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2009/06/28 改正臓器移植法

かねてより「書きたい」と思いながらも、なかなか時間が取れず…。
もう既に一週間以上経過しているかと思うけれども、改正臓器移植法が衆院可決したらしい。
話題としては旬を過ぎてしまっただろうか?

今回衆院可決したのはA案と呼ばれるものらしい。
おそらく、A案に対するイメージとしては「脳死は人の死」というのが一般的なのではないかと思う。
現に、哲学、倫理等の学会からは「そいつは性急だよ。安直に決定できることではない。」というような指摘がされていたかと思うし、読者の投稿スペースでは「脳死は人の死?」といった争点が目立つように思う。

しかし、である。「脳死は人の死」というのは実のところ誰が騒ぎ立てたことなのだろう。
よくよく内容を吟味して見ると、A案は「脳死は人の死」と一律に言うものではない。留保付きでの話である。
しかし、冷静になってよく考えてみると、現行法も留保つきで「脳死は人の死」という定義になっているはずである。そうでなければ脳死患者から臓器を取り出す行為は殺人行為になってしまうだろう。
だから、「脳死は人の死」というのは何も驚くに値するものではない。何を今さら、という話なのである。

結局のところ今回何が改正されたのだろう?
現行法も改正法も、留保付きで「脳死は人の死」とみなすわけなのだけれども、結局のところ「留保のつけ方」が変わったのである。
そして、「留保のつけ方」をめぐって、A、B、C、D各改正案が提出されていたのである。
A案と他の法案には実は決定的な差異がある。本来はそこが係争点のはずなのだけれど、どうもメディア報道を見ている限りでは、「脳死は人の死」という言葉がその問題に蓋をしてしまっているのではないかというような印象を受けてしまう。
繰り返しになるが、留保つきで「脳死は人の死」とみなすのは臓器移植の前提である。そして、A案では、一律に「脳死は人の死」とみなすわけではない。この死の定義は、臓器移植の場合に限定されるものとして衆院法制局は考えているのである。従って、「脳死は人の死」というのは、臓器移植に際しては、なんらラディカルなところはないのである。
これをラディカルとすれば、臓器移植という行為それ自体がラディカルだということなのであって、それは臓器移植に反対する圧力団体の意見になろうかと思う。
A案の死の定義として「脳死は人の死」と与えてしまっているメディアに関しては、そもそも文章読解力に不安がある方が報道しているか、それでなければ、臓器移植に反対する圧力団体からの圧力がかかっていたのだろうか?というような、ろくでもない勘ぐりを入れてしまいたくなってしまうのである。

わたしは、A案と他のB、C、D案との決定的な差異は、「脳死患者が、脳死判定以前に、臓器提供に対してポジティブな意思表示をしていることを必要とするか否か?」というところにあるものだと思っている。
つまり、A案では、脳死患者が臓器提供に関してポジティブな意思表示をしていなかったとしても臓器提供ができる、とする点が前衛的なのである。他の法案では、意思表示の可能な年齢等の差異はあれども、本人のポジティブな意思表示を必要とする点では事を同じくしており、もっと言えば、現行法も同様なのである。

すこし冷静になって、プロセスを考えてみる。
脳死患者というのは、神の視点から本質的に脳死患者なのではなく、医師が患者に脳死判定をすること(人の視点)によって、「脳死患者」と見做されるのである。ちなみに、どうでもいいかもしれないが、脳死判定は「1.深い昏睡、2.瞳孔散大と固定、3.脳幹反射の消失、4.平坦な脳波」を指標として判定される。逆に言えば、これら指標によって作り出された病態名とも言える。なので、「脳死患者」というひとくくりの概念として与えるより、実のところ「脳死判定状態にある患者」と言った方が事態を正確に捉えたものであろうと私は考えている。

もし、巷間騒がれているところの死の定義、「脳死は人の死」というのがなんら留保も無く適用されるものとすれば、この「脳死判定状態にある患者」は有無を言わさず死亡者となり、臓器提供のために献体されることになるだろう。
そして案外A案に対してはこのイメージが強いのではないかと思うのだけれども、全くもってそんなことはない。衆院法制局は、移植につながらない脳死判定による死亡宣告は法律上あり得ない、としている。「脳死判定状態にある患者」はこの段階では死亡者とは見なされない。「脳死判定状態にある患者」は単純に「脳死判定状態にある患者」であってそれ以上でもそれ以下でもないのである。そこで、次のプロセスが必要になる。つまり、移植につながる場合であるか否か、ということである。

現行法やB、C、D案では次に、「脳死判定状態にある患者」がその判定以前に臓器提供に対するポジティブな意思表示を書面(通常ドナーカードだと思う)で行っているかどうかが確認され、さらに、その親族が臓器提供に合意するか否かが問われる。
ここで、もし本人も親族も臓器提供に対してポジティブな意思表示をしていれば、そのときはじめて「脳死判定状態にある患者」は臓器摘出可能な状態にある「死亡者」としてみなされることになるのである。
いわば、本人と親族の二重のポジティブな意思によって、「脳死判定状態にある患者」は臓器提供可能な「死亡者」になるのである。
ここでは、本人がポジティブな意思表示を書面で行っていなければ、親族の同意があっても「脳死判定状態にある患者」を死亡者にできないだろうし、また、本人がポジティブな意思表示を書面で行っていても、親族が同意しなければ「脳死判定状態にある患者」は死亡者にならないのである。

さて、A案ではこれがどうなっているのかといえば、「脳死判定状態にある患者」がその判定以前に臓器提供に対するネガティブな意思表示を行っていない限り、親族の同意のみによって臓器提供をすることができる、ということになっている。
臓器提供に対するネガティブな意思表示をというのは、臓器を提供したくない、ということである。A案では「臓器提供します」というポジティブな意思表示がなくても、特に本人の断りが無ければ、家族の同意だけで臓器提供を決定できるのである。その意味では先の法案と比較した際、審査基準が緩和されていることが理解されると思う。
つまりは、先の場合は本人と家族の二重のポジティブ意思表示、A案の場合は特殊な場合を除き実際のところは家族のポジティブ意思表示のみが臓器提供要件になっている。

ところで、衆院法制局はA案に関して、「移植につながらない脳死判定による死亡宣告は法律上あり得ない」としていることを書いたかと思う。これは(厳密な論理学の観点からすれば正しくないのだが)「移植につながる脳死判定による死亡宣告は法律上ありうる」ということを示唆するものであろう。
それでは、移植につながる場合とは何か?、A案の場合は基本的には家族の同意がある場合である。
ということは、「脳死判定状態にある患者」は脳死判定によって「死亡者」になるわけではなく、親族の同意によって「死亡者」になるのである。エグイ言い方をするなら、「脳死判定状態にある患者」を生かすも殺すも親族の責任だよーん、というのがA案の根底的な考え方なのである。

正直私は、A案は思った以上に臓器提供数という観点からは効果を上げないのではないかと思っている。「脳死判定状態にある患者」を親族自らの手だけで責任を持って殺す、というようなエグい選択は果たしてどれぐらい採用されうるのだろう。親族の心理的負担は現行法より多分重いはずである。
裁判員制度ですら、自らが他人を裁くという心理的負担を主な理由として反対する方が多いというのに、まして、自らが家族の生死を裁くようなことを求められるようなこととなれば、どうなるだろう。大多数の方は、選択をするくらいなら、選択しないことによる現状維持、というメタ選択に流れていくと思う。

私は原則的には現行法のように臓器提供に関して二重のポジティブな同意を必要とする方がよいと思っている。そのほうが、親族としても「本人が希望していたことだから」ということで、責任をダイレクトに負担しなくてもすむはずである。そのぶん、本人がポジティブな同意を行える機会を増やす必要があるわけだが、例えば、普及率の高い自動車免許を取る際の手続きの一環に組み込んで見るなどしてもよいのではないかと思う。
ただ、A案の趣旨は臓器提供者の年齢制限を撤廃するところにあったことも忘れてはいけないだろう。より正確なことを言えば、本人が意思表示可能な年齢に達していない場合(幼児等)であったとしても臓器提供できるようにしたかった、というのがA案の趣旨なのである。従って、それについては例外規定を設けてはどうかと思うのである。つまり、本人が意思表示可能な年齢に達していない場合はA案のように親族のポジティブな同意を基本的な要件とする。
現状では、意思表示可能な年齢に達していない場合、提供数が増えること以前に、臓器提供できるということ自体がまずは重要で画期的なところのはずなのである。


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