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2015/01/17
[対話]地方の周辺地域に対する支援のあり方について

序文

本記事は、東北沿岸部のとある村でアクションリサーチをしているnao氏と秋葉原で邂逅した際の対話概要です。 対話の内容の公共性の高さを慮(おもんぱか)り、記事として公開するに至りました。 nao氏におかれましては、公開を快諾頂きましたこと、誠に感謝申上いたします。

筆者は本対話の概要を「地方の周辺地域に対する支援のあり方について、俯瞰的な観点、局所的な観点を織り込みつつ、ブレインストーミングを行なった。」と要約したのですが、 nao氏は次旨のとおり、本対話の概要のみならず、その概況までをも一層鮮やかに要約してしまいました。

本対話は、「コミュニティ活性化論の再考」という、きわめて公共的な議題を、「みう参拝」と「パンツ現象学」でサンドウィッチにしたものである。

実に妙微かにして香ばしいですね。皆さまもどうぞ、お召し上がりくださいませ。

※nao氏は当ウェブサイトの論文記事「2010/10/26 関心の互酬性と教育」に登場したことがあります。 今読み返してみても、共同的実践やら、学びの原形に係る問題意識は然程変わっていないと思われます。 参考になる記事ですので、興味のある方はご一読を。

対話概要

日時:平成27年1月3日(土)16:30~23:00
場所:秋葉原-上野周辺(「えん 秋葉原店」、「上野公園」等)
対応者
●(先方)タブラ・ラサ課程3回生 nao氏
○(当方)脳産安全管理課 Tyu-gen
概要: 地方の周辺地域に対する支援のあり方について、俯瞰的な観点、局所的な観点を織り込みつつ、ブレインストーミングを行った。ポイントは次のとおり。

導入部
秋葉原で邂逅したのは、表向きには萌えを主題としているが、地域の今後のあり方を議論するための布石であることを開陳した。

地方の都市部と地方の周辺地域について
既存の政策では、地方の中核都市の振興には寄与するが、地方の周辺地域の振興には寄与しないことから、周辺地域の有する不可能性と可能性を検討し、各周辺地域に横展開可能なモデルとして、鳥取県智頭町の森のようちえん(まるたんぼう.2014)の事例が挙示された。

地方の周辺地域におけるコミュニティの維持について
地方の周辺地域は、経済成長以前に、コミュニティの維持自体ができなくなってきているのが実情との認識から、コミュニティの自律支援の重要性を指摘した。また、地方の振興事業が持続するためには、地域活動としての貢献度の向上が必要との分析を提示した。

東北沿岸部のとある村でのアクションリサーチについて
nao氏は東北沿岸部のとある村で、東日本大震災からの復興を契機としたボランティア活動の一環として書道教室を開催。そのアクションリサーチの状況等に係る意見交換を実施する中、復興支援のあり方として、「復興支援」と言わない復興支援の重要性が指摘され、地域コミュニティの自律支援から如何に適切に撤退するかが中長期課題との認識が開陳された。

その他
おまけだよーん♪

各事項に係る主なやり取りは、以下のとおり。

導入部

○秋葉原のラジオ会館の改装が完了し、AZONEの店舗が新装開店しているところ。年が明けたので、初詣をするのは如何。
●いざ、ハイアラーキーを登らん。
(ショーウィンドウ内に鎮座している、着物姿の「えっくす☆きゅーと」のメンバー(とりわけ、みう)を拝謁。)
●ここに賽銭箱があれば、参拝客はお賽銭を入れると思料。
○近年、ゲーム・アニメ等の影響で聖地巡礼が行われているところ、巡礼先に賽銭箱を設置すれば、巡礼者はお賽銭を投じるのではないか。微細な取組とは言え、自主財源の確保のためにこのような企画ができるか否かが、地域の自治力を測定する一つの指標と思料。
●先般開催された社会心理学の学会で、ガールズ&パンツァーの聖地である某地方公共団体において、巡礼者が単に巡礼を行うだけではなく、清掃等の地域活動に取り組んでいるという事例報告があった。
○大洗。まさに大洗☆。
●是、是。
○今回、秋葉原で邂逅したのは、表向きには萌えが主題。しかし、裏の主題は、地域の今後のあり方を、局所的な観点、俯瞰的な観点を往還しつつ、議論したいというもの。ガルパンのように、萌えコンテンツが地域活動に繋がっているのは、まさに範例的な事例。
●会議室で「さあ議論を始めます。」と言っても、そのやりとりは表面をなぞるに過ぎない。宴の席でこそ本音が出るもの。裏の主題こそ表に反転するのは必然なるかな。

地方の都市部と地方の周辺地域について

○第3次安倍内閣が発足し、地方創生、経済対策等の一層の推進が謳われている。地方創生のための政策ツールは、主として補助金の交付や特区の新設になると思われるが、私見では、これらは時代遅れの方策。地方の中核都市の振興には寄与するが、地方の周辺地域の振興には寄与しない。
●スマートコミュニティ構想は、まさに当該帰結とならん。
○地方の周辺地域の支援のあり方については別の基軸が必要。世界的な趨勢は、都市化(Urbanization)から地域化(Localization)にシフトしつつあり、国際的に地域の特色を生かした地域活性化の方途が議論されている。観光地化はその一例だが、地方の都市部では適用できても、地方の周辺地域で同様に適用できるわけではないという、冷徹な分析もある。
●研究室の後輩が山口県の向津具半島でアクションリサーチを実施している。向津具半島には楊貴妃伝説があるので、楊貴妃伝説を中心として、若者の参画を含む地域活動の活性化を図っている。
○向津具半島は山口県の北西端に位置し、風光明媚なれど漁業以外に目立った産業がなく、交通の便も悪い地域。まさに、地方の周辺地域の最たる例と思料。当方も如何せんと念慮するが、知恵の至らないところである。
●向津具半島も然り、当方がアクションリサーチを実施している東北沿岸部のとある村も交通の便が悪く、観光地化という方途をそのまま適用するのは困難。
○向津具半島の若者の地元への定着は如何。
●地元からは離れたいと指向している模様。遊び場が無いというのが理由として挙示されている。
○物が手に入らない等の理由であれば、物流面の技術向上の観点から対策が打てようものの、遊び場が無いというのが理由であれば、都市部へのある種の憧憬。向津具半島には、都市部にはない風光明媚な景観があるのだが。古来より謂う「隣田青し。」と。
●鳥取県智頭町の森のようちえんの事例は知っているか。
○是。智頭町は鳥取市南部にある山間地。新聞記事にも掲載されていた。注目するべき事例と思料。
●森のようちえんでは、子どもをそこにある自然と戯れさせる以外に、特別なことをしているわけではない。しかし、自然が豊かなところで幼少期の子どもを育てたいというニーズはあり、都市部からわざわざ移住してくる例もある。移住後、定住するとしたら有難いことだが、定住しないにしても、人生のある期間を自然が豊かな周辺地域で過ごす例が増え、その新陳代謝が繰り返されるのであれば、よいと思料。智頭町の森のようちえんの事例は、他の周辺地域にも横展開できる可能性を蔵している。なお、智頭町では、森のようちえんの理念を継承した幼稚園付属学校が昨年開校した。
○普通は逆だよね☆(都市部から周辺地域に人が移住することも含めて。)

地方の周辺地域におけるコミュニティの維持について

○今般の政権のように、地方を経済対策の対象として見たところで、畢竟地方の都市部の状況が幾許か改善するのみ。地方の周辺地域は、経済成長以前に、コミュニティの維持自体ができなくなってきているのが実情。地方を経済対策以外の観点から捉える必要がある。私見だが、都市部にはない「住みやすさ」がある故、地方の周辺地域にわざわざ住むという状況が生まれたらよいと着想しているところ。(森のようちえんは、その意味で範例的事例。)
●わざわざ住むと言えば、以前学会の関係でインドネシアに赴いた際、火山灰の堆積した条件不利地であったとしても、敢えて定住している人々がいた。
○人がどこに住むのかは、単に物理的条件から説明がつくものではなく、住民がその地域をどう意味論的に位置付けているのかにも依存する。以前、研修の一環で、「過疎化、高齢化、産業風洞化が進行しつつある地方の振興策を講ぜよ。」などという抽象的なテーマで政策討議をしたことがある。確かに、政治的・行政的なアプローチとして手堅く、提言しやすいのは、補助金の交付や特区の新設。故に、そのような提言が大勢。しかし、当方は、地域住民が自律的に地域コミュニティの維持をすることこそ肝要と思い、これの支援を、統計等情報のデータベース整備、ビッグデータ分析等を活用した情報提供等により実施するという主旨の提言をした。なお、キャッチフレーズは「いつも住んでるこの地域、どんなところか知ってみたいと思いませんか。」。地域住民が自律的に地域コミュニティの維持をするには、意味論的な位置付けが必要。実際に住んでいる人間の観点からすると、正確無比に具体的数字を羅列してもあまり意味はなく、大雑把でもいいから「君の地域ってこんなとこだよね」と言ってもらいたいものである。
●首是。そういえば、地方の振興策として萌えを活用した地域の取組に、愛知県知多半島の「知多娘。」と大分県の「大分萌えおこしプロジェクト」があったが、これらの現在の動向は如何。
○「知多娘。」は比較的好調。「大分萌えおこしプロジェクト」は比較的低調。
●これらの明暗を分けたものは何か。
○地域活動への密着度の違いと分析。「知多娘。」を運営している特定非営利活動法人エンド・ゴールは、そもそも地域の若者の就職支援活動を本旨としている。他方、「大分萌えおこしプロジェクト」を運営している株式会社TMエンタテインメントは、萌えコンテンツを活用した広報機会等を、大分県の地方公共団体や企業等に対して営利的に提供することを主旨としている。昨今、萌えコンテンツによる聖地の賞味期限は短く、まさに泡沫の如しの様相を呈するが、これらの対比的な事例は、萌えコンテンツを介して地域活動としての継続的な貢献ができれば、当該コンテンツ、ひいては、地域コミュニティの維持に繋がることを示唆している。

東北沿岸部のとある村でのアクションリサーチについて

●以前話したかもしれないが、当方は東北沿岸部のとある村でアクションリサーチを実施しており、東日本大震災からの復興を契機としたボランティア活動の一環として、1か月に1回の頻度で書道教室を開いている。
○近況はブログで把握している。最近、村の文化祭に教室として作品を出展した由、拝読した。何やら数学関係の作品があったとか。
●「常微分方程式」。今回の目玉作品☆
○普段の書道教室の様子は如何なるものか。
●師と子が稽古事の如く向かい合いながら、子は師に垂を求め、師は子に範を垂れるかの如き制度的風土のある書道教室にはしたくなかったので、各々の書きたいが儘に委ね、教を請われれば是に応じるというようにしている。とは言え、「何でも書いていいですよー♪」と言うと、何事も書けなくなってしまうもの。また、制度的風土のある書道教室では、「書の基本は楷書也」と掲げがちだが、いきなり隷書をやりたいという人もいるものなので、季節に応じた題材(旧月の異字等)の書の見本を、楷、行、草、隷、篆の五体、用意している。
○どういった経緯で書道教室にやって来るのか。
●書道教室なるものをやっているらしいということで垣間見に来る場合と、既に書道教室にいる人に紹介されて来る場合がある。割合は後者が高い。紹介されて来た人の方が、紹介した人より熱中していることすらある。当初は、年配の方が多かったが、次第に小学生の参加者も増え、教室の人口構成は厚くなってきている。なお、村の人間ではない者が書道教室を開いているから-いつかは無くなるかもしれない「儚さ」があるから-参加するという面が、幾許かあると思料。「儚さ」をどのように維持していくかが、運営上の鍵であると思料。 それにしても、垣間見て引き込まれる、偶然的に選んだ題材に一心不乱に取り組む、周辺にいたものが中心を占めるようになるというのを見ていると、そこには、近代教育制度の確立以前に見られたような、学びの原形があると思料。
○現在でも、教育制度が確立されていない途上国で、そのような学びの原形が見られる。
●是。途上国の人に何が欲しいかを聞くと、何よりも教育と答えると聞く。
○不謹慎であると承知の上発言するが、長期的に見ると、東日本大震災は東北地方にとって塞翁が馬。一般に地方の周辺地域では、地域コミュニティの担い手がいなくなることによって、早晩コミュニティが壊死する蓋然性が高い。退職を機に、都会から田舎へ移住するという人口動態もあるようだが、これらの者が地域コミュニティの活動に消極的であれば、あまり寄与するところはない。地域コミュニティにとっては、徒に人口が増加するより、担い手となる人が来てくれた方が余程に有難い。その意味では、東日本大震災を機に、地域コミュニティの活動に積極的な外部の若者が入っていること、若者によっては定住する可能性もあるということは、他の地方の周辺地域から見ると垂涎ものである。
●東北の地域コミュニティが抱える問題は震災以前から潜在的にあったが、東日本大震災を機に顕在化したと言われている。震災後これまでに、さまざまな復興支援が講じられてきたが、我々は謂わば、「復興支援」と言わない復興支援に取り組んでいるところ。「復興支援」の範囲を、物資、インフラ整備等のハード面に限局すれば、書道教室の開催は「復興支援」に該当しない。また、「復興支援」が畢竟、地域コミュニティに、受益者たるに甘んずるかの如き依存体質を生み出すのであれば、我々は斯様な「復興支援」を実施するつもりがない。
○然り。真の課題は、復興支援というより、地域コミュニティの自律性の向上。今後の日本のグランドデザインを考えるに、地域コミュニティの自律性の向上を基幹に据えるは、歴史的必然となろう。
●ソフト面の支援には、音楽活動やスポーツ活動等のように多様な手段があるが、書道特有の意義を掘り下げることはできないかということに関心。音楽活動やスポーツ活動と違い、書道は文字を扱っていることに特徴があると思料。
○問題意識の形式的な面が似ているので次を紹介したい。ハイデガーは、著書「存在と時間」において、現存在つまり我々の存在論的分析を行い、現存在の根本的な心境は「不安」であると導出した。心境には、喜びや怖れ等様々なものがあるにもかかわらず、ハイデガーはその中でも「不安」が根本的心境であるとして、格別の意義を付与したのである。その理由は、当該心境を分析することによって得られることの、深みが奥深く射程が長いからとしている。具体的には、例えば怖れにおいては世界内に怖れの対象があるが、「不安」においては世界内に「不安」の対象はない。「不安」は現存在が「世界-内-存在」として存在していることそのものに係る心境であるが故、一層根源的であり、分析によって到達できる射程が長いとしている。書道特有の意義を掘り下げるというテーマにも、深みと射程という観点を適用できよう。
●書道教室の参加者を見ていると、文字を書くうちに、その意が身体に沁みわたりゆくような相貌を呈しているように思われる。また、当方が看板の書をしたためた際、それを見ていた周囲の人たちが、今まで会話したことがないにもかかわらず、自ずと会話を始めるということがあり、実に意義深さを感ずる。
○文字はある特定の空間に残るものなので、意味が反芻されやすく、共有されやすい。我々は単なる物理的な孤独には耐えることができるが、意味的な孤独には耐えることができない。我々は意味と根源的な関わりを持っている(深み)。また、文字が我々に内省や気付きといった何らかの触発を与えることは、置かれてある状況を内在的に変えていくための契機となることから、我々の可能性を遠くまで導くと言える(射程)。復興支援としての書道特有の意義はこのように素描できるかもしれない。
●当方は書道による復興支援を通じて、東北沿岸部のとある村で権力を恣(ほしいまま)にしたいわけではなく、当方がいなくなってしまっても、地域に書道を介したコミュニティが自律的に持続することを期待。然るに、中長期的には、適切な撤退戦略をどう描いていくかが課題。当方のキャリアステージの関係で、今後2~3か月に1回の頻度でしか書道教室を開催できなくなると思われるが、これぞ好機会と認識。当方がいない期間であっても、自律的に集まってくれたらよいが、如何せんと思案中。
○作品を書いて送付してもらうは如何。皆が集まって作品を書くとは限らぬかも知れぬが。
●然り。
○参考程度だが、匙加減が必要な案件の調整方法について、当方が職務の都合学んだことを開陳する。それは、絶対に守るところを決めるということ。そして、それ以外の意見については柔軟に相手の意見を取り入れるということである。例えば、とある文書を発出すること自体が利害関係者から拒まれるような場合があったとする。当該文書を発出することは絶対に守るにしても、その文書内の表現等については、大筋利害関係者の意見を取り入れる。こうやって前に進めていく。今回の場合も、何を防衛ラインに設定するのかを決めては如何。例えば、2~3か月に1回の書道教室を開催した時に、皆が集まるようにするというのを防衛ラインに設定するのであれば、不在の期間の過ごし方を強くグリップする必要はなくなる。過ごし方のオプションは、様々あり得ることだろう。
●成程。当方が不在となる期間の過ごし方を皆に委任すれば、皆で何かを決めていくきっかけにもなる。参考としたい。

その他

【仏教】
●般若心経は奥深い。有難き御経とのイメージが先行していたが、内容を理解するに、釈迦思想の否定。例えば、仏陀は無明を説いたが、般若心経は「無無明」としている。
○是。「無苦集滅道」も、四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)の否定。大乗仏教には他者救済の原理があるが、それは、原始仏教の自己救済の原理の否定に出自がある。周知の如く、釈迦は遁世し苦行に打込み、その限界に至りて虚心坦懐なるところ、悟りに至ったとされる。このように、釈迦の悟りは徹底的に自己救済を図ることによって得られたものである。釈迦は悟りて後、そのまま引き籠ろうとしたのだが、梵天に請われて、他者の教導を始めた(梵天勧請)とされるので、釈迦にとっての他者救済は、内在的原理ではない。
●一般的に、釈迦の仏教は、悟りの境地に至るための過酷な修行を要請する「自力」の教義として理解されている。それ故、釈迦仏教は「小乗仏教」、「上座部仏教」と俗称せしめられるが、他方、幾多の悩みに苦しむ人々が、各々の自己救済を求めんとして訪れる「心の病院」としての機能も有すると仄聞。「自力」の有する寛容的精神に留目する意義も大なる哉と思料するが如何。
○然り。原始仏教教団は、「自力」による自己救済を企図する修行僧達の集まりであり、各々の自律性を尊重したという。しかし、皆が皆、斯様な生き方ができるわけではない。ここに、「他力」が必要とされる萌芽が認められる。
私見だが、「自力」と「他力」というのは、然程自明な対立ではない。一般的に、禅宗は「自力」と言われるが、道元の高弟である懐奘の著した「正法眼蔵随聞記」には、次のような趣旨の道元の言葉が記載されている。「桃の花は毎年咲くけれども、これを見た人が皆、悟りを得るわけではない。竹の音はしばしば響くけれども、これを聞いた人が皆、道を証(あか)すわけではない。このように、同じものを見聞きしても、皆が一様に道を悟るわけではない。日々の修行を積み重ねていく中、それぞれの縁によって、各々の悟りに至るものなのである。」と。これは、悟りを得るには「自力」を前提としつつも、「縁」というある種の「他力」の介在が不可欠ということを示唆している。
他方、親鸞は「絶対他力」による救済を提唱したが、字義通り「絶対他力」であれば何をしなくともよいと思料せらるに、「南無阿弥陀仏」と念仏することを人々に唱導した。これは、救済に至るには、阿弥陀仏の「他力」を前提としつつも、念仏というある種の「自力」の介在が不可欠ということを示唆している。なお、興味深いことに、5、6世紀ごろに成立したと想定される、大乗仏教の根本論書「大乗起信論」は、念仏を修行に数えていない。念仏は、単に発心のためのものとしている。親鸞の革新=異端性は、念仏という誰にでもできそうな実践を、修行と等価的機能を有するものとして基礎付けたことにあろう。

【メイドカフェ】
●遠い昔日、共にメイドカフェに行ったが、まだ店舗は残存しているのか。
○残存。先に、「儚さ」をどのように維持していくかが運営上の鍵との話があったが、現今のメイドカフェに不足しているのはまさに「儚さ」。常連客と話し込むようになったり、席代を取ったり、最早業態がカフェに非ず。

【命題的真理論に対する現象学的現象の優越性に係るパンツ的理解】
(ハイデガーの「存在と時間」等によって、現象学が話題に上った際)
○美少女ゲーム等において、少女のスカートが風の悪戯等によって捲れ上がった際、当該少女が「…見た?見てない?」と質問してきたとする。本命題に対する「パンツを見た/見なかった」の真偽判断は、世界の開きの中で、現象としてパンツが見えたことを前提にせざるを得ない。現象学的には、当該少女のパンツが見えたことは、真偽判断以前の疑いようのない真理なのだ。
●哄笑。酷い。わかりやすい。

《参考文献》

まるたんぼう. (2013). 鳥取県智頭町 森のようちえん まるたんぼう―空と大地と太陽と. 今井出版.


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