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2008/11/25 表象因果の欠陥

脳産意識説が科学学会と世間を賑わせて久しい。「物質である脳が意識を生み出す」という「科学的信仰」に諸学問が帰依してゆく様をみるのは居心地が悪い。今日も「なごみの研究」に関するパネル展示を見ていると、神経生理学とクオリア(感覚質)の二段仕立てによる物質一元的還元論への信仰に基づいて展示されているのを確認してしまい、これは科学者集団にとっては根が深い問題なのだなぁ、と再認識させられた。

脳産意識説の意識の範囲はわれわれの生の体験の総体である。つまり知覚、想覚、運動、思惟の我々の生の現実の一切が脳によって構成されたものだと考える。要は脳内に世界の現象の全てがある。空、山、都市、人、食事、日常会話などなどの全てである。もちろんその中には経済もある。だから、神経経済学という領域まで勃興する次第である。諸学問は意識を成立させる脳、つまり諸学問の研究対象を現象させるところの脳、を解明する大脳生理学の知見を最終的審級として据え置き、客観性という科学性の恩恵に肖ろうとする。

だが、それはいささか脆弱な基盤と言わざるを得ない。もし脳産意識説が崩落したらどうするつもりなのだろう?そして、この脳産意識説はいとも簡単に論理的に誤謬を指摘できるのである。

例えば次のように、懐疑論的な観点からつついてみることができる。

脳産意識説に従うとする。外界は物質位相であるため、意識内現象は物質位相ではない。ところで脳科学の対象とする脳はどこまでも意識内の脳であり、いわば物質的な意識にすぎない。とすると物質ではない脳を調べることが、物質たる外界脳の知見になるのか?
少なくとも意識内の脳は意識を生めない。生むとしたら、「脳という意識が意識を生む、その意識の中の脳という意識が意識を生む、(…以下同文)」という無限遡行に至るだけである。この無限遡行を認めない場合、意識内脳と外界脳はそのまま対応できない。意識内の脳は意識を生めないからである。結果、どんなに大脳生理学が発展して、脳に関する知見を得ようとも、物質である脳から意識が生まれるという知見は原理的に取り出せない。
さて、それにも関わらず何故そもそも「脳で意識が生まれる」と言っているのか?それは科学の衣を纏った信仰なのではないか?

さらに、知覚因果説の誤謬を指摘する方法もある。これは非常に単純明快である。

「外界から身体に五感情報が入る。神経繊維に電気パルスが走り、脳に情報が到達。脳でいろいろ処理を受けて、脳(のどこか)で外界を映しつつ主観的に意識を構成する(知覚因果)。」
さて、外界を意識で構成するには、もともと外界がわかっていたのでなければならない。しかし、もともと外界がわかっていたのであれば、いまさら脳内に外界を映す必要はない。よって脳で意識が生じるのは誤謬。

このようにして脳産意識説はあえなく疑問視される。これに伴い、脳産意識説に依存している学問は意味の供給源を失い危機に陥るだろう。(だからわたしは、わかったようにクオリアとか言っている学問には慎重な態度をとる。)

脳産意識説の何が問題だったのだろう?「脳で意識が生じる。」確かにこれが問題なのだが、では「何故脳で意識が生じる」という、まことしやかなプロセスが描けたのだろうか?これも実に単純である。「身体の内部過程は身体の外部様態の表象である」と考えたからである。どういうことか?
神経科学の教科書で必ずといっていいほど出てくるのは視覚処理のプロセスであるのでこれを用いる。

「外界物質(例えば木)からの反射光が眼球に到達する。水晶体によって光は屈折し網膜に外界物質(木)の倒立実像が形成される。この後、錐体細胞や桿体細胞が活性化し、視神経に電気パルスが走り脳に到達。脳の視覚野で外界物質(木)の色、形、大きさなどの処理が行われる。」
さて、もともと身体内部のプロセスとして観察されるのはおそらく神経細胞の活動電位や血流量の変化のはずである。観察されるのはそれだけであって、決してここでは神経細胞中での外界物質の様態(例えば木の形、大きさ)を観察しているわけではない。それにも関わらず上記のような過程ことを言っている以上、そこには一つの飛躍があるわけで、その飛躍というのは「身体内部の神経細胞の生理過程を外界物質の様態を貼り付けて解釈する。」というものなのである。

もっとも、身体内部の生理過程を外界物質の様態を貼り付けて解釈しているだけならまだ良い。それは解釈上の便宜だからである。しかし、解釈上の便宜であることが忘却され、「身体内部の生理過程は外界物質の様態を表している」という「事実」として一人歩きを始めると大問題である。生理学的過程に乗った外界表象は因果過程によって脳で意識として構成される、という具合に先の脳産意識説に直結するのは明白だからである。

このように、身体内部と身体外部を表象媒介で同一視する考えを「認知科学の表象主義」とわたしは呼ぶ。また、そこから脳産意識へ至るプロセスを「表象因果」と定義する。そしてこれらは脳産意識の誤謬を導くために疑問符をつけざるを得ないだろう。

さて、「認知科学の表象主義」では、身体内部過程は身体外部の伝言役に過ぎないのだが、わたしは身体内部に外部の意味を持ち込む必要はない(あったとしても便宜的なもの)と考えている。というのも、身体外部も身体内部も、世界内部で現象している点では同じだからである。腹をかっさばくと、自分の身体内部ですら身体外部の物と同様の対象として現れるはずである。その意味では身体内部も身体外部も同一位相に存在している世界の内部存在者なのである。
世界において外部は外部、内部は内部で各々の意味をもって活動しているのであり、かつ、身体外部と身体内部の活動は、世界において同一位相で行われているために、双方意味の持ち込みなしに相関する、とわたしは考えている。(「身体内外平行説」と言えばよいだろうか。平行説とは言え、ライプニッツのような実体同士の平行説ではなく、あくまで世界において、という包括的な場所による身体内外の相即性を前提とした平行説である。なお、身体内外の因果関係は否定。)


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