのならば、原因がわかろうがわかるまいが、人間的に行えることは同じである。人間的に行えるという観点からはそういった原因究明にはほとんど意味がない。
「人間的に行えることをやろう」というその落としどころとして、アレニウスが1896年(!!)に大気中のCO2濃度の上昇による気温上昇に言及していたこともあり、CO2排出量の低減は比較的措定されやすかったのではないかと思われる。
そういったわけで、CO2排出低減が地球温暖化防止に寄与しないわけではないだろうが、CO2排出低減が地球温暖化防止に寄与する確実性より、CO2排出低減がプラグマティックで、ポリティカルな問題設定である確実性の方が高いのではないかとわたしには思われるのであった。
…ここまで書いたところで、これまで書いてきた問題設定を内在的に超越する考えが思い浮かんだので、書く。
ふと、(1.2)式には、太陽エネルギー(Es)転換量以外の転換量として、人間の生産活動による内部エネルギー(Eh)転換量を組み込まなければならないことに気が付いた。
そして、大気中への蓄積量と、地球からの流出量には太陽エネルギーのみではなく、内部エネルギーも加えなければならない(Es+h)。
したがって、より一般的に地球温暖化という現象を把握するには、次の式でなければならない。
大気中のEs+h蓄積量
=Es流入量+Eh転換量-Es+h流出量-Es転換量 (2.1)
人間の生産活動による内部エネルギー(Eh)転換量というのは、例えば、製造工程や処理工程における資源からのエネルギー転換量である。 製造工程や処理工程のある系内では吸熱過程であっても全体としては発熱過程になると考えられるわけで、そういった発熱分は大気中に蓄積されるか、もしくは大気外へ流出されるだろう。
石油など化石燃料を使っていれば、もちろんその工程でCO2の排出があるわけなのだが、これはあくまで工程全体の発熱過程に付随するものである。直接に地球温暖化に影響するのはCO2ではなく工程そのものに他ならないというわけである。
だから、地球温暖化を論じるとき、CO2を指標にする場合、CO2を温室効果の原因として見ているのか、それとも、人間の生産活動による発熱過程に付随するものとして見ているのかで、大きく意味が異なる。
もしも、CO2による温室効果の寄与が小さく、そもそも人間の生産活動による発熱過程による寄与が大きいようならば、 CO2排出削減という枠組みで人間の生産活動における化石燃料使用率の低減をすることは、的を射たとしてもそれは的の中心では、ない。 結局は、CO2が排出されようがされまいが、本質的には生産活動における発熱抑制か、もっと踏み込めば、生産活動の縮小化が要請されているということになる。
そういったわけで、次のような信念制作過程を仮説してみたくなってくるのである。
「産業革命以降、化石燃料に依存した生産活動をすることで、生産活動による発熱エネルギーとCO2が相関して大量に大気中に放出されるようになった。
それ以降、気温上昇と大気中のCO2濃度上昇が相関して観察されるようになった。
実際には、気温上昇は生産活動による発熱エネルギーが大気中に蓄積することが原因だった。
しかし、物性研究でCO2が赤外放射エネルギーを吸収することが示されていた(1863年!!)。
故に、大気中のCO2濃度上昇と気温上昇は、単なる相関関係に過ぎなかったにもかかわらず、
大気中のCO2濃度上昇が原因で気温上昇が起こったという因果関係として認知され、流布されることとなった。
本来は生産活動の拡大による発熱エネルギーの量が問題なのだが、CO2は諸悪の根源として濡れ衣を着せられたまま現在に至っており、
CO2排出削減こそが我々の生存の本質的要件とまで言われるようになった。かくして、プラグマティカルかつポリティカルな文脈で交渉カードに使われるにまで至っている。」
この仮説は少数派であろうが、案外思考の過程としてはそれなりに妥当性がありそうな気がする。
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最近科学で注目している概念は「再現性」という概念である。
通常、この概念は、何度やっても同じだから将来も同じ(=法則性がある)、というように未来志向で語られる。
しかし、過去志向で捉えると、対象の固有履歴の消去という前提があるように思われる。
対象に固有の履歴があると、同じ操作を加えても異なる振る舞いを見せることがよくある。
だから、再現性がとれるというのは、いかに対象固有の履歴を無視できる系を構築できるのかに依存するのである。
その意味では、法則性はあるものなのではなくて、作られるものなのである。法則性の認識とは法則性の工学なのである。
外食なぞをするとき、卓上にそこはかとなくアンケート用紙が据え置かれていることがある。
まあ何事かを書き残すのも悪くない、と思い、徐にアンケート用紙と筆記用具を手にとりそれに応えようとしてみるのだが、どうも途中で面倒くさくなる。
こういったアンケートは「Xはいかがでしたか? (X = 価格、ボリューム、待ち時間、サーヴィス、等々)」という各項目に対して、「大変よい、よい、ふつう、悪い、大変悪い」の5 段階評価をつけるものが主流だと思われるのだが、はてさて、何を以て良い、何を以て悪いと言えばよいのやら。良し悪しというのは相対概念なのだから、何かを基準にして良し悪しを判定せねばならない。それを一々考えねばならぬのが面倒くさいのである。
あれこれ考えているうちに、次第にアンケートの問いの立て方がそもそも悪いように思われてくる。そうなってくると、アンケート用紙をやおら元に戻すというのが答えになる。
「かような問題、答ふるに値せず。」と。
ともあれご飯を食べよう。
…
「待ち時間はいかがでしたか?」と聞いてくるわりには、「待ち時間は何分でしたか?」という重要な情報を聞いてこないのは初歩的(にして致命的)なミスであるにしても、 特に困るのは「サーヴィスはいかがでしたか?」という訳の分からない問いである。サーヴィスには店固有の形があるものだろうから、一般論として良し悪しを論ずることなどできようはずもない。サーヴィスする主体は店側なのだから、まずは、店のコンセプトと、何をサーヴィスするのが良いことだと考えているのかを提示していただかぬことには建設的なコミュニケーションなどは成立しないだろう。
例えば、「お帰りなさいませ。ご主人様。」と言ってレトルトカレーを提供するのと、「黙って食え」で職人業の極上ラーメンを提供するのはサーヴィスのあり方が根本的に異なる。それは、店の全体を醸し出すコンセプトの違いなのであって、そのコンセプトによって秩序づけられたサーヴィスを一般論で云々できようはずがない。あるコンセプトでは客に奉仕するのが目指されるサーヴィスになるだろうし、別のコンセプトでは客に規律を求めるのが目指されるサーヴィスになりうる。
故に、「サーヴィスはいかがでしたか?」と聞く前に、次のことを提示せねばならないのである。 即ち、「この店は何をコンセプトとしているのか。」ということと、「どのサービスがそれを実現するものだと考えているのか。」ということである。
そうすれば、店側としては店の提供するサーヴィスの方向性に対する承認を客から得ることができるであろうし、客側としては店の目標とするサーヴィスのあり方から実際がどれほど近い/遠いのかを判定することが容易となる。(つまり、先の基準の問題が解決される。)
ぼんやりと対象のはっきりしないままに「サーヴィスはいかがでしたか?」と言われても、「はてな、どうだったのでしょう。」である。万人受けするようなものに帰結するとは限らないけれども、はっきりとした対象のあるコミュニケーションを通じて、店の固有性は醸成されてゆくのではないかと。
…
空の器を傍らに置きつつ、「アンケートは質問の仕方が大切です。」というようなことをアンケート用紙に書きはじめた。上のような議論を展開して、ひょいっと提出した。
「ご来店ありがとうございました~。」
めでたし、めでたし。
先週とある行事で鳥取県へ行った。鳥取砂丘に訪れるのも9年ぶりくらいかと実に感慨深かった。
砂丘会館は昔から変わっていないなぁと思いながらふらふら歩いていると、「平成21年4月1日施行」という妙な条例の書かれた看板を見つけた。
どうも、砂丘の景観を保つための条例みたいで「花火をするな」やら「砂丘に落書きするな」やら書いてあった。昔そんな話あったかなぁと不可思議に思いながら砂丘へと足を踏み入れた。
砂丘会館前駐車場から北へ向って続いている木製の階段を上る。そこには、雲ひとつ無い夏の肌触りのする空、太陽の光をギラギラと乱反射する青い日本海、「馬の背」と呼ばれる、名前通りの細長くて急峻な砂丘の丘陵地帯が広がっていた。
砂丘は裸足で愉しむものである。それは昔学んだことで、靴を履いたままだと靴の中に砂が入ってくる。この砂が実は非常に高温で、熱くて適わないのである。もちろん裸足でも熱いが、そのときは思い切って砂を掘ればよろしい。砂丘は砂を掘れば湿った土の層が出てくる。砂漠と砂丘との決定的な違いらしい。
「馬の背」という丘陵地帯は、観光用かどうかは知らないが、若干人工物臭いなだらかな坂から上るようになっている。その坂の東の部分は、遠目には坂ではなく壁に見えるのだが、実際は傾斜30~40度くらい坂らしい。したがって(?)、そこを駆け上るしかないと思われたので駆け上ることにした。
中腹あたりから足が疲れてきて砂に足を取られるようになった。これはとんでもなくきついので、余程自分に対してサディズンな人でない限り勧められぬなと思いながら、なんとか上りきった。呼吸を整えていると、腕章をした男性が話しかけてきた。
どうやら砂丘の環境局の方だったようである。中には過呼吸で倒れる人が出るらしいので、携帯用酸素ボンベを携行して備えているそうだ。おそらくこのような無謀なことをする一人ひとりに話しかけて、それとなく体調確認をされているのだろう。
そのあと、どこから来たのかというような、観光地でのありきたりな話をしていたのだが、ふと条例のことが気になったので、「砂丘に落書きする人がいるんですか?少なくとも10年くらい前ではそんな話は聞いたことがないのですが。」と訪ねてみた。
どうやら、4年くらい前から落書きが増えてきたらしい。砂だからすぐに風で掻き消えるだろうと思って、ナスカ地上絵のごとく描くらしいのだが、これが実はなかなか消えない。中には可愛いデザイン(新婚夫婦がハートを描くとか。)もあるが、時には観光資源としてはダメージの大きい、放課後の男子校の黒板のような状態になるらしい。
話を聞いていると、鳥取県がいかに砂丘を観光資源として重要視しているのかが理解される。もともと、観光客を呼び込むためにテーマパークを作ろうという計画もあったらしいのだが費用対効果が不透明であるために棄却したらしい。せっかく砂丘という天然資源があるのだからそれを活かさない手はない、と。
例えば、札幌で言うところの雪祭りのような感じで砂祭りを行っているらしい。砂上の楼閣は脆いけれども、砂楼閣は非常に堅牢で、期間中の動員数が10万人は突破したらしい。ただ、駐車場不足と慢性的な渋滞、というインフラ面での課題が残ったらしい。砂丘への公共機関でのアクセスはバスぐらいのものだったと思われる上に、鳥取市自体も公共機関でのアクセスがあまりよくない。だからみんな自動車で来てしまうのだろう。
そのようなインフラ面での問題に加えて、他に抱えている問題といえば、主要観光地以外で人が宿泊しない=お金を落としてくれないというのもあるそうだ。つまり、鳥取県の場合は、境港、米子、倉吉、鳥取市ではお金を落としてくれるが、その旅の途中ではお金を落としてくれないらしい。これは観光客がかなり目的意識をもって鳥取県に訪れていることの証左であろう。これには、主要観光地以外の地域の宿泊施設を用いると特典が付いてくるというような形での振興策で対応しているらしい。とすると、宿泊施設はそこに行くことが目的になるくらいに質の高いものでなければならない。
観光政策に立脚した地方は大方同様の実情を抱えているのではなかろうか。もちろん安直な一般化はできないが、地方には目的意識が無いと人は行かないだろうから、目的地から目的地に巡礼する行動様式は然程変わらないのではないかと思われる。目的地以外のところに立ち寄ってもらうには、まずその存在を認知してもらわなければならないので宣伝が重要になるのだが、宣伝はあくまでパフォーマンスに過ぎない。
宣伝通りのコンテンツがあるのはもちろんだが、それを超えたコンテンツがなければ手堅いリピーターを得ることはできない。
ふと思い出されるのは、昨今、村おこし、町おこしということで、萌え産業を導入する地方公共団体も出てきているが、長期的に見れば萌えは宣伝でしかなく目的ではありえない。萌え尽きたらそれで終いだからである。パッケージだけ高品質の萌えを提供するものの、中身はどこでも買えるような商品を売るかのごときコスト安の安直な戦略は、短期的には活況を呈するが、長期的には閑古鳥を呼ぶだけだろう。(その点、秋田羽後町の「あきたこまち」はパッケージもパッケージ(西又葵)だが、そもそも米の品質自体が高いので、萌えに依存しない形での求心力を獲得できているそうだ。)
そういったことから、私には地方のさらなる地方に問われるのは徹底的にサーヴィスの質の問題であろうと思われる。予想外の高品質の方が求心力を長期的に保つことができる。地方の地方ではエルミタージュ(隠れ家)という表象を伴ってあることが重要なのだろう。
偶然にも砂丘の環境局の方と僅かばかりながらも地方の実情について対話できたことは非常によい経験であった。新たな考察課題をリアリティを伴って得ることができたので、しばらく熟成を待つことにしよう。
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クラシック音楽の好きな人はオーケストラを好んで聴くのだろうか?
わたしは何度かオーケストラを聴きに行ったことはあるが、実はあまりオーケストラの良さがわからない。
いや、確かに凄いのは分かるのだが、印象以上のものが残らない。聴く前と聴いた後で何かを学び取るということがない。 相当に時代背景、作曲者、作曲動機、曲のスコア、音楽理論、さらに演奏上の解釈について造詣が深くないと、良さを発見することはできないだろうと思われる。 私がせいぜい発見できたのは、良さが既に見出された有名な一節という条件付けが無ければ、退屈そのものという事実である。
何かが学び取られるとすれば、オーケストラよりピアノの方が余程に好きである。 だが、それは時代背景、作曲者、作曲動機、曲のスコア、音楽理論、演奏上の解釈について造詣云々するものではなく、単純に技術屋として好きなのである。 オーケストラとは異なり、ピアノは自分で演奏するが故に、技術屋として好きなのである。
しかも、良さがわかるのは自分が演奏する/しようとしている曲についてのみであって、それ以外の曲は実は退屈になることが多い。
自分で演奏していれば、他の奏者が如何に偉大に弾いているのかが、かなりのリアリティを伴って実感される。そして、あの指の力強い均整の取れたしなやかさに憧憬の念を抱かざるを得ない。それは、端的に美しい。
こういったものは聴いていて全く飽きがこないので、結果的に偏執的に特定の曲ばかりを聴くことになる。次第に、情景曲はロマンティックに弾くより淡々と弾く方が訴えかけてくるものがある、ということがわかってきた。
…「Jeux d'eau(水の戯れ)」。これは一体全体いつ弾ける様になるのだろう。ようやく譜読みは全13ページ中の残り3ページ。全く技術が追いつかない。修行修行。
どうやら音楽は楽しむものらしいのだが、その言葉からひょっとしたら最も縁遠いのではないかと思われる昨今である。音楽は楽しむ以前に弾けてナンボの世界だと思っている節がある。
「自分の考えや行為が全体に反映されない。」
8月は、やたらめったら人に会う機会があったので、いろいろ突っ込んだ話をしたものだけれど、 どうやら話を聞いていると、割合とこの類の憤りを感じている方がいるというのが印象的であった。 それは、思い入れのある考えを持ち、行為していることを反照的に示すことでもあるわけだから、 わたしからすれば、とても素晴らしいことのように思われる。 ただ、若干心配があるとすれば、全体に反映されないことを以て、自分の考えや行為を無意味と憶断する傾向があるというところであろうか。
たしかに、一人の考えや行為というのが全体に反映されることは稀である。
だが、その一方で一人の考えや行為は、何かトータルには影響を与えてしまっているのも事実である。
人に対してはパフォーマティブに機能せず、ドラスティカルに実際が変化しなかったとしても、
また、実に微々たるもので数学的にはゼロ近似かもしれなくとも、実際には変化している。
結局、変化というのはその微々たる一人一人の積み重ねなのだから、自分の考えや行為は無意味ではありえない。
所詮は一人だが、されども一人一人。
望むのは、理想が実態に反映されること自体なのだろうか。
それとも、自分がやった、という優秀さの証明なのだろうか。
焦っては駄目なのだろう。
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現代社会ではよく「ビジョンが無い」というような事が言われている。
それは確かに正しいと思うが、しかし、それは全然価値判断の基準が存在しなくなったというようなことを言うものではない。 一般論としては、「価値の多様化が進行し、社会全体で共有される価値観が無くなった。」というようなことが言われるかもしれないが、 私には最近、それは真っ赤な嘘のように思われる。まあそれは別に真っ青な嘘でもよろしいのだが、思うに、 我々の価値判断の基準はその最も一般的な階層では非常に高度に共有されているのである。 むしろ、「その一般性に反対しにくいが故に共有せざるを得ないものが価値判断の最終的な審級として効力を有している。」と言ったほうが正確かもしれない。
私の分析だと、現代社会の価値基準で非常に高度に共有されているものは、次の3つ集約できるのではないかと思われる。即ち、 「効率性の追求」、「個人快楽の優位性」、「リスクの低減」である。
「効率性の追求」というのはシステム面の効率性の追求であり、通常はコスト削減を旨とする。 また、「個人的快楽の優位性」というのは、社会においてあるところの個人を、社会より優位な自由な主体と理解し、 その個人が最低でも苦しみから解放されてあることを旨とする。最後に、「リスクの低減」というのは、危害が実際に生じる機会を確率的に低減しようとするものである。
実はわたしはこれら現代で共有されたる価値判断の「御三家」に対して若干懐疑的である。
そもそも懐疑する必要があるのかという意見もあろうかと思うが、そういった意見が提出されるだけに、これらの価値を合理的に批判するのは容易ならざることなのである。
というのも、これらの価値は何が問題なのかが、一見するとよくわからないからである。
例えば、効率性の追求を批判しようとして、真っ向から素朴に立ち向かおうとするものなら、
たちまちのうちに、「ムダを出さないようにすることが悪いことなのか?ムダを出す方が社会悪なのではないか?」という反論が返ってくるだろう。
また、個人的快楽の優位性を批判しようものなら、「個人の幸福や人生の質を抑圧するつもりか?」というもっともらしい反論が返ってくるだろう。
最後に、リスクの低減を批判しようものなら、「そこまで言うなら特定危険部位を含んだ牛肉を食べればよいぢゃないかしらん。伝達性海綿状脳症に罹っても知らないよん。」などのように、実際に起こりうる危害を突きつけてしまえば、反証に事足りてしまうだろう。
どうやら価値と価値を戦わせるような形で真っ向から素朴に立ち向かおうとすると、痛い目にあうようである。
そこで、批判をする上での別の方法論としては、これらの「効率性の追求」、「個人快楽の優位性」、「リスクの低減」といった価値をまず認めてしまおう、というのがあるだろう。
そこから、そういった価値の下での社会システムは如何なる可能性の下で成立しており如何なる限界性があるのか、を展開してみせるのである。はじめから拒絶するのではなく、その世界に没入することでかえってその世界を食い破ってしまう、というものである。
(若干形式ばった言い方をすれば、この方法論はある概念の奥底に超越することで、かえってその相補概念を取り出すものである。そしてこれは実は概念一般に関して適用可能である。というのは、ある概念の成立というのは差異の成立なのであるから、ある概念の反照の成立ということに他ならないからである。独立自存の実体としての概念は存在せず、ある概念の奥底には必ずその反照が見出されるのである。
それは出発点を逆にして同じ道具を用いれば逆のことも言えてしまうことを示しているので、極めて相対主義的な話になる。よって相補概念のうちのどちらに加重を置くのかという価値対立の問題に収束されるのだけれど、ある概念の奥底に超越せることを踏まえたか否かでは、対立の様相も異なろうかと思われる。それは超越という了解の元での対立になるからである。
真に相対主義というのは概念を用いるが故に概念の限界性に基づくものである必要がある。それは概念の限界性という絶対性のもとでの、絶対主義的相対主義と言ってよいものかもしれない。
ちなみにわたしにとってこの主張は昔から一貫して変わっていない。
)
そこで、「効率性の追求」、「個人快楽の優位性」、「リスクの低減」といった、現代で共有されたる価値判断の「御三家」に対して若干懐疑的である私は、若干批判を試みる。それはさもコミケの会場で学術書を読むような場違い的な狂気沙汰かもしれないが、そこから新たな同人が生まれればそれはそれでよいのである。(喩えが狂気沙汰という説もある。もし狂気沙汰に思わなかったら既に「同人」である。)
まずは「効率性の追求」だが、そもそも「効率性とはある指標の効率性である」ということから出発してみたい。システム面の効率性の追求とはシステムをぼんやり眺めて「うん、こんな感じ。」で達成されるわけではなく、システム内の定量可能な指標を選定して、その指標の能率を最適化することで達成されるものである。ということは、その指標というのが問題になってくる。
第一点としては、システムの挙動を一面的に見るだけではなく、(網羅的とまでは言わないにしても)多面的に見ることができる適切にして必要な指標を十分選定できているのか?という問題がある。さもなくば、一面的な指標ばかり見るやら適切でない指標を見るばかりで、結局システムを見ていないというような転倒した事態が生じてしまうだろう。
例は悪いかもしれないが、中央省庁が毎年報告しているところの白書のデータを読んでいると、時折「値だけ増やせばよいというものでもないだろうに。」というような気分になることがある。とはいえ、そこには「何をもって多面的に見ることができる適切にして必要な指標を十分選定できているとするのか?」という問題が横たわっている。「多面的に見ることができる適切にして必要な指標」は定性的に決定されているわけではなく、立場の範囲、影響力の範囲、用途、注視する対象によって決定されるのだから、これには仕方が無い側面もある。
第二点としては、システム内には定量化ができない、もしくは、定量化の難しいものも存在しているという問題である。例えば、システム内に人間(或いは世界を知覚する存在者)が入ってくると、効率性の議論は途端に難しくなる。例えば気持ちをいかにして定量化するのかは、社会学的にも非常に困難な課題である。自然物を対象とする場合と異なり、その因果的法則性はかなり個別具体的でまちまちであろう(それは法則性とは言わず蓋然性である)。システム内の定量可能な効率性を上げることが、かえって、人間のやる気という定量化困難なものを殺ぐ場合もあるかもしれない。例えば、物流やコストといった定量可能な指標の最適化のためにM&Aを行うにしても、一番難しいのは社風の異なる人間を束ねることだというようなことを聞く。
洗えばもっと出てくるかもしれないが、すぐに思いつく限りでは上のようになる。効率性というのは定量可能な指標に限定され、選定される指標は立場、影響力、用途、対象などの個別の社会的文脈に限定され、さらにシステム内には定量化困難な重要なファクターも機能している。効率性は決して普遍的なものではなく、社会的文脈の違いを反映しているものなので、参考にこそなれども、それを信奉するようなものでもないのである。
次に「個人的快楽の優位性」であるがこれは幾分話が簡単で、社会においてあるところの個人を、社会より優位な自由な主体と理解する以上、無制限にそれを認めると社会機能の方が脆弱化してしまうということに議論は尽きる。社会機能が脆弱化するなら「個人的快楽」以前に個人の社会的生存が危惧されるだろう。
そのような状況下で誰がその傷んだ社会を立て直すのかといえば、困ったときの国頼みで国が立て直すということが期待される。その良し悪しはさておき、国が対処するとなるとどうしても幾分一般的な施策にならざるを得ないだろう。社会には個別具体的な実情があるだろうから、それに対応するには本来社会機能は当の社会が守る必要がある。そうすると本来社会においては、個人の快楽を優位に置きながらいざというとき国の庇護を仰ぐのではなく、個人の社会への共同化により社会が社会を守れるようにする必要がある。パターナリズムが過去のものとなった以上、政府は小さな政府でもよろしいのだろうが、その場合社会は大きくなければならない。
その際、消費者は個人的な快楽を追求するものだとして、社会自体が設計されてあることはかなり問題である。
私見では、製品やサービスは専ら消費者の欲求や欲望を満たすことに過敏になりすぎていて、そればかりを前面に押し出しているように思われる。
だが、実際のところ消費者は別段そればかりを求めているわけではあるまい。
おそらく、製品やサービスの提供の仕方が「消費者は個人的な快楽を追求するもの」という想定の下で設計されているため、
そういった提供方法下ではそもそも消費者は「個人的な快楽を追及する」以外にイニシアティブのある選択肢を与えられていないのではないだろうか?
とすると、「個人の社会への共同化」を抽象的道徳的に説法するよりか、まずはシステムを整えていけばある程度は結果がついてくるような気がする。そのような系における企業は、単に個人の欲望を開発するのではなく個人が社会に貢献する方法を開発することで業績を上げることができるだろう。貢献消費主義の面白さは、市場主義が社会機能の維持改善に繋がる点にある。
以上より、「個人快楽の優位性」というのは内部に問題を孕む上に、暫定的に最良の方法とも思えないので、どうも信奉する気にならないのである。
最後に、「リスクの低減」であるがこれを批判するのは非常に難しい。危害が実際に生じる機会を確率的に少なくするのはそれ自体誤りだとは思えない。
しかし、これはあくまで「手段であって目的ではない」という観点から、リスクの低減を信奉することについては切り崩しができると思われる。
例えば、よく「リスクの低減(=安全)」というのと安心を結びつけて「安心・安全社会を目指す」と言っていたりするのだけれど、リスクの低減を求めるのは端的に不安だからなのである。もし、リスクの低減が目的化するならそれはどこまでいっても不安でしかない。とある大手の食品企業の方と話をしたとき、「我々は安全にしようとしているが、消費者は安心してくれない」というようなことを言っていたのだけれど、それはそうだろうなぁと思う。リスク低減を目的化する社会では、リスクの低減と安心は矛盾概念なのである。リスクの低減を手段として捉えて、リスクは低減できても多少は残るのは仕方が無いとして肝を据えてしまえば、安心とまではいかないにしても泰然としてはいられるだろうに。(むしろ安心というのはリスクへの認識が無いから成立するのではないかという穿った見方もできるかもしれない。)
また、合理的に社会的分割が進む危険がある。例えば、最近は遺伝情報から特定の疾患への罹りやすさが分析できるらしい。極端なものになれば、行動の性格等も遺伝子によって決定論されると考えるものもある。
こういった遺伝情報を元に、就職、サービス(例えば保険)の現場において、リスクの低い人を「合理的」に選抜したり、サービス主体側のリスクが低くなるように限定的なサービスを提供するというような事態が生じつつあるらしい。
これらの場合、危害の予防措置にばかり焦点が向かっている。そしてこれは「合理的」に人をこうだと決め付けてしまうところから出発する。結果、リスクの低減の名の下に、社会的分割が正当化される危険があると考えられる。
以上より現代的な価値である「効率性の追求」、「個人快楽の優位性」、「リスクの低減」はそう易々とは信奉できるようなものでもないと思われる。
そのかわりに「効率性の増大やリスクの低減はあくまで一つの手段として位置づけ、個人の社会への共同化による社会の自律性の確立を目的とする」というような理念を提出してみたい。
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民主党が政権をとったらしい。
9月2日付けの朝日新聞の世論調査によると、有権者の大勢は政権交代はさせたかったものの民主党の政策は評価していないらしい。つまり、大勢の有権者が民主党に最も期待することは既に終了しているのである。政策の段になって、民主党も有権者もショックを受けるというようなことにならなければよいが。
それにしても小選挙区制という制度は、長期的に見た時に、日本で有効に機能するのだろうか?
小選挙区制は白黒はっきりつけやすく意見を集約するには便利だが、少し白黒はっきりつきすぎなのではないか?
もっとも、慣れればバランスが取れるようになるのかもしれないが。
国民性というのがどれほど妥当なものかは知らないが、空気を大切にする国柄らしいので、
小選挙区制でバランスが取れるようにするには相当時間がかかりそうな気がする。暫くは白と言ったら白、黒といったら黒に流れるものなのかもしれない。
誰も気にしていないような気がしたので少し気になることを書いてみると、かなり白黒はっきりついてしまうこの国の小選挙区制で、今はともあれ良いとしても、後進の政治家は育つのだろうか?
この傾向が続くなら、その都度その都度で、大量の新人が入り、大量の新人が抜けていくことになる。
それがあまりに極端だと普通にはノウハウの継承に支障をきたすのではないか、と思われるのだが。
とはいえ、「それでも生き残る優秀な政治家でなければ駄目だ」という意見もあると思う。
しかし、小選挙区制は設計としては政党選択用なのであって人物選択用ではないのである。
人物の優秀さというのは生き残る上で果たしてどれほどクリティカルなファクターたりえるのだろう。
派閥政治やら政策機動力が下がるという側面もあるけれど、案外中選挙区制(しかも1 選挙区あたり定数2 人くらい)の方が日本の有権者にとってはバランスの良い投票活動のできる制度なのかもしれない。
昨今、新自由主義経済とか市場原理主義とかいうような言葉が、かなりの求心力をもって政策に反映されていったかと思う。
そこでは、「規制緩和」やら「官から民へ」というようなことで、「政府の介入を極力排して自由な市場に委ねれば、万事調和しうまくいく」というような素朴な信仰が広まっていたらしい。日本ではそれを「構造改革」という、もともと政治改革のスローガンだった言葉に経済改革が付加する形で広まっていったかと思う。
しかし実際に起こったことは、「規制緩和」により生産要素(資源、労働力)を過剰に商品化することで社会構造は構造崩壊し、不安定な社会構造がかえって金融の不安定化を招く(サブプライムローン!)一因になった。また、「官から民へ」ということで、政府の介入を潔しとしない経済強者は結局のところ困った時の政府頼みになった。「弱肉強食による調和が市場原理主義によってもたらされるはずなのだから、是非ともそれを貫いて頂きたかった。」といえば皮肉になるが、もっと皮肉を言えば「弱肉強食などという言葉は所詮強者の論理に過ぎない。」ということが露呈した格好になった。
これを市場原理主義が達成される過渡期として捉えるのか、それとも市場原理主義の限界を示すものとして捉えるのかについては議論が分かれるところであろうし、正直言って決着がつかない問題だと思われる。少なくとも哲学者としてはそのような診断をする。
というのも、「市場原理主義が上手くいかないのは市場原理主義の問題なのではなくて、制度や人が十分に市場原理主義化されていないからだ。」という主張は、どこまでも主張できてしまうからである。つまり、どこまでも市場原理主義が達成される過渡期であると主張できてしまうのである。何故かといえば、「人や制度が十分市場原理主義化されている。」という肯定判断は不可能だからである。
我々は経済が破綻する事態に見舞われない限り、市場原理主義化が十分だったかどうかの判断をすることができない。つまり、「市場原理主義化が不十分だった。」という否定判断の形でしか判断を提出することができない。経済が好調のとき「市場原理主義化が十分進んだ」と言ったところで、経済が破綻するかもしれないという将来的な不確実性を払拭できないかぎりは、根拠のない単なる感想に過ぎないだろう。だが、どうやって不確実性を払拭できるというのだろう。払拭できないからこその不確実性なのであって、それは論理的に不可能である。
故に「人や制度が十分に市場原理主義化されている」という肯定判断をすることは不可能であるため、「我々が市場原理主義達成への過渡期にある」とする主張に対してだれも駁論できない。そして、これに相即する形で、市場原理主義の限界の主張も永遠に提出できてしまうのである。
まるで、「神は存在するのかしないのか」という神学論争をみているかのようである。だれも神の存在を証明できないので、永遠に神の存在は主張できるし、神の不在も主張できてしまう。それは議論としては意味をなさないのである。
そこで、市場原理主義の達成/限界を議論するより、徹底的に市場原理主義の理念を問う方が議論の方向としては適切であろう。仮に我々が市場原理主義を達成できたものとすると、その社会はどのような社会なのかといえば、市場原理主義の前提が悉く成立する社会のはずである。そのような前提を我々は実現できるか/したいかどうか、という理念=前提レベルで議論をする必要があるだろうし、議論できるとしてもそのくらいのものだと思われる。
市場原理主義の前提を逐一洗ってゆくには知識と洞察が不十分なので無理だが、市場原理主義において人がどのような存在として前提されているのかを見るだけでも、私にとっては十分なところがあるのでそれについて述べる。
市場原理主義では、人は合理的で効率を追求する経済人として前提されている。つまり、情報を論理的に分析でき、高効率で利益を得ようとする人間として前提されている。
聞こえはよいのだが、まず、効率を追求するというのは、論理的(合理的!)には利益の私益化を導くだろう。何故なら、他を利することは、(短期的には)自分の取り分を低下させることになるので非効率的だからである。
さらに、情報を論理的に分析できるにしても、有している情報は限られた情報でしかありえないため、長期分析は非常に困難である(たとえるなら、週間天気予報はあっても、年間天気予報はないだろう)。そのなかで高利益を上げることを金科玉条にしていれば、短期利益をターゲットにするのは必然的な帰結と言ってよい。
(仮に、時間t0において、全ての人が時間t0における市場に対する全ての情報を知っていたとする無茶な仮定を立てたとして、長期分析は出来るのだろうか?おそらく事態はもっと短期的、というよりカオスになる。
時間t0において、次の時間t1の動向を分析するにしても、全ての情報の中には「みんな時間t0の市場の情報を知っている」というメタ情報もあるのでなければならない。すると、「自分が分析したとおりにみんなも分析するだろうから…」ということで、ある種の結論の均衡に到達する。が、それ故にその結論に従わないことが大穴の利益を生むことが分析される。しかし、それも「自分が分析したとおりにみんなも分析するだろうから…」ということである種の均衡を生む。
t0の全ての情報を持っているが故に、次の時間t1の予想がどこまでも堂々巡りする。全ての情報を持っているというのは、長期予想どころか短期予想すら不可能にしてしまう。)
従って、市場原理主義が真に成立している社会では、人は「短期的に私益を追求する投機人」として振舞っているということになる。
それは我々の向ってゆくべき方向なのだろうか?少なくとも私にはそれが面倒くさいように思われる。なぜ面倒くさいのかというと、わたしが物臭であるところが多分に大きいかもしれぬのだけれど、「毎日情報をチェック、合理的に分析、短期的に効率よく収益を上げる、ヒャッホーイ」というその日暮らしの生活は刺激的過ぎて長くもたないような気がするからである。
それにそもそも、経済以前に社会基盤自体が脆弱化する危険性が高いので、本当にその日暮らしの生活になるかもしれない。人類史の展開は「その日暮らしの生活をいかに安定化させてゆくか」という切り口から見ることも出来るはずである。それが進歩的な方向かどうかは別としても、それなりに上手く生活していく知恵だったのではないかとも思われる。
私益をこれでもかと追求するより、「私益とささやかに公益」くらいが、適度に刺激的な生活を送る上での要件なのではないかと思われる。わたしは、そちら側の理念をもって物事を考えて生きたい。
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私益とささやかに公益
消費者の低価格志向というのは、生産者や労働者の収益減少、つまり低収入を意味する。もちろん、人は常に消費者というわけではなく、生産者や労働者として収入を得ている。極めて粗く言えば、低価格志向と低収入は再生産の関係にありそうである。そうすれば、生産ラインでのコスト削減を余儀なくされ、生産活動を不安定化させるような状態が恒常化するだろう。技術立国ニッポン!というのは、いずれノスタルジーとともに語られるだろうし、現に私はノスタルジーなのではないかと思っている。コスト削減のために海外に技術移転していったからである。
いずれにせよ、消費者の低価格志向というのは健全に産業を成長させる上での大きな障壁になるものだと思われる。例えば、食品などの分野では、低価格で安全なる物が志向されるわけだけれども、それは無茶な要求というものであって、安全なものはそれなりに値が張って当然なのである。設備やシステムの維持にお金がかかっているのだから。
それでも、消費者の低価格志向はなかなか歯止めがかからない。どうしたらよいのだろうと思って、まずは自分の消費活動の現場から考えて見ることにした。
最近日常的に行くのが、スーパーマーケット(しかも深夜)でしかないような生活になってしまっているので、スーパーマーケットに行って、主に食品ラベルの何が消費のイシシアティブになりうるのかを「うーん」と唸りながら考えてみた。
価格、原産地、内容物、食品添加物、消費期限、会社名、アレルゲン、栄養機能食品マーク、特定保健食品マーク、パッケージのイメージ、食品の効用文(おいしさ、健康)、店頭の紹介文…。
はた、と気がついたことには、表示されてあるのは消費者にとっての利益情報ばかりなのである。いや、それは消費の現場だから、消費者の利益を専らにせよということで確かに当然なのだが、これらの消費者利益情報の中で、自分にとって、いまここで自分の関与で直接的に利益が期待されると「知覚される」のは、やはり価格に思われたのである。
食品表示を大別すれば、私は4つの消費者利益情報に分けられると思う。即ち、「価格、安全性、おいしさ、健康寄与」の4つである。
しかし、安全性といっても、なんだか問題が発覚しない限りには現実味が沸いてこないのではなかろうか?というのも普通には日常的に食べてしまえていて問題が生じていないからである。
また、おいしさ、といっても「何を食っても同程度にはおいしいものが出回っているので、とにかく食えればいい」ということで、あとは価格と相談というところがあるように思われる。
最後に健康寄与といっても、これもまた効果が分かりにくい、というのが実際のところだろう。実験をしている人間から言わせて頂くと、低用量でドラスティックに効果が認められる薬/毒とは異なり、食品成分系は効果が極めて微々たるもので、遺伝的系統のそろったマウスですら有意差と再現性を取るのが非常に難しい。特定保健用食品はまだしも、とにかく健康有用(と言われる)成分をこれでもかとぶち込んだ食品の謳う効果が、真に得られるかどうかは分からない。…というよりそれを通り越して胡散臭いと思ってしまうのである。
結果としては、価格以外の消費者利益情報は、いまここで選択するほど実際的でパフォーマティブな情報に映らなかったのである。 おそらく他の消費者利益情報を表示しても価格というのにはなかなか太刀打ちできないのではないかと思われる。
そこで、消費の現場だから消費者の利益を専らにせよという固定観念を改めてみてはどうか。これまで消費者視点というのは、悪く言えば、消費者の私益ばかりを謳おうとするものだけれど、ささやかながらそこに公益を謳ってみてはどうかと思うのである。いや、十全な意味での消費者視点というのは単に消費者の私益を満たすだけではなく、消費者が公益へ向けて参画するところまで含んでいる必要があると私は思う。最初に書いたが、消費者は健全な産業成長に寄与する社会の重要なプレイヤーであることを忘れてはならない。
というわけで、商品に消費者利益情報以外に、企業、地域、或いは行政の利益情報を記載してみる。例えば、企業の利益情報としては、新規プロジェクトの紹介と新規プロジェクトの運用資金の必要性、もしくは、安全システムの導入とその資金の必要性などを謳ってみることができるだろう。少し体力のある企業なら、地域貢献の内容とその資金の必要性を訴えるなどできるだろうし、資金の必要な社会保障関連政策は行政と企業が提携して「この商品の売り上げの一部は年金政策に用いられます。」(特定財源的な消費税の導入ということになる)ということを提示する。ここでは、企業によって様々なオプションを消費者へ向けて提示することができるものとする。
確かに企業によっては「売り上げのX %を社会に還元しています。」というような宣伝はしているのだが、それは企業が売り上げから自主的に行っているものであって、普通には消費者に社会貢献の実感はあまりないのではないだろうか?
そこで、消費活動のその現場が直接に公益に繋がるという期待、実感を消費者に感じて頂くことが重要であると考える。つまり、消費者が企業が提示するところのさまざまな社会貢献を消費活動の中で選択し、それに貢献しているのだと実感することが重要であると思われる。
そこで明らかにパフォーマティブなのが価格である。例えば、ある地域貢献を謳う企業の商品に関して「本体価格120 円、投資価格5 円」という表示をするなどして、貢献を価格で可視化するのである。割合で示してもいいかもしれないが、わたしはやはり価格の絶対数で示した方が、なんだかお金を投資したという気分になるのではないかと思う。実質的な値上げだが、それでよろしい。
このようにすれば、消費活動における商品選択の際、単純に消費者の私益のみならず、公益という軸が加わってくる。これを「貢献消費主義」と仮に提唱しておく。私益だけなら低価格志向になるだろうが、そこに公益が入れば社会貢献志向という新たな志向性が生じるのではなかろうか。日々の自分の消費活動が、自分が重きにおく社会基盤整備に選択的に寄与しているという実感を与えるものであれば、それはなかなかに刺激的であろう。
また、普通には企業に投資するのは株主ということであり、今では株主はもの言う株主になってきたので企業の社会的評価は株価や利益に偏重しているところがあるが、「貢献消費主義」下では企業に投資するのは単に株主だけではなく、市井の消費者が普通の消費活動の中で企業の社会貢献活動に投資するのである。そこでは、企業の社会的価値は単純に株価や利益だけでは評価されず、社会貢献活動の実施状況といった観点からも評価されることになるだろう。
わたしは社会における消費者の位置づけが上手くいくかいかないかが、今後の国の動向を大きく左右すると思う。神様や客でしかない消費者は社会の荷物になってしまう。消費者は私益の中、ささやかながらも社会にもてなしをする主人たることが要請されると私は思う。
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それにしても凄い一週間だった。巷ではお盆らしいが、何故か1 日18 時間は研究室にいたような気がする。
もともと予定では1 つしか仕事を入れていなかったのだが、トラブルやらお盆の人員不足によって1 人で2-3 人分の仕事を同時平行でやることになった。結果、朝から朝まで活動することになった。
朝から朝までいると、アブラゼミなぞが夜中電気に誘われて、窓にたむろし鳴きたい放題鳴いているのを観察できる。しかし、どうやら明かりさえあれば鳴くというものでもないらしい。
ヤツらは12:00くらいまでは乱痴気騒ぎをするが、1:00~2:00以降くらいから急にどこかに行ってしまう。
ずっと明かりはつけているので、どうやらアブラゼミは光以外で時間を認識しているらしい。そうだとすると一体何を指標にしているのだろう。鳴き疲れたのだろうか?
政治不信という言葉がある。国民は政治に対して不信感があるらしい。 不信感があるにしても、一体全体政治の何に対して不信感があるのだろうか?
今年の夏は総選挙があるらしい。政権交代が言われているので国民的にも関心が高そうである。
そこで、試みに周りの人に「自民党と民主党のどちらに投票する?」というようなクリティカルな質問をしてみよう。
おそらく、「民主党!」「どっちにしようか迷っている。」「決められないので投票棄権。」というので過半数になるのではないだろうか。
いずれにせよ、「自民党!」ではない。もしも「自民党!」と高らかに宣言したら、今や「何故自民党なのか?」ということをかなり説得的に説明できなければならない。
そういった意味で、今やコミュニケーションコストは民主党より自民党の方が高くつく。それだけ政権与党としての正当性が失われている証左であろう。
そこで、少なくとも「自民党!」ではない、と考える人に対して「なぜ自民党ではないのか?」という質問をしてみよう。おそらくここに所謂「政治不信」が何に対する不信なのかが現れてくるはずである。
仮にそのような質問をしたとして、「自民党の政策には問題がある!云々…。」と答える人はかなりの少数派のはずである。個々の政策に通暁しているのは、専門家か、もしくは、政治オタクであろう。一般国民の視点からすれば、自民党がどのような政策をしている/してきた、のかはそれ自体ではあまり大きなファクターではない。私を含め、大多数の人はそもそも整合的に政策を論じるだけの知識を有していない。頑張っても自分の生活に関連する政策にしかなかなか目が届かないものであるし、そもそも全体のことがよくわからないので、自分たちの生活が良くなると言われても本当に良くなるのかどうか判断しかねるところがある。
普通には政策を根拠に考えていない、というより、考えられないのである。ある政党を選ぶ根拠はもっと別のところにあって、それによって選んだ政党の正当性を、政策的に補強する際に専門家の言葉を受け売りする、というのが実情だろうと思う。
では、普通には何を根拠として答えるのだろう?思うに、政策云々であるより、「政治家の不祥事にまつわることから自民党ではない。」というのが根底にあるものと考えられる。この根底の展開として「政治家にうんざりしきった自民党より、まだ政治家にうんざりしきっていない(とはいえ結局政権担当したことがない故にうんざりしきっていないだけなのだが)民主党に期待してみたい。」という民主党ポジティブな意見と、「自民党にお灸を据えるためにとりあえず民主党。本心は自民党だけど政治家があれじゃどうしようもない。」という実は民主党ネガティブな意見に分かれるものだと思われる。いずれにせよ、政治不信というのは、多少政策不信という側面もあるにしても、政治家不信の問題なのだと思われる。
…さて。なにやら自民党も民主党も耳に心地の良いマニフェストを掲げてはいるけれど、うーん。実際はどうなのだろう。
言っていることを実行できるのだろうか。単なる茶番劇にならなければよいのだが。
とはいえ、もちろん我々が茶番劇にしてはいけない側面もある。たとえば、「自民党にお灸を据えるために民主党に投票する」というのは、わたしには極めて危険な発想に思われる。民主党に期待しているわけではなく、あくまで自民党が返り咲くことを期待するなら、素直に自民党に入れたほうがよい。すでに自民党は世間の逆風の中にあることぐらい認識しているのだから、その意味ではお灸は据えられている。
民主党に期待していないのに民主党に投票するのは、民主党にとっても甚だ失礼な話であろう。すぐに下野することが期待されるならマニフェストのような体系的な施策を講じることなどはできない。そうは言ってもその間に拘束力のある法案が中途半端に通過するのであるから、政治を茶番にして自分も茶番を見るのは結局本心ならざる投票をした人に他ならないだろう。
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先ほど政治家に対して「言っていることを実行できるのだろうか」云々書いたと思うのだが、別の領域では、市井の人は「言っていることを実行しているのだろうか」ということが問題になっているらしい。
たとえば、食品の安全性は世人の気に留めるところであろうかと思う。そこでアンケートを取ってみると、食品添加物や遺伝子組み換え作物は忌避の対象であり、それらが入っていないものを選ぶ、というのが多数を占めるらしい。ところが、実際の消費活動の段になると、アンケートは一体なんだったのだろうか、とにかくそんなものは関係なく低価格志向の消費傾向になるらしい。
きっと、政治家にしても、マーケターにしても、市井の人の言っていることが信じられないところがあるのではないかと思われる。世論は、市井の人が言っていることからではなくて、行動そのものから汲み取る方が手堅くなるだろう。
その場合、社会的な自己というのは、もの言う主体としての自己ではなく、行動主義的に分析された自己として影響力を持つことになる。とすると、言論は無力ゆえに自由、ということになっていくのだろうか。
先週の27日付の新聞各紙で、永井良三 東京大学教授がメタボリックシンドロームに関する免疫学的な新たな知見をNature Medicine電子版で発表した、というようなことを書いているのを見かけたので、早速論文を読んでみたのである。
いや、確かに画期的な内容だったのである。これまでは、肥満細胞周辺では炎症が生じており炎症によってインスリン抵抗性になる(糖尿病の引き金)、そして炎症はマクロファージと肥満細胞の悪性循環作用によってプログレッションされる、ということは知られていたのだけれど、そもそもいかにして肥満細胞周辺で炎症がプロモートされてくるのかについてはunkownだったのである。
この論文は、CD8+T 細胞を脂肪細胞周辺での炎症プロモーターとして新規に同定するもので、肥満細胞周辺の炎症の悪性循環を制御する可能性を示唆するものだったのである。
どうも、CD8+T 細胞のCD8分子を抗CD8α抗体で中和すると脂肪組織へのCD8+T 細胞の浸潤が抑制され炎症が誘発されないらしい。これは通常、単純にCD8が炎症誘発に対して何かの機能を有していることを示唆しているのか、それとも脂肪細胞のMHC-Ⅰ分子による抗原提示を介して炎症をプロモートすることを示唆しているのか?後者だとするとその抗原は何なのだろう?もしそのような抗原があるなら間違いなくそれは治療上のターゲットになるのだが。
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安全を求める心理というのはどこまでも不安であろうと思う。「安心・安全」という錦の御旗があるけれども、実際的には「慢性不安・安全追求」社会にしかならないのではないかと思う。
安全が達成されたら安心するという趣もあろうかと思うが、何をもって安全が達成されたとするのだろう。ハザードリスクゼロ社会が達成されたら安全と考えるのなら、それはどこまでも不安な社会になるだろう。システムのハザードリスクを減らすのにシステム改変を行ったとしても、システムはシステムである。ハザードリスクをゼロにすることなどはできない。
(もし本気で社会システム上のハザードリスクをゼロにしたいなら社会システムを解体すればよい。他のハザードリスクのことまでは知ったこっちゃないが、社会システム的にはハザードリスクはゼロになる。きっと「安心・安全」なのだろう。)
とすると、多少のリスクは許容する方向で安全ということになるのだが、これは厳密には「安全」ではない。そうなってくると下手にこんな言葉を使うのはやめてしまってはどうかと思われてくるのである。
それじゃあということで「安心を追求するべきなんです」というのもまた変な話になってくる。安心しきったらリスクに対して麻痺しているのと同様であって、いたるところでハザードが生じてしまうだろう。
そういったわけで、わたしは「平生・平常」くらいに構えていた方がいいのではないかと思う。システム面からはリスクが多少はあるのが平常なのであって、それに対して「リスクは無いに越したことは無いんだが、あるものはある」くらいの平生な対応ができればよい。
安全病に罹患して不安を募らせていると、ちょっとしたリスクに対して過敏な応答をしてしまうだろうが、その過敏な応答が社会システム的にハザードだとしたら元も子もあるまい。
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身体に対して身体外の対象物を自然物と措く。われわれが普通に何かを見るというときには、この「身体外の対象物としての自然物」を見るというのである。例えば、木を見る、川を見る、空を見る、行き交う人を見る、建築物を見る、など日常普通に知覚せることを言うのである。
「身体外の対象物としての自然物」を見るという場合、見ることのできる自然物は無際限である。しかし、「身体外の対象物としての自然物」を見る場合、この形式によりて見ることのできぬものがある。形式の内部で自明化しているものがある。そこでは身体を見ることはできぬ。そこでは身体は自明化されている。
しかし、この自明化された身体は、(どういったメカニズムによるのか知らぬが)反省的に捉えられて知られるものとなる。反省的に知られるにしても、反省作用が形式と一致するところから知られる、というのと、反省作用が形式を超え出るところから知られる、という階梯上の相違がある。
反省があくまで前者にとどまる場合、身体の自明性は「身体外の対象物としての自然物」に連関せる相補的な規定にとどまる。即ち「身体外の対象物としての自然物」が見えるのだから、それが見えることを可能とするものとして、身体が規定せられる。つまり、身体にのみ知覚の構成作用という働きを認めることになる。
(このロジカルアーキティチャにおいては、間接知覚という深刻なる問題が生ずる兆しが認められる。うんざりするほど聞かされてきたところがあるかと思うが、知覚せる世界(意識)と知覚せられる世界(外界)の位相的な分裂が生ずる兆しがあるのであって、結論を言えば論理的に破綻する。このロジカルアーキティクチャを走らせようとすると、「身体による知覚構成以前にもともと見えていた」という前提が潜んでいることが判明し、潜在的前提が顕在的前提を破壊する。間接知覚論は直接知覚無しに成立できぬ。
通常、認知科学的な知覚論というのは「身体外の対象としての自然物」の知覚を扱うものであるから、この範疇内での話にとどまる。)
しかし、反省作用が形式を超え出るところから知られる、という場合、そもそも自然物が「身体外の対象物としての自然物」ということすら絶対ならぬ、相対的なる規定として現れてくる。確かに普通には身体外のものを見るということに注視がいくので忘れがちだが、身体すら対象物としての自然物であろう。身体を切開すれば、厳密な意味において身体内ですら対象物である。光学的に工夫をすれば頭蓋骨を切開することで自分の脳すら見ることができるだろう。身体外の対象物も、身体という対象物も、同位相の自然物としての対象物なのである。ここで、当初の自然物の定義(身体外の対象物)を拡張し、自然物を身体内外の対象物と再定義する。
この場合、自然物である身体のみに知覚の構成作用を認めるのではない他の方策を考えることができる。即ち、自然物と知覚の構成作用を分離する、もしくは、知覚の構成作用を自然物全体の働きとして捉える、という両極端な方策が挙げられよう。
前者においては、対象物と作用を分離するある種の二元論が成立できる。しかし私はこのような二元化を行うと、ある知覚を説明するには便利かもしれないが、ある知覚に継起する次の知覚を説明するには不十分なるところがあると思う。確かにある知覚に関して作用のもとで対象物があることは言える。しかし、作用のもとで対象物があるだけなら、その次の作用は何故継起できるのか?何が作用を生むのか?
もし作用が作用を生むとするなら、作用は作用と対象物を生むことになる。継起ということを考えれば、作用の自己言及の過程こそが主たるものであり、対象物はその副産物にすぎない。対象物というのは作用に関わらない以上、作用のDead Endである。対象物というのは役に立たない死物であって全くもって積極的な意義を持たないことになる。
作用と対象物を分離するというのは、静的なるものに過ぎず動的なるものではない。対象を観照することはできても、対象を変容させることはできない。対象物は転じて作用にならねばならない。
そこで私は後者の、知覚の構成作用を自然物全体の働きとして見る、という方策を考えてみようと思うのである。そして行為的価値というのも、このロジカルアーキティクチャにおいて捉えようと思うのである。
例えば「水というのは単に水としてあるのではなく、飲むという行為的価値を惹起せしめるものとしてある。」という時、飲むというのは抽象的にその行為があるのではなく、水と同位相にある自然物たる身体の行為としてあるのである。行為的価値から限定されてある自然物というのは、単に身体外の自然物のみならず、身体という自然物でもあるのでなければならない。確かに飲むという行為的価値を惹起せしめるのは、身体外の水であるにしても、身体そのものの状態もその反照としてあるのでなければならない。確かに水を見るというのが、飲むという行為的価値を実際に触発してくるのを観察するが、それは飲むという行為的価値によって水と身体が自然物として構成されてある只中のことなのである。
そして、行為的価値が生み出されるというのは抽象的に生み出されるのではなく、自然物となりて生み出されるのである。行為的価値が生み出されるというのは、即ち、行為的価値の限定なのである。行為的価値を生み出すというのは、自然物自体の変容として生み出されるのである。ここでいう自然物の変容というのは、単に身体外の自然物の変容だけではなく、身体という自然物の変容ということも言っている。自然物が転じて働くものとなり、自然物自身として限定するのである。
…これまでは自然物にばかり定位していたが、我々が経験的に対象物とするのは何も自然物のみではない。想像物も一つの対象物である。 これをなんとか組み込んでいく方法を考えているのだが、最近、外在性と公開性という面白い発想が湧いた。将来何かの手がかりになるかもしれないので、書く。
通常、外在性というのと公開性というのは同じような概念とするところだと思うが、ここでは厳密に定義が異なるものとして考えている。
普通には、主観経験的に自然物は外在的であり想像物は内在的だと見做すところがあるかと思うが、これは公開的か非公開的かの問題だと思っている。主観経験的には自然物は公開的であり、想像物は非公開的である。そして一般的には現実と非現実をこのレベルで論じることが多い。即ち、公開的なものを志向する場合現実であり、非公開的なものを志向する場合非現実と考えるのである。
しかし、よくよく考えてみると、主観経験的には自然物であれ想像物であれ対象物であることには他なるまい。その意味では、主観経験的には両者とも外在的な現実なのである。そして今回の最後議論のように、外在的な現実は対象物から転じて働くものとなり、外在的な現実自身を限定していくのだと考えている。また、外在的に対する内在的、というのは、対象物に対する作用、として考えている。内在的と言うのは想像物ではなく、自然物や想像物を与える働きのことを言うのである。
長いこと問題に関わっているとそこから見えてくることがあるかと思えば、どうやら思いがけない形で解決する場合もあるらしい。
いずれにせよ簡単に問題を放棄してしまってはいけないわけで、そのようなときに放棄しなくて良かったなあと思うのである。
主観経験的には、問題は自ら自身の手を離れ、問題自体が自己解決に向うように見える。もっともそれはどこかで自己の問題として解決に向った人がいるということであるが、それが本当の解決なのだろうなと思う。
自力は所詮自力に過ぎない。自力の極に他力があり、自力が他力に通底するところに問題の解決がある。やるだけやってあとは委ねるしかできない。上手く引き取ってもらえた時、非常に有難き経験をしたものと思うのである。もちろん痛い目にあったこともある結構な博打なんだが、有難き経験と言うのは病みつきになるらしい。やれやれ。
もっとも、これは私のようなおせっかい人間から見た問題解決の様相なのであるが、他面では他力が自力に通底するところに問題の解決があるということでもある。
問題を単純に個人の内面性に帰着させる発想には問題がある。どのような環境におかれてあるのかという環境条件を度外視して個人の内面の問題に帰するのは単なる徳目主義的道徳である。しかし、だからといって「環境を望ましい形に変えれば望ましい形に人は変わる」というものでもなくて、環境条件の極は個人の内面性の問題に帰着するように思う。
さておき、
自然物というのは単に自然物としてあるのではなく、常に或る行為的価値に限定されてある。 例えば、水というのは単に水としてあるのではなく、飲むという行為を惹起せしめるものとしてある。 この時、水は飲むという行為的価値から限定されてあると言うことができる。飲むという行為的価値から水が知覚的に構成されてある。
自然物は行為的価値から限定されて知覚的に構成されてあるにしても、行為的価値によって自然物を完全に限定することはできるであろうか?行為的価値によって自然物を包みきることはできるだろうか?これはおそらくできまい。 水は常に飲むという行為的価値から限定されてあるわけではない。泳ぐという行為的価値から水が知覚的に構成されてある場合もあるかと思えば、逃げるという行為的価値から水が知覚的に構成されてある場合もある。 水という自然物を包みきるには、(集合的に)より大きな行為的価値によって包まれる必要がある。飲む、泳ぐ、逃げるなどの行為的価値を包括する、より大きな行為的価値によって包まれる必要がある。 ここで、大きな行為的価値によって水という自然物を包んだとしても、水はなお、その行為的価値によって包みきれなかった行為的価値によって限定される可能性がある。それをも包んだより大きな行為的価値によって包まれたとしても、なお包みきれなかった行為的価値によって限定される可能性がある。 行為的価値の内容を無際限に包括するにしても、なお、その内容が無限にある可能性を払拭できない。故に行為的価値によって自然物を包みきることなどはできない。
しかしそうは言っても、その究極の極では無限の行為的価値の内容を包む行為的価値が観ぜられよう。この時、自然物は行為的価値によって包みきられたと同時に、行為的価値を生み出すものになる。 水は単に行為的価値から限定されてあるのみならず、当の水が限定されるところの行為的価値を生み出すことができる。当の水が知覚的に構成されるところの行為的価値を水自身が生み出すことができる。 ここにおいて自然物は、個々人の単なる主観経験上の構成物であるのみならず、主観経験に対する超越性つまり客観性を有するものとして存在する、と言うことができる。知覚即存在というのは一面に過ぎず、他面では存在即知覚なのである。
どうでもよいことかも知れないが、 私は矛盾を排除するのは論理的には正しいが、あくまで論理的に正しいだけだと思っている。論理が環境化された(蓋然性の高い)環境では論理矛盾を指摘してこれを排除すれば上手くいく(蓋然性が高い)。 しかし、どうも生の実際というのはメビウスの輪のように表と裏が通じてしまったところにあるように思う。とすれば、矛盾なる非論理的なものが生の実際を「論理的」に説明できるものなのである。論理屋からすれば「矛盾概念からは全てを導き出すことができる」として揶揄されるところであろうが、売り言葉に買い言葉。わたしからすれば「整合概念は一面しか導き出すことしかできない」と揶揄したくなってしまうところである。 論理は着想と前提と演算規則を超えることができない。論理的な結論はどこかから沸いてくるものではない。全て着想と前提と演算規則の中にそもそも含まれていたものなのであって、推論とはもともとそれらのなかにあった結論を可視化する過程なのである。そして、着想と前提と演算規則自体が論理的に正しいかどうかをそこで用いられている論理を以て証明することはできまい。証明するべきものを証明に使ってしまうからである。
「現代の若者はマニュアルから外れることに恐れを感じている」というようなことが、いつぞやどこかの新聞で書かれていたように記憶している(いつ、どの新聞であったかは忘れた)。若者の内面的にそれはそうだとしても、なんら外面的な条件無しにマニュアル外れを恐れる若者が育つわけでもあるまい。きっと若者を育てたオトナ自身が「マニュアルから外れることは恐ろしい」というような育て方をしてきたのであろう。それはつまり当のオトナ自身が「マニュアルから外れることは恐ろしい」と思っていることに他ならないのであるから、畢竟オトナも若者もマニュアル外れを恐れているということなのである。
それではどうしてマニュアル外れを恐れているのだろうか?
私は「自分が置かれてある環境は所与のもので、それを変えることはできない」という素朴な信仰がそこにあるのではないかと思っている。
最近私はちょっと考えを変えてきていて、かつては社会から規範性が失われたと思ったのだけれど、実際はそうではなくて逆に規範性を推し進めた結果、超規範的な社会が成立してきているのではないかと考えている。規範の内面化の奥底が規範の外面化に超越している。つまり、規範を内面化していくことでその規範を包んだ1つの統一的な人格が陶冶されていくというモデルを推し進めていった結果、逆に規範が外面化してしまい、その都度の規範に包まれた人格でその場をやり過ごすという乖離した人格モデルへ移行してきたものだと考えている。かつては自己の属性として良い子があったのが、良い子の属性として自己があるように変わってきたのである。そうなってくると、自分の置かれてある環境の方が、自己を規定する上では動かせないアルキメデスの点として働く。それがマニュアルからの逸脱行為を阻害する最大の要因だろうと思うのである。
そんなこともあって、昨今半ば強迫的に聞くようになった「空気読め」という命令語は、私なんかには「その空気の中にいる私を理解してよ」と言っているように聞こえてしまうのである。(私の友人はこれをさらに「『空気を読め』という言説は有り得ない。」という命題にまで昇華されたよう記憶している。)
少しどうでもよいような話を続けてみると、わたしはなにやら折りあるごとにいろいろな人から悩みを聞くことがある。そういったときに「そうかそうか」というのと「おいおい勘弁してくれ」という2つのタイプの悩みがある。
前者の悩みは、もとより自分で答えを持っていてそれを確認しに来られる方々の悩みである。この場合、私は何もする必要が無いのであるし、実際何もしていないのだけれど、はてな、よくわからぬのだけれども、とてもさりげなく感謝される。こういった方々はもとより自己解決力が高い。自分の周りに働きかける力を持っている上に、実際にそれを行使することができる方々である場合がほとんどである。
一方後者の悩みは、悩みというより愚痴と言ったほうが適切である。そういった方々は「自分が置かれてある環境は所与のもので、それを変えることはできない」と割と思い込んでいるようで、その環境に日々耐えることしか知らない。そして、その割には、いやそれであるが故に、「ある日突然環境が変わり、理想の自分に変わることができる。」というような淡い期待を抱いているものである。そのため、自分にとって都合の良いように環境が変化するのも当然のことだと思っているので、不平ばかりは言うけれど、感謝なんぞは知らないか、または、過剰な感謝を伝えることで利益を与えてくれた人間に依存しようとするものである。
環境というのは思ったほど自明ではない。何もしないで突然全て都合の良いように変わるということはほとんどないだろうが、変えようと働きかければ少しずつ自分が動きやすいように変わっていくものである。
言葉が通じる、ということはどんな時でも一義的に目指してゆくべきものだ。
環境管理というのは、言葉が通じない場合の対症療法にすぎないのであって、それを一義的な目的としてはいけないのだ。
はじめから環境管理を唱えるほどに、人間に絶望してしまってはいけないのだ。
言葉が通じないままに価値観の多様性ということを目指そうとするから、全体の秩序を維持するには物理的に環境管理することが答えのように見えてしまうだけなのだ。
対症療法であることを忘れ、環境管理を主たる目的とするのは明らかに過保護だ。理に適わない我が侭を、環境管理によって互いに軋轢無く実現させようとすることを価値観の多様性と言ってしまってよいのか。もしくはQuarity Of Life(生活の質)の実現と言ってしまってよいのか。
わたしにはどうもQuality Of Life(生活の質)というのはQuantity Of Pleasure(快楽の量)と同一視されているのではないかと思うことがある。
価値観の多様性は、言葉が通じるところではじめて実効的なものになるはずなのだ。
個々の価値観は言葉が通じるということに包まれてあるべきで、言葉が通じるということは最低限、かつ、もっとも深い作法であってしかるべきなのだ。
皆が皆というわけにはいかないが、その割合を増やすことを否定してしまってはいけないのだ。
むしろ、それが一義的に目指されてしかるべきものなのだ。
どうしようもないときは環境管理に訴えかけるにしても、環境管理だけで満足してはいけないのだ。
単に環境管理するだけではなく、言葉が通じることを目指して地道に個別的具体的に一人一人ぶつかっていくしかないのだ。
それを忘れてはいけないのだ。
先日、幸福実現党のチラシを配っている方がいたので、話しかけてみた。
「宗教的観点から見たとき、現代日本が抱える最大の問題とはどのようなものだと思いますか?」
どうやら、宗教団体が母体となっていることをとやかく言われるのだと思われたみたいで、「教義を普及させることが目的ではなくて、政策を実施することが目的です。あと、マインドコントロールされてこのようなことをしているわけではなくて、わたしはこの政策はよいなと思ったからこのようなことをしています。」と応ぜられた。
日本では宗教といえばなにやら胡散臭いイメージが付きまとっているけれど、その弊害はこういったところに出てくる。「特定の宗教団体に属しているけど、普通の人なんだよ。」ということをわざわざ説明しなければならない。このようなコミュニケーションコストの高さが、結局その人たちを疎外しているのだと思うことがある。
というわけで、そのような旨のことを伝えて、「教義の普及を政策とするのは確かに政教分離の原則に反するからこれを除くにしても、実務者の信条が宗教的であることは大切なことだと考えています。ところで、政策が打ち出せるということは、日本社会に対する問題点を理解しているということであり、問題点の理解とはある観点によって理解されるものです。幸福実現党の特色は支持基盤が宗教団体であるところだと思うので、何がしか日本社会の問題を宗教的観点から把握しているところもあろうかと思います。きっと一般的な観点からは見えないものもあると思うのですが、どうでしょうか。」と聞いてみた。私は単純に何を大切なこととして考えているのかを聞いて見たかっただけなのだ。
これがなかなか意図通り伝わらなかった。そこで色々話をしてみると、「親が幸福の科学に入っていたから、気が付いたら幸福の科学に属していた第二世なんです。大声では言えないんですけど、思春期の時にはどうでもいいやと醒めたんです。それでも、まあいいところもあるのでこのようなことしています。」とのこと。
これは一つの答えだと思った。政党と政策については具体的に議論できるようなレベルまではわからなかったが、少なくともこの方に対しては好感を抱いた。
ぶつかってみないことには何も確たる見解は得られない。殊更、宗教に対しては、イメージや風評で個人を決め付けてかかるのが常識的なところもあろうかと思うが、それこそ一種のカルト宗教なのではないかと思うことがある。