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2009/06/07 草食系論考

久しぶりに一般的な書店を回って書籍を物色する。

やたらに目に付くようになったなぁ、という単語が「草食系男子」。
いや、たぶん相当前から目に付くところにあったのだろう。大学と家を行き来するしかしていなかった生活によるブランクが大きすぎた故か。

「草食系男子」。割と女性の視点から描かれた書籍が多く、当の「草食系男子」から描かれた書籍は少ないような印象を受ける。
確かに、「草食系」を自称して出版するにしても、「草食系」を自称する草食系男子は真に草食系であろうか、ということになりかねないだろう。
(とはいえ、出版されていないものがないわけではない。森岡正博さんとか、昔の著作を知っている人からすれば、草食系と言われて納得できるだろう。)

「草食系男子」の是非はともあれ、男性は「草食系男子」のように、女性から何がしか言及を受けているけれども、逆に、男性から女性に何がしかの言及をして一般化した概念は最近あるのだろうか。
私は寡聞にして聞かないのだけれども、最近女性に何がしかの一般概念が付与される場合、それは当の女性によって付与されているような印象がある。
アラフォーにせよ婚活にせよ、おそらく興味があるのは女性自身であって、女性の女性による女性のための自己啓発語だと思う。
要は、男性を定義するのは女性であり、女性を定義するのもまた女性、というような構造に次第に推移している。

何故、そのようになってきたのだろう。
男性は女性に興味がないのだろうか。いや、おそらく興味があるはずである。
試みに、「草食系男子」なる存在者に、「恋愛アドベンチャーゲームをやったことがあるか」ということを聞いて見るといいだろう。
「無いよ。」と言いつつも、やったことがあるか、それでなくとも興味を持ったことがあるはずである。
女性には興味があるのである。ただし単純に理想の投射先が実際の女性に向わなくなったのである。
では何故、理想の投射先が実際の女性に向わなくなったのか。

単純な答えとしては、実際の女性がその理想を受け止めるには限界があるからだろう。例えばCLNNADの古川渚のような神話的なまでの母性性を、実際の女性に求めるのは実際的ではない。求めれば間違いなくその関係は破綻するであろう。
だが、これは男性が実際の女性の気持ちを考慮したが故のものであろうか。おそらく否である。

他者に理想を投射する場合、それは単に他者を理想によって規定するのみならず、その他者に関係するものとして反照的に自己の意味が規定される、という側面があることを看過してはならない。
とすると、理想の投射先が実際の女性に向わなくなったのは、本質的には、男性としての自己を過剰に希求することと裏表の関係にある。
つまりは、過剰に男性としての理想像を希求するあまり、過剰に女性としての理想像が必要だっただけである。実際の女性では瓦解するであろう神話的なマッチョイズムなるが故に、神話的な女性を必要としただけなのである。
先に男性は女性には興味があるとは書いたが、おそらく裏の感情としては、男性は女性以上に男性に興味があるのだと思う。従って「草食系男子」なる存在者は、男らしいと言われれば素直に喜ぶのではないかとも思う。

実はここにおいて、女性を定義するのは男性であり、男性を定義するのは男性である、ということが成立している。これは、女性の側における、男性を定義するのは女性であり、女性を定義するのもまた女性、とパラレルの関係にある。
つまり、理想の投射先の位相をずらす事で、男性は男性で自閉し、女性は女性で自閉する、という妙な棲み分けが成立している。

さて、「何故、男性を定義するのは女性であり、女性を定義するのもまた女性というような構造に推移してきたのか?」という問いに対する答えは、おそらく「先に男性が男性で自閉したから。」だと思われる。
何故か?
思うに男性の方が先にアイデンティティクライシスに遭遇したからである。

かつて男性は、女性を(良かれ悪しかれ)守ることで、かえって当の男性としての存在意義が守られていたところがあるはずである。
しかし、女性解放運動やフェミニズム運動によって、女性が守られる存在であるという神話が解体されてゆくに従って、その意義も解体されゆく途を辿ったことであろう。
私はここにこそ問題があると考えているのだが、この神話が解体された後、女性と男性が如何なる社会的存在としてやっていくことになるのかが、十分検討されて来なかったのだと思っている。

現在、男女共同参画社会、ということが言われてはいるけれども、これは正確には男女共同参画職場、を目指すものである。女性の社会進出というのは、女性の職場進出と同義である。
ここでは、女性はかつての男性の特権的なる方向を目指し、また、男性もかつての男性の特権的なる方向を目指すことが是とされるのである。

ところで、よくよく考えて見ると、男性がかつての女性の特権的なる方向を目指すことは、女性がかつての男性の特権的なる方向を目指すことほどに、促進されてはこなかったはずである。
女性の職場進出に対し、例えば男性の家庭進出などの代替措置はあまり積極化されたようには思われないのである。男性はやはり職場にて働くもの、という観念は根強いだろう。

これは、著しく非対称的である。男性はその男性的特権性の基盤を失ってなお、男性であれと言われる。とすると、かつての神話的女性を造形することで神話的男性性を擬制的にでも恢復しようとする方向へ向かってゆくのは、ごく自然であるように思われてくる。
かくして男性は男性で自閉する。ただし、それは神話的女性との関係においてであり、実際の女性(という彼らにとってある種「男性」)との関係におけるものではない。

男性が男性で自閉することにより、実際の女性は男性から理想という意味を良かれ悪しかれ供給されにくくなる。かくして、主体的にその意味を供給するために、男性を定義することを介して自らを反照的に定義することになろう。
そこで立ち上がってくる疑問は、なぜ女性は男性のように神話的な男性を造形する方向には向わず、実際の男性の方へ向ったのかである。それは女性に意見を求めたいところであるが、思うに、家庭の方へ向いたいか、あるいは、「男性」としてやっていくのに若干限界を感じるところがあるからではないかと思う。
そうすると、実際上の効力を有する実際の男性との関係でなければ話にならない。そこで、実際の男性を定義して、その関係において女性自身を規定していかざるを得なくなってきているのではないかと思われる。(もはや守る自信を失った)男性に守ってもらうために。(もしくは、利用するために。)

しばらくこの状況は継続するだろう。男性は神話に萌え続け、女性は男性に対して新たな造語を捻出し続けるだろう。


…ともあれ、「草食系男子」なる存在者は、本質的には超マッチョイズムの持ち主である可能性が高い。女性が徹底的に女性であることをどこか希求していると思う。実際の女性との関係では絶対表に出さないだろうけれど。

このことに対する是非は私にはわからない。上手くいっているのだろうか、それとも何がしか問題が表面化しているのだろうか。そこに、我々が考えてゆくべき「男女共同参画社会」の方向性に関する洞察があるように思う。

意見あらば是非に。


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