本ウェブサイトでたびたび言及(「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」―違憲/合憲解釈の物議を眺めて―等)してきた「平和安全法制」法案は、平成27年9月19日に、参議院本会議で採決され、可決されました。
参議院特別委員会の理事懇談会の開催から参議院本会議での可決に至るまで、与野党間で「あらゆる手段」による攻防がありました。 また、国会前が代表的な事例であったように、全国各地で、本法案に関する(主に法案反対の観点からの)デモがありました。 さらに、世の中の識者たちも、様々なメディアで各々の見解を披歴し、少なからず世論(せろん)の形成に寄与しようと試みていました。
政治案件で、ここまで人々の関心が高まり、言説が飛び交うことは、近年稀なこと思います。 しかし、法案の採決そのものは、案の定、国会のルールに則り、粛々と進められたという印象を私は抱いています。
私が本法案の採決の様子を眺めて抱いた感想は、「意思決定のやり方が、非常にまずかったね。」というものです。 また、私がこのような感想の後に抱いた希望は、「私たち社会的な意思決定の仕組みである民主制をよりよいものにしたいですね。」というものです。 以下、それぞれを詳しく記述します。
1. 「意思決定のやり方が、非常にまずかったね。」ということについて
2. 「私たち社会的な意思決定の仕組みである民主制をよりよいものにしたいですね。」について
2.2. 各委員会での審議に数の力で押し切れないような仕組みを組み込んではどうだろうか。
法案に賛成した与党議員は、参議院特別委員会の採決時に見られたように、誰が何に対して賛成/反対したのかわからない、僻目にも傍ら痛さを呼び起こすような騒乱状況で法案を採決したことは「強行採決」なのではないだろうかという批判に対して、おおむね次のような自己弁護を図ります。
「国会は言論の府である。我々は言論の府として当然、地方公聴会の報告や、締めくくり質疑をしようと考えていた。しかし、野党はバリケードを築くなど物理的な手段で言論を封鎖しようとした。ゆえに、言論の府の健全な運営の観点から、(賛成多数という予断のもと)採決に踏み切った。この法案は国民の平和と安全を守るために必要である。それゆえ、法案の内容は正しいと考えている。今後、その正しさを理解してもらえるよう、国民に丁寧に説明してまいりたい。」
もうすこし、私なりにこの自己弁護をかみ砕くと、次のようになります。
「騒乱の原因をつくったので、悪いのは野党。法案の正しさは、議会での賛成の実数によって決まるのではない。法案は、国民の平和と安全のために必要だから、正しいものであり、可決されてしかるべきである。法案は正しいので、正しさを理解しない国民への説得は後回しでかまわない。」
読者の皆様が、何となくこの言説から傲慢さを感じ取り、馬鹿にされたような気がしたなら、私の意図は達成されたことになります。
私の哲学的な理解によると、本法案について与党が暗黙のうちに与(くみ)している政治思想は、「民主政治」ではなく「哲人政治」というものです。手短に言うと、「民主政治」というのは、意見の異なる人々をあつめて、議論し、みんなで意思決定をしようとする政治体制のことです。「哲人政治」というのは、真理を探究できる人(たち)が、真理を探求し、真理の威光のもと真偽を判定して、意思決定をしようとする政治体制のことです。
補足すると、「哲人政治」は古代ギリシャの哲学者であるプラトンが提唱した政治思想です。プラトンは、彼の師匠である思想家ソクラテスが、アテナイの民主政治によって、言われなく死刑に処せられたことに、強い憤りを感じます。この事件はプラトンの哲学や政治思想の原風景です。彼は、「政治は正しさによってなされるべきであるが、民衆は単なる衆愚となり、しばしば正しさを理解しない。正しさを理解できるのは真理を探究できる哲学者の他はなく、哲学者が政治をするべきである。」という理想を燃やします。このように「哲人政治」は「民主政治」に対するプラトンの怨嗟の情にその出自があります。プラトンは生粋の反民主主義者です。(これに対して、あくまでアテナイの民主政治の意思決定に従ったソクラテスは、生粋の民主主義者です。)
これを補助線にしてみると、「哲人政治」的な振る舞いを見せる与党は、反「民主政治」的な振る舞いを見せていると言えます。「議会制民主主義」という仕組みのもと意思決定をするのが、私たちの国の政治制度です。なので、与党が反「民主政治」的な振る舞いをしつつ、本法案を可決し、正当化を図ろうとしているのは、法案の内容の正しさ以前の問題として、「意思決定のやり方が、非常にまずかったね。」という感想を、私は抱いています。
野党を弁護したいわけではなく、私が弁護したいのは「民主政治」であることを前置きするにしても、国会内での「日本人であることに誇りを持つ」ことを難しくするのに十分な騒乱は、野党が全部悪いというようには私には見えません。むしろ、騒乱という状況を作り出した遠因は、与党にあるように、私には見えます。
与党が、国会質疑の内容や野党の提出した対案をもとに、法案の法文修正に十分応じてきたのであれば、あのような騒乱にはならなかったはずです。与党には、「言葉で言ってもわからないなら。。。」と野党に思わせてしまった時点で、その意思決定のやり方に問題があったと、深く認識してほしいものです。
実践的には、次回の国政選挙(順当にいけば参議院議員選挙)の際、「人の話を聞く耳は持たないが、自分の話は聞いてくれと、君は有権者に言いに来たのかい?」という趣旨で、選挙運動中の与党議員候補を直接問い詰めようと、私は思っています。
私の理解では、「民主政治」とは国民が声を上げること(デモ)ではありません。言論の自由が政治制度上保証されていない国では、デモに政治制度を揺さぶる効果があります。しかし、言論の自由が政治制度上保証されている国では、「声が上がっているね。」という感想を人々に与えることがあっても、デモに政治制度を揺さぶるような効果を期待することはできません。デモは言論の自由の抑圧と密接にかかわりのある概念だと理解したほうがよいです。
また、私の理解では「民主政治」とは、議論をじっくり積み重ねること(熟議)でもありません。熟議は、みんなで議論をじっくり積み重ねれば、誰にとっても正しい認識に至り、その認識に基づけば、政策の真偽を判定し、決定できるという哲学的な前提に立っています。それは、「だれが哲学者の名を冠するにふさわしいか」という疑問を解消することで民主化したものの、真理に基づく政治をしようとする点では「哲人政治」の一派です。
私の考える「民主政治」とは、文書にもとづいておこなわれるものであり、提案された政策の素案について、みんなで議論を交わし、みんなで文面上の必要な修正をして彫琢し、みんなで政策の案を、合意によってオーソライズしていくプロセスのことを言います。
私の考える「民主政治」の理想は、「だれかが満足するようなものではないが、だれもがそこそこ納得できるようなもの」を、不格好ながらみんなで創り出すことです。
以下で、私の考える「民主政治」の理想を実現するための民主制の仕組みを提案します。制度論的でユートピア的なこの提案は、私たちの実践にすぐにつながるものではありません。しかし、理想から現状を見返すことは、私たちが忍従的ではなく、より啓発的になるのに役立ちます。そして、理想そのものは、現状に対する不満や不信感がどうしようもなく高まった時に、何かを変える実践を起こす際の羅針盤として役立ちます。それゆえ、読者の皆様が「そうなったらいいなぁ」と共感するところがあれば、私の意図は達成されたことになります。
私の考える「民主政治」の観点から見た時に、今回、私たちの社会にとって非常に不幸だったのは、「廃案か、さもなければ、採決か」という二分法でしか、「平和安全法制」法案を政治的にとらえるができなかったことです。
私の理解によると、このような状況を回避するのには役に立たないどころか、このような状況を成り行きとして生み出す国会の仕組みの原則があります。「会期不継続の原則」というものです。
「会期不継続の原則」とは、国会法第六十八条で「会期中に議決に至らなかつた案件は、後会に継続しない。但し、第四十七条第二項の規定により閉会中審査した議案及び懲罰事犯の件は、後会に継続する。」と定められているものです。但し書きで例外規定がありますが、原則として、ある会期中に国会に提出された法案は、会期をまたいで審議されることはありません。会期中に採決されなかった法案は、成り行き上、廃案になるという仕組みになっています。
この原則は、「それぞれの国会は独立した意思のもと召集されるべき」という思想を下敷きにしており、明治時代から見直されることなく、国会のルールとして自明化しています。
私の制度論的な解釈によると、「会期不継続の原則」は、明治時代当時に制度設計に携わった方々の「機動的かつ効率的な国会運営をしたい」という意図を反映した、知恵の結晶だったのだと思われます。欧米というロールモデルにキャッチアップするため、富国強兵・殖産興業政策を強力に推進する必要があった社会情勢です。そして、民主主義という舶来の制度に、当時の国民は不慣れで、どのように振舞ったらよいのか不案内な状態です。
「国民の状態を眺める限り、国会で法案をだらだらと審議したり、国会でつまらない政治闘争に明け暮れたりしたりするかもしれない。でも、社会情勢はそれを許さない。さて、どうしたものか。」
この問いに対する模範的な答えは、審議の時間を区切ることと、審議の目的を明確にすることです。そして、これらを同時に達成できる仕組みが「会期不継続の原則」だと解釈することができます。
私の見立てでは、今もなお、国民は民主主義という舶来の制度に不慣れだと思います。しかし、明治時代とは異なり今の社会情勢は、欧米というロールモデルにキャッチアップするため、富国強兵・殖産興業政策を強力に推進するようなものではありません。むしろ、社会を右肩上がりに成長するという方向をもった単直線で理解すると、私たちの社会は、もはやわかりやすい方向が見えにくくなるくらいに、成熟しています。
それゆえ、現在でもひょっとしたら相変わらず「国民の状態を眺める限り、国会で法案をだらだらと審議したり、国会でつまらない政治闘争に明け暮れたりしたりするかもしれない」のですが、「社会情勢はそれを許さない」というほどに、緊迫したものではないと考えられます。
したがって、「会期不継続の原則」は、その歴史的な使命を終えているのではないかと、私には思われます。
もちろん、「会期不継続の原則」を撤廃することで、「国会で法案をだらだらと審議したり、国会でつまらない政治闘争に明け暮れたり」することを正当化したいのではありません。法案を的確に審議し、つまらない政治闘争を少なくすることは、「民主政治」を適切に運営するために大切なことです。ただ、「会期不継続の原則」を維持することだけが、これらを達成する手段ということではありません。
私の見立ては、現在では、「会期不継続の原則」を維持することのデメリットが、メリットよりも大きいだろうというものです。
「会期不継続の原則」を撤廃することによって得られるメリットは、率直に言えば、法案審議に時間をかけられることです。「そんなに時間をかけて、何をしたらよいのか」という当然の疑問に対して、私が推奨したいことは、様々な利害関係者の意見を検討し、必要に応じて法文中に反映することを通して、利害関係者間で最大限の合意を「穏当に」形成することです。
利害関係者間で最大限の合意を「穏当に」形成するということを裏面からとらえると、今回の参議院特別委員会で見られたような騒乱は見苦しいとみんなで認識し、採決を数の力で押し切らないようにするということです。しかし、数の力で押し切らないように心掛けても、押し切りたいという政治的意思が絶えるわけではありません。そこで、私が提案したいことは、各委員会での審議に数の力で押し切れないような仕組みを組み込んではどうだろうかというものです。
この提案は、抽象的に言えば、各委員会での法案審議のプロセスを厚くしてはどうだろうかということです。具体的に言えば、「法案を本会議に送ってもよいか」という段階でしか採決のステップがないのが従来の法案審議のあり方だったのを、多段階化してはどうかということです。より踏み込んで私見を交えて言えば、各委員会での採決のステップを「合意は形成できたと考えるか(合意採決)」という段階と「法案を本会議に送ってもよいか(委員会採決)」という段階に分けて、法案審議をしてはどうかということです。
私の理解では、「合意は形成できたと考えるか(合意採決)」という段階では、多数より少数を尊重したほうが、合意を最大限形成するためには有益です。それゆえ、合意採決の理想的な仕組みは次のようなものです。
1. 合意採決では、「継続審議とするべきか、それとも、委員会採決の段階に移行するべきか」という選択を、出席委員が票を投じて行う。
2. 「継続審議とするべき」という票が、「合意採決の絶対少数」以上(例えば出席委員の1/4以上)投じられた場合、委員会採決の段階には移行せず、審議を継続する。
「合意採決の絶対少数」はどれぐらいの割合だと適正なのかは、議論が必要な事柄です。それでも確実に言えることは、このような仕組みがあると、少数意見を法案に反映しないと、委員会審議のステップが先に進まない状況が生まれるということです。
このような仕組みの下では、野党が「あらゆる手段」によって抵抗を試みることが、もはや時代遅れで痛々しいものとなり、対話と修正と採決を通して意見の反映を試みることが、トレンドでカッコいいことになるでしょう。
しばしば「国民とはいったい誰のことなのか?」という疑問に晒される「国民主権」という言葉は、教科書的に理解すると、次のようなものです。
「議会制民主主義のもとでは、選挙によって選出された国会議員が国民の声を反映する。それゆえ、国民主権という憲法の精神を具体的に体現しているのは、第一に、普通選挙権が国民に割り当てられていることである。」
そして、このような教科書的な理解に基づき、優等生的な見方をする人たちは、投票率の低迷を片目に見やりつつ、「我々の声を届けるために、投票しよう!」と、私たちを公明正大に鼓舞します。
私の理解によると、優等生的な見方ができなくなり、擦れた考えを持つに至った有権者の多くは、選挙が私たちの声を反映する装置だとは思っていません。一昔前であれば、選挙は業界団体の権益を反映する装置でしたが、昨今、特に小選挙区制がこなれてきてからは、選挙は単なる政党への制裁装置になりました。昨今の選挙は、「私たちは時の政権をもう生理的に受け付けない。」という国民の生物学的な生理反応を反映します。「こんな政策にしたいね。」という国民の声を反映するわけではありません。
「こんな政策にしたいね。」という私たちの声が、国会につながらないという不満は、選挙で与党をアイロニカルに支持する場面で、次のように吐露されます。
「今回の選挙、私たちは与党に投票した。野党よりましだと思ったからである。でも、私たちは与党を積極的に支持しているわけではないし、与党の政策をすべて支持しているわけでもない。よく考えてみると、私たちが本当に投票したいのは政党ではなく、何をするのかということ、つまり政策の方である。なので、政策ごとに国民投票があった方が幾分かましだと思うのだが。」
議会制民主主義(間接民主主義)への不信感から、国民投票(直接民主主義)への希望を語るこの種の言説は、とりわけ、インターネットの普及率の向上に伴い、技術的には投票行為の実行可能性が高まりつつある時に、若手論壇でトレンドな関心事になりました。「インターネットがあらゆるコミュニケーションを変えていく」という2000年代の革命主義的な想像力は、私たちの政治制度の全面的な見直しを要求しましたが、制度的に実現したのは、「インターネット選挙運動解禁」という見出しのもと、議員候補が選挙活動(広報)をビラ、街宣車、演説等以外にインターネットでもできるようになったという程度のものでした(2013年4月19日成立「インターネット選挙運動解禁に係る公職選挙法の一部を改正する法律」)。
もはや2010年代では、「インターネットがあらゆるコミュニケーションを変えていく」という2000年代の革命主義的な想像力は使い古されたものとなり、つながっているのは当たり前、インターネットは日常的なコミュニケーションの前提になりました。おそらく、現在、インターネットによる直接民主主義を唱道しても、かつて勢いに任せていた時には然程気にされることのなかった次のような制度上の難点を冷静に指摘され、志半ばで行倒れることでしょう。
「投票行為だけを切り取れば、インターネットによる直接民主主義は技術的に実行可能かもしれない。しかし、私たち一人一人が、提案された全ての政策の内容を理解し、その是非を判断することは、事実上、実行不可能なのではないか。むしろ、政策が専門的で複雑化しているから、職業政治家が必要なのではないか。」
私がこれから提案したいことの切り口を比較によってあぶり出すと、「こんな政策にしたいね。」という私たちの声を国会に伝える回路を、議員投票以外の方法で構築したいという欲求を持っている点では、「インターネット直接民主主義者」と同じです。しかし、それをあくまで議会制民主主義を強化することで達成したいという欲求を持っている点では、「インターネット直接民主主義者」とは異なります。彼らの蹉跌の石につまずくことなく、彼らの欲求を達成することが、私のねらいです。
前節までで、「会期不継続の原則」を撤廃することで、法案審議の時間を十分確保できる条件を整え、各委員会での採決を多段階化(「合意採決」と「委員会採決」)することで、最大限の合意を形成するための条件を整えました。ここで、私が提案したいことは、各委員会で「合意採決」をする前の段階で、政党が提案する法文修正案をもとに、国民が法文修正協議に参加できるようにしてはどうだろうか、ということです。
具体的には、インターネットによるコミュニケーションを前提に、次のような法案審議の仕組みを提案します。
1. 内閣または議員は、法案を委員会に提出する。
2. 各政党は、一定の期間内で、提出された法案の内容を検討し、必要に応じて修正案を作成し、政党でオーソライズする。
3. 各政党は、オーソライズした修正案を、「国民との法案協議ウェブサイト(仮)」に投稿する。このとき、各修正項目について、その修正理由を明示する。
4. 国民のうち特にこの法案に関心のある人は、自主的に「国民との法案協議ウェブサイト」に投稿された各政党の修正案を閲覧する。
5. 各政党の修正案を閲覧し、特に必要があると考える人は、「国民との法案ウェブサイト」内に設置されてある「各政党の修正案に関する国民内協議スペース」で、自身の関心を惹く修正案に対する修正意見を投稿する。このとき、各修正項目について、意見、修正、修正理由の3点を明示する。
6. 最終的に、この法案に関心のある国民間で、各政党の修正案に対する様々な修正意見を検討し、一定の期間内で政党の修正案ごとに修正意見をまとめ、「国民による修正案」として「国民との法案ウェブサイト」に投稿する。このとき、各修正項目について、意見、修正、修正理由の3点を明示する。もし、一定の期間内で修正意見がまとまらなかったら、まとまらなかった旨と、その理由を投稿する。
7. 各政党は、「国民による修正案」(修正案がまとまらなかった場合はその理由)を、党の政治的な立場を考慮しつつ検討し、必要に応じて「国民による修正案」を反映し、政党の修正案をリバイスする。
8. 各政党は、「国民による修正案」を反映した政党の修正案をもとに、各政党間で修正協議を開始する。
9. 各政党間で法案の修正協議を行い、委員会として法案をまとめる。
10. 委員会として法案をまとめたら、「合意採決」を行う。
全体をプロセスで区切って書くと、何だか難しそうなことをやっているように見えるかもしれません。私たちが、普段インターネット上で見かけるものを理解のための仲介役にして言うと、関心のある人達が自主的に協同して一つの記事をつくるタイプのまとめサイト(ウィキペディア、各種ゲーム攻略サイトなど)と同じことを、国民による法案修正でやってみてはどうか、という提案をしています。
この仕組みが私たちにもたらすメリットは、次のとおりです。一言でいうと、議会制民主主義をいっそう強化することにつながります。
1. 国民が「自分の意見を国会に届けることができるんだ!」という実感をもつことができ、政治を自分たちのこととしてとらえやすくなる。
2. 国民が「賛成/反対」という二分法で政治運動をすることが時代遅れのものになる。
3. 各政党が「賛成/反対」という声だけあげるようなパフォーマンスが時代遅れのものになる。
4. 各政党が提示する修正案を通して、各政党が真面目に仕事をしているかどうか(法案をちゃんと検討しているかどうか)を、国民が検討できるようになる。
5. 各政党が修正案を作成しオーソライズする過程で、各政党のカラー(政治的な立場)を意識するようになり、政党間の違いが、明示的に際立つようになる。
なお、「インターネット直接民主主義者」の蹉跌の石(私たち一人一人が、提案された全ての政策の内容を理解し、その是非を判断することは、事実上、実行不可能なのではないか。)は、「ある法案に特に関心のある人が、自主的に協議に参加する」ことによって、避けられていると考えます。
以上、「平和安全法制」法案は「意思決定のやり方が、非常にまずかったね。」ということと、「私たち社会的な意思決定の仕組みである民主制をよりよいものにしたいですね。」ということを、書き連ねました。このようなことを政治家や御用学者が言うと、話題性のあるものになるかもしれませんが、話題は往々にして表面をなぞるだけで心に届かないことを、私たちはよく見知っています。
私のような単なる市井の布衣の者は、細々と読者の皆様の共感を得られるような希望を、少しずつ共感が広がるといいなと思いながら、語り続けるばかりです。