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2019/08/11
三権分立の基本理念に鑑みると、特に「立法」と「行政」は仕切り直しが必要なのではないか?

「立法-行政-司法」は、義務教育を受けた者であれば、言わずと知れたことになっている日本国の三権分立の枠組みである。三権分立の目的は権力間のバランス(均衡と抑制)をとるためである。この目的を達成するためには、各権力の地位は対等でなければならない。 偏りがあるとそれに引っ張られてバランスを欠く。それは状態としては権力集中なのであって、三権分立の目的に反する。

日本国では主権は国民にある(国民主権)。単に国民に主権があるだけではなく、国民が主権を運用するということでもある。ただ、国民が主権を運用すると言っても、三権分立上の「国民」の割り当ては以下の①から③のとおりである。 主権は全国民にあるが、主権を運用するのは国民の一部である。

主権を運用する国民は、全国民からの信託を受けていることになっている。全国民の立場からするとそれがよくわかるのは「立法」である。「立法」を行使する国民の代表者は選挙される。 しかし、「行政」や「司法」を運用する国民は、通常、選挙/国民審査されない(一部の職を除く。)。 このことは、全国民からの信託を受けているという意味の認知の問題として、「立法」の優位を印象付けるものになっている。

また、日本国はいわゆる「議員内閣制」を採用している。「行政」を運用する国民の長(内閣総理大臣)は、「立法」を運用する国民の代表者(国会議員)から指名される。 つまり、「立法」を運用する国民の代表者(国会議員)は、可能性としては、誰でも「行政」を運用する国民の長(内閣総理大臣)になれる。 このことは、認知の問題として、「立法」と「行政」の機能的な分離を曖昧なものにしており、「行政」に対する「立法」の優位を印象付けるものになっている。

(現に、「立法」が「行政」よりも優位と言わんばかりの国会議員の振る舞いは、国民に違和感を与えない。また、「政治は実行力」という旨の気前のいい話をする国会議員もいるみたいだが、実行は「行政」の領域である。)

先述のとおり、三権分立の目的に照らし合わせて考えると、「立法」、「行政」、「司法」の地位は対等でなければならない。 しかし、日本国の統治の基本的な仕組み(国民主権に基づく選挙制、議院内閣制)は、認知の問題としてこれらの対等性を損ねる余地がある。上記の分析を総合すると、特に「立法」が優位であるかのような印象を与える。

それが単に認知の問題のみに留まるのであれば、直接的な害はない。しかし、認知に基づき行為に及ぶのであれば、直接的な害が生じるおそれがある。 認知に歪みがあると、統治の基本的な仕組みに基づく行為であっても、統治の基本的な理念を損ねることがある。 基本的な理念を損ねることは、長期的に見ると統治行為の趣旨及び政策体系の整合・一貫性を損ねる。その問題が顕在化すれば、国民の信頼も損ねることから、国民の信託に依拠した統治は不安定なものになる。

ここでは、三権分立という基本的な理念が、認知の問題としても、また事実の問題としても損なわれているのではないかという注意喚起をしておく。 特に、「立法」と「行政」の機能的や分離が曖昧であり、「行政」に対する「立法」の優位を印象付けることになっていることは、現に直接的な害が生じているように見受けられる。

ちまたでは当たり前のように「選挙目的の政策」という論評を聞く。 とりわけ、内閣を構成する国会議員が「選挙目的の政策」を打ち出すのであれば、「行政」が「立法」を斡旋していることになる。これは「立法」の都合を「行政」に押し付けていることにもなる。 それが、政策体系の整合・一貫性にどのような不合理をもたらしているのか、よく考えてみた方がいい。

不合理は、不公正・不公平の温床である。 概念上の位置づけに不合理があることは、正しいものを殺し、誤っているものを生かす根拠を「正当」に与える。その結果を被るのは、結局のところ全国民である。 それが珍しいものではないのだとしたら、統治としては粗末である。だが、その程度の統治でいいやと主権を運用する国民から思われるのであれば、粗末さは国民全体の問題である。 民主主義国家では、国民の器量を超えた統治は望めない。これは歴史の理である。

以上は病理所見である。では、どんな処方箋があるか。

まず、認知の問題に取り組むのは好手である。「立法」、「行政」、「司法」の地位は対等であることに立ち返って、何ができ、何ができないのかをよく省察する。 これは、まさに認知の問題であることから、主権を運用する国民だけではなく、全国民が実行できる効果的な対策である。

「立法」が「行政」よりも優位と言わんばかりの国会議員の振る舞いは、端的に言って何様である。「政治は実行力」という旨の気前のいい話をする国会議員は、端的に言って無責任である。 三権分立の理念に照らし合わせると、これが標準的な見解である。このような見解を導く国民が多くを占めるようになると、三権分立の理念に適わない行為は抑制されるはずである。

踏み込んだ処方箋としては、議員内閣制の下で半ば癒着していると言える「立法」と「行政」については、その役割を仕切りなおすべきである。 議員内閣制を見直して大統領制を導入せよという、手垢にまみれた安直な主張をしたいわけではない。 問題は、立法を運用する人(国会議員)は何をする人たちなのか、行政を運用する人たち何をする人たちなのか、その違いは一体どこにあるのかである。(大統領制を導入してもこの問題が解決されるわけではない。)

このようなことが明確になると、全国民の側から見ると、選挙の際に何を国会議員に期待をしたらよいのか、何を評価したらよいかが明確になる。 国会議員が適切な期待に基づき選挙され、「立法」を適切に運用することは、主権の運用の内実を強化し、結果として統治の質を向上することにつながる。これが青写真である。

では、「立法」と「行政」は何が違うのか。私見では実行性と中立性が両者を分ける。

「立法」は必ずしも実行性に重きをおかなくてもよい。しかし、「行政」にとって実行性は本質的な問題である。(政(まつりごとを)を行うと書いて「行政」なのだから、行政にとって実行は定義上の本質である。)

「立法」は必ずしも中立性に重きをおかなくてもよい。しかし、「行政」は中立性に重きを置く。 (立法行為は方向づけを与えることなのだから、それは中立ではありえない。ルソー的に言えば、「立法」は「全体意思」を指向する場であり、「行政」は「一般意思」を指向する場だと思われる。)

このような違いに基づけば、それぞれの所掌範囲を指定し、行為規範を構成できると考える。その具体はなお、考究の途ではあるが。


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