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食と規範性‐自給率‐

ーはじめにー この論文について

本論文はとある講義で提出したレポートをそのまま掲載したものである。要約は以下の通りである。

「まず食料自給率を上げることと個人の食の嗜好性を満たすことは矛盾するとして、後者を限定する必要があることを主張する。その際、Quality Of Life(QOL)という観点からは批判も出るかと思われるので、QOLの内容を検討し、その批判を回避する迂回路を通る。最後に、個人の食の嗜好性を満たすことを限定するにあたり、食料自給率の高い食材を用いて「食文化」を再生することを考える。」

かねてより食と社会については思うところがあった。それを勢いに任せながらも比較的まとまりのある形で提出したのはおよそ2年前にまで遡る。記録によると、2007/07/20の11:00~18:53に渡って図書館に篭ってずっと書いていたらしい(もちろん忘れるわけがない)。そのとき、出来立てホヤホヤの拙文を読んで頂いたことがあるのだが、解決を先延ばしにしたのではないか、というような批判を受けたことを記憶している。随分と時間がかかってしまったが、今回はそれに対してもう少し具体的な見解を提出できたのではないかと思っている。

改めて読み返すと、今回提出する論文におけるQuality Of Life(生活の質)批判の大元の洞察は、2年前にて先鋭な形で展開されていたと思われる。
尤も、昔と今とで異なる見解に基づいているところもある。当時は「食品の感覚的なおいしさ」より「食品の情報」を優位に扱っていたかと思うが、今では、現代日本社会においては、「食品の感覚的なおいしさ」が全てに先立っており、それに追従する形で他の食品機能が想定されているのだと考えるようになった。食品の情報を味わうにも、それは感覚的においしいか、または、その想定の下である。

そこで参考までに、補論「我々は情報を味わう」も拙文ながらも掲載することとした。

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2009/07/19 食と規範性‐自給率‐

食料自給率を上げることと個人の食の嗜好性を満たすことは矛盾する

日本は食料自給率が低い。単に人口に対して生産高が低いという話であるだけでなく、国内生産品目と消費品目にギャップがあることも大きな要素となっている。ごく単純化して言えば、国内で食料を作ってみたのは良いけれど、消費者が食べたいものは外国で作っている食料を原料としている。故に、食料自給率という数字は低くなってしまう、ということである。それでは、どうして消費者が食べたいものは外国由来の食料をあてにしたものになっているのだろうか。
一般にこの現象は食の欧米化と言われていたかと思う。それをざっくり広いところから捉えるならば、「価値の多様性」という社会現象が、「食のあり方」というところで具体化したものと位置づけることができるだろう。「価値の多様性」というのは、社会全体で共有されていた規範の規範性が崩壊し、良し悪しの内容を決定するする基準が社会レベルから個人レベルへ落ちてきつつある現象だと筆者は認識している。それが「食のあり方」という社会現象の一部分においては、食卓にはこういった品目のものが並ぶもの、という社会レベルでの規範性が崩壊し、そのかわり個人レベルの食の嗜好性を満たすことをよしとするような形で具体化してきたのだと考えている。このようにして、個人レベルの食の嗜好性に対応するため多様な食材を恒常的に必要とする状態が生まれ、結果、困ったときの輸入頼み、という構造を取らざるを得なくなったものと考えられる。

ということは、食料自給率を上げることと、個人レベルの食の嗜好性を満たすことは本来的には矛盾することのはずである。仮に個人レベルでの食の嗜好性を満たすことを最高の価値として、それでもなおかつ食料自給率を上げようというならば、多様な食材をできるだけ多く国産できなければならない。しかし、日本の国土では、大規模農園を多様な食材に渡って展開していくだけの平野部が不足しているため、地理的にそれを達成するのは難しいと思われる。そこで、他の方法で食料自給率を上げようとするならば、数字を上げさえすればよい、という発想もあるだろう。品目はこの際無視して、単純に1 日1 人当たりの国産供給熱量を1 日1 人あたり供給熱量で割り算したものを食料自給率と再定義すれば、数字の上では「食料自給率が上がった。やったぁ、万歳!!」ということになるはずである。
このような魔術的な解決方法を取らない限り、個人レベルでの食の嗜好性を満たすことを最高の価値として食料自給率を上げることは不可能である。ここで提出される主張は、「日本で食料自給率を上げる場合、個人レベルでの食の嗜好性を満たすことを一義的なものとすることはできない。」ということである。悪い言い方をするならば、食料自給率を上げるには個人レベルの食の嗜好性を満たすことは至上価値ではなくある程度の限定はやむを得ない、ということになる。これは、Quality Of Life(QOL)という主張をするところからは、若干煙たい主張として受け取られるのではないかと思われるが、そもそもQOLというのは一体何なのかを、次に分析してみたい。立ち位置としては、筆者はQOLと声高に叫ばれる事態に対して若干懐疑的な立場に立っている。

Quality Of Lifeは快楽の免罪符として機能しているのではないか

昨今、個人のQuality Of Life (QOL) の実現、という主張がなされることが多くなってきたかと思う。これは、一般的に「価値の多様化」という現象を強固に支持する概念として使われている。しかしその一方で、QOLという言葉ばかりが先行して、QOLが指示する内容を検討するという作業を怠っている側面もあろうかと思う。穿った見方をすれば、QOLと言っておけば、その内容はともあれ、何がしか良い意義付けがなされる、ということもあろうかと思うので、ここではQOLについて検討してみたい。

QOLはもともと医療用語であり、大体次のような定義がなされるかと思う。

人生の質、生活の質という意味で、患者の人生や生活の質的な面に重点をおいて医療を行おうとする考え方」
(濱井修 『倫理用語集』 山川出版(2003))

これは、医療のどのような場面で使われたのかといえば、末期医療や代償の伴う手術の場面で用いられたのである。患者のその後の人生や生活に大きな影響を与えるこれらの医療行為を行うか否かは患者自身の裁量を尊重して行うべき、というのがQOLの骨組みなのであって、ある種の悲劇性にある患者の「それでも自身の生き方を主体的に選び取る」という悲痛な覚悟を前提とした、半ば恐ろしい考え方なのである。

一方、昨今QOLは医療現場以外でも耳にするようになったが、これは一般的にクライアントの苦痛の緩和、もしくは、快楽の推進という意味合いで普及しつつあるのではないかと思われる。そこで、食品の場合を例に挙げてみる。
まず、苦痛の緩和に関して例を挙げると、咀嚼機能が衰えた高齢者を対象に柔らかくて見た目も綺麗な食品を提供する、嚥下障害を有する高齢者を対象に嚥下しやすい食品を提供するなどの際にQOLと言われることがあろうかと思う。
また、快楽の推進に関して例を挙げると、「健康を気にせず美味しいものを好みに応じて食べたい。」というクライアントの感覚的な快楽を満たすことに対してQOLと言われることがあろうかと思う。

上で確認したかつての医療上のQOLと、昨今一般化しつつあるQOLとで決定的に異なるのは次の点にあると筆者は考えている。すなわち、かつてのQOLにおいては、確かに苦痛の緩和は選択肢のうちの一つにあったにしても、感覚的な快楽の推進を唱えていたわけではないという点。また、昨今のQOLにおいては、クライアントが悲痛な覚悟をもって主体的に人生を引き受ける、という意義はかなり薄まっており、むしろクライアントに苦痛の緩和、もしくは、快楽の推進を与えようとする側面が強調されてきつつあるという点である。では、これをどう捉えたらよいだろうか。結論から言えば筆者はクライアントの感覚的な快楽を満たすことをQOLと言うのは行き過ぎだと考えている。

筆者は、クライアントが意識的に頑張ればある程度解決できる問題と、クライアントが意識的に頑張ってもかなりの蓋然性で解決できない問題があると考える。後者としては、かつてのQOLの現場であるターミナルケアを挙げることができる。個人が身体的に苦痛を伴いながら、かなりの蓋然性をもって死に向ってゆくしかない場合は、「個人が頑張っても仕方がない。周りのほうから苦痛を取り除くように働きかけよう。」という発想を推すことは理解できる。また、同様の理由から高齢者の咀嚼や嚥下障害の苦痛の緩和についても理解できる。
しかしクライアントの感覚的な快楽追求を認めながら、その環境を変えることで問題を解決しようとする発想にまでQOLと言ってしまってよいのだろうか。つまり、「太りたくない、努力したくない、でもおいしいものはたくさん食べさせて☆」という、ある種我が侭な個人の感覚的な快楽を満たすことにまでQOLと言ってしまってよいのだろうか。この事態は質的というよりむしろ量的な問題なのであって、Quantity Of Pleasure (快楽の量;QOP)と言った方が適切ではないかと思うのである。

もちろん、快楽は悪いという話がしたいのではない。そうではなくて、量的に感覚的な快楽を満たすことにまでQOLと言うのはカテゴリーミステイクであるということが言いたいのである。QOLはこの場合明らかに量的に感覚的な快楽を満たす上での免罪符として機能しており、QOLの意義自体が形骸化する危険性があると思うのである。

少し昔の話を引き合いに出すと、快楽を積極的に認めた歴史上の人物としては、19世紀のイギリス功利主義者のJohn Stuart Millがいるが、Millは「快楽の質」ということを唱えた。それは、動物的欲求より知性・感情の快という人間的な欲求の満足を高位のものとして置き、高次の快のために低次の快を犠牲にできるというものであった。
もしQuality Of Lifeの名の下で快楽を推進するなら、それは動物的欲求を量的に満たすことではなく、Millが唱えたような質的快楽のことを言わなければならないだろう。そうすると、ここで議論は戻るのだが、「食料自給率を上げるには個人レベルの食の嗜好性を満たすことは至上価値ではなくある程度の限定はやむを得ない。」という主張に対して、QOLを主張する側は、賛同はできても批判をすることはできないはずである。つまり「この際、逆手にとってQOLを利用してしまえ」ということもできるわけなのだが、QOLというのは非常にセンシティブな問題である。諺にもあるように、触らぬ神に祟りなし。ここでは、QOLという問題は、個人の感覚的な快楽という観点からは通過できるものとして、「食料自給率を上げるには個人レベルの食の嗜好性を満たすことは至上価値ではなくある程度の限定はやむを得ない。」という主張はそういった限定の下では妥当性があるだろう、ということに留めておく。
最後に、「食料自給率を上げるには個人レベルの食の嗜好性を満たすことは至上価値ではなくある程度の限定はやむを得ない。」にしても、どのような限定を行っていくのか。簡単に言えば「食文化の再生」ということを行うのである。

食卓にはこういった品目のものが並ぶものという規範性

食文化、と一口に言ってもその範囲は広い。例えば、宗教的世界観から位置づけられて構造化された生活様式における日々の食事、というレベルから食文化を語ることもできるはずであり、この場合は宗教観から生活様式に至るまであらゆる事象を対象として取り扱わなければならなくなってしまうだろう。そして、おそらくそのレベルから食文化を再生することは、現代社会では実際的ではない。ここでは、あくまで食料自給率を回復するというレベルで食文化ということを考える。つまり、食卓にはこういった品目のものが並ぶものという規範性を再生することを、かなり狭い話ではあるが「食文化の再生」と考える。

それでは何を食卓に並ぶ品目とするのかと言えば、自給可能な食材をメインにした品目を並べるのである。例えば自給可能な食材(自給率は2007年度のもの)としては、米(100%)、いも(81%)、鶏肉(69%)、鶏卵(96%)、魚介類(62%)、牛乳及び乳製品(66%)、海藻類(71%)、きのこ類(83%)、野菜類(81%)は比較的自給率が高い。「皆がこれらを消費するようになれば、生産が追いつかなくなり、輸入に頼るようになって結局自給率が下がるのではないか。」という考えもあるかもしれないが、これらは飼料穀物に大きく依存しない食材であるがゆえに自給率が高いのである。日本の食料自給率の低さは飼料穀物のほとんどを外国からの輸入に頼っていることが大きなファクターとなっているため、飼料穀物に大きく依存していない食材は自給率低下に対する抵抗性が高いものと考えられる。
このように、自給率を参照にしながら食卓に並ぶ品目を考える際、単純にかつての日本食を再生するということにはならないだろう。例えば、大豆の自給率は5%であるため、味噌汁をメインに置けるかと言われれば、この判断基準だと置くことはできない。一般に、ご飯と味噌汁(大豆)は制限アミノ酸を補足しあう関係にある(補足効果)と言われるため、ご飯と新たな補足効果を有する品目を考える必要も出てくるかと思う(たとえば米の制限アミノ酸であるリジンを補うために、鶏卵をベースにした定型的な献立を考えるなど。)

ともあれ、食料自給率ベースに食卓に並ぶ品目が考えられたとする。おそらくこの場合、健康面からはある程度望ましい品目が並んでいるものと考えられる。少なくとも油脂の摂取量はメインに牛肉や豚肉を食している場合より抑制されるはずなので、生活習慣病の引き金となる肥満を抑えることにはなるだろう。問題はどのようにしてそれらの品目を、狭い意味での食文化とするかである。「食卓にはこういった品目のものが並ぶもの」という規範性を社会において再生するにはどうしたらよいか。
政策レベルでできることとしたら、食育の一環に組み込むことや、学校給食、公的機関の食堂に反映することが直接的かと思う。間接的にはキャンペーンの実施や、関連一次産業の大規模化(個人零細から企業法人化;曰くつきの政策かもしれないが…)を促すなどができるかと思われる。
民間レベルではセットメニューに反映する、メディアを通じた宣伝、スーパーマーケットで献立サンプルを店頭紹介したりできるかと思われる。その場合のイニシアティブとなるのはまずもって売れることでなければならないので、おいしさをここで度外視するわけにはいかないだろう。

おいしさによって行動を管理するという発想自体は規範性からは程遠いものとはいえ、現実対応としては食育が実を結ぶまでかなり大きなウェイトを占めるだろう。そして食品科学の社会的役割は、筆者には一義的にはおいしさを追求することであろうと思われる。例えば、おいしいものをたくさん食べながらも健康であれるように生理調節へ向ってゆくという発想自体、一義的に食品に求められているのはおいしさに他ならないことの証左だろうと思う。そのため、食品科学の社会的役割としては、一義的にはあらたな「食文化」のおいしさを創生してゆくことが肝要であり、それが結果として食料自給率の改善や、摂取品目の変化に伴う生活習慣病予防に繋がるものと考えられる。

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2007/07/20
我々は情報を味わう

我々の味の嗜好には4つの因子が仲良しこよしでやっているらしい。以下の4つがそれである。

生物学的観点から言えば、本来的には「生物学的欲求に基づく嗜好」がこの仲良しグループのリーダー格である筈である。
実際、動物にとっての味覚は生存の為に必要か否かを鋭敏に判定する。身体の欲するところが理性的かつ合理的なのである。

併(しか)し、現代的意義の嗜好では下克上が起こっているのである。つまり、現代人にとって「生理学的欲求に基づく嗜好」はすっかり覇気を失ってしまって、代わりに「情報による嗜好」が新たに仲良しグループの天下人になったということなのである。
例えば、我々は食品が安全であるか否かを最早少しかじってみたり、臭いをかいでみたりして慎重に吟味するようなことはしない。安全か否かを確かめるにはどうしたらよいのか?パッケージの表や裏を確かめることである。

「消費期限は2007.07.19だって。もう捨てなきゃ。」
「まったく、このハムにも亜硝酸ナトリウムが入っているよ。」
「この牛肉は国産だから大丈夫」

また、安全であるか否かに限定されるわけではない。現代人はブランドという情報を味わうのが大好きである

「こちら国産牛の霜降り肉によるサイコロステーキです。」

…生まれはアメリカ。育ちは日本。

さらに健康という情報を味わうのも大好きである。

「少し油っぽいものを食べ過ぎたなぁ。肥満が心配だ。」
「そんなときには、はい、トクホ。」
「トクホ?なんだそりゃ?」
「厚生労働省により許可された機能性食品のことだよ。特定保健用食品だからトクホと言うんだよ。」
「食べたらどうなるんだ?」
「この食品の場合は『体脂肪が気になる方のために』と書いてあるね。トクホは薬事法により治療効果を謳ってはいけないけど、予防効果なら謳っていいんだ。実際にヒトで実験して効果は科学的に証明されているんだよ。」
「そうなのか。それなら効果が期待できるな。じゃあこのトクホを食べていれば肥満は怖くないな。これで安心してこってりした料理が食べられるってわけだ。」

…まったくもって健康志向である。

以上見てきたように、現代人は「生理学的欲求」による価値判断こそ鈍くなってしまったものの「情報」による価値判断は誠に鋭敏になっているのである。
論者によっては、動物的な「生理学的欲求」と、極めて人間的な「情報」を区別する趣があることと思う。それはそれで一面の真理でると筆者は思うが、それはあくまで分析的に見れば正しいと思うということに過ぎない。

「我々は情報に依存しすぎである。もっと自分たちの動物的な生理学的欲求を研ぎ澄ます努力が必要である。」

筆者は「生理学的欲求/情報」の区分はよしとしても、その区分から上記のような主張を展開することに与するのにはいささか躊躇を覚えるのである。
それは一体何故であるか?

早い話が我々にとってすれば「情報」は極めて生理的なもののなかに組み込まれているように思うからである。確かに「生理学的欲求/情報」という区分は一面では真理であると思うが、それを人間において適用しようとするのは少々無理があるように思う。 「情報」は人間的な「生理学的欲求」なのである。野生動物が動物的な「生理学的欲求」に従い鋭敏に吟味を行うのと同様、我々は「情報」という人間的な「生理学的欲求」に従って鋭敏な吟味を行っている点では変わりはない。「情報」にはまさに味があるのである。だから生理的に嗜好的になったり生理的に拒絶反応を示したりするのである。

「あー、肉まん美味しかったなあ。」
「次のニュースです。本日○○社の肉まんにダンボールが使用されていたことが発覚しました。」
「うそ!今日食べた肉まんじゃないか。うわ…なんだか気持ち悪くなってきた。」

人間の場合生理的欲求の中に動物的なものと人間的なもの(情報)がある。そして我々は最早「情報」とは切っても切り離せない腐れ縁の間柄にあるのである。今更ルソーのように「自然に帰れ」と言ったところで、ルソー自身が自覚していたようにそんなこと不可能である。現代人は動物的な生理学的欲求を研ぎ澄ますのではなく、人間的な生理学的欲求(情報)についてもっと根底的に洗い直した上でこれを研ぎ澄ます努力をしなければならないと思う。戦いの現場は木でできた密林ではなく、あくまでビルでできた密林なのである。

ところで何故単に「研ぎ澄ます」ではなく、「根底的に洗い直した上で研ぎ澄ます」という留保を設けたのか?簡単である。現代人は既に研ぎ澄まされすぎなのである。しかもその研ぎ澄まし方はなんら反省を伴ったものではなく、単にその場その場を都合の良いようにやり過ごすための刀を振るうためのものなのである。

「アメリカ産牛肉の輸入には嫌悪感があるなあ。」
「ふーん。そういえば君アメリカにホームステイしに行ったんだってね。」
「そうそう。そこの家族の人とよく大手ハンバーガーチェーン店のハンバーガーを食べに行ったんだけど、量が多くておいしかったなぁ。」

…きっとアメリカでは日本産の牛肉を使ってハンバーガーを作っていたのだろう。

決してこの例が特殊な例であるわけではない。先の特定保健用食品の場合も同じである。健康が気になるから特定保健用食品を食べつつも、高カロリー、高脂肪食の美味しい食事を希求する。そんなに健康が気になるならば食生活を改善すればよいだけである。
また、何も食品の世界に限ったことではない。どうやら昨今「持続可能な開発」なる言葉が世の中を席巻しつつある。

「さあ開発だ!経済成長だ!しかし環境も気になるな。そうだ!経済成長の中に環境改善を組み込んでしまおう。我々はもっと経済成長できるぞ!わっはっは!!」

環境と言われれば「もっともだ。」、経済発展と言われれば「もっともだ。」と応じるのではブレーキ無しのチキンレースをやるようなものである。キルケゴールが言うように「あれもこれも」ではなく『あれかこれか』と腕を組んで立ち止まって見なければなるまい。

以上、現代人が情報に対して無反省の研ぎ澄まされ過ぎだ、ということに対する例を挙げてみたつもりである。つまり現代人は、自分の振る舞い、立場、意見をその都度の情報により提示された「現実」に応じて都合よく変えることが実に上手なのである。それはその都度の「現実」が何を自分たちに要請しているのかを敏感に無反省に嗅ぎとっているということなのである。
さらに突っ込んだことを言うと、現代人は複数の基準をその都度都合の良いように行ったり来たりと往復している。その基準同士が根本的な部分で相容れない構造を含んでいたとしても、そんな乖離、矛盾は何のそのである。乖離や矛盾を反省的に受け止めるのではなく、そのまま放置して都合の良いように適用、代入してゆくのである。そして、これが現代において最も大きな腫瘍なのではないかと筆者は診断するのである。

さて、随分前のことになってしまったので、虚空のかなたへ雲散霧消してしまった方が多いと思われるのだが、今回の最初の論点は「情報」には味があるということであったはずである。つまり人間にとって「情報」は生理的なものの中に組み込まれており生理的に受け付けたり拒絶したりするものであるということである。「情報」は無味乾燥とした単なる客体物ではなく、多分に身体感覚として働いているということなのである。

「君の食べた昼ごはんには実はゴキブリの足が入っていたんだ。」

ほらほら。気持ち悪くなってきたでしょ。

さて、この「情報」という身体感覚は先の議論で見てきたように現代では相当攪乱されているはずである。何故なら、情報の織り成す現実や基準同士の乖離を放置してその間を行ったり来たりと忙しいからである。これを他の体性感覚(五感)で喩えて言うなれば、痛みであろうが何であろうが都合よく心地よくなるようなものなのであって、はっきり言って感覚器官としては使い物にならないのである。

「うひゃひゃ。何であっても気持ちいいなぁ~。」という麻薬中毒者の状態を改善する為にはどうしたらよいのか。麻薬を取り上げてしまえばよいのである。

「ヤク…ヤク…」

禁断症状は出るだろうが、我慢である。

…それと同じである。「情報」という身体感覚が麻痺してしまった現代人への処方箋の中身は実は空っぽなのである。つまりヤクを与えないという処方をするしかない。具体的には複数の基準を都合よく往復する自分自身の乖離を隠蔽してしまうのではなく、自覚し、受け止め続け、それについてどうしてゆかねばならないのかを考えることが肝要である。複数の基準を都合よく往復する麻薬的快楽を抑制するのには相当激しい禁断症状を伴うがこれは耐えるしかない。

このようにして麻薬を根底的に身体から洗い流してしまえば「情報」という身体感覚は実に優れた感覚になるはずである。何も我々は動物的な生理学的欲求の復権を唱導しなくともよいのである。

|追記|

「その都度の「現実」が何を自分たちに要請しているのかを敏感に無反省に嗅ぎとっている」というようなくだりがあったかと思う。このように当時は「無反省」というようなことを書いていたと思うが、今では、実際は「自覚しているけれどもそれができない」ということが問題になっていると考えている。「できない」というのにも、「そもそも方法が分からない」というのと「方法はわかるが行動に移せない」という2つのレベルがあるわけで、重篤なのは後者だと思っている。
たとえば「改善方法はわかるけど、この快楽はやめられない」という場合に、「無理して改善しようとしなくてもいいし、快楽は追求してもよいよ。」という理解(=甘やかし方)をするとする。わたしは一方でそれは必要だと思っているのだけれど、所詮はそれは通過点に過ぎないとも思っている。けっしてそれは目的になるようなものでなければ、永続させるようなものでもない。ところが、それこそ世の中の求めるところなのである。

自分を含め長くいろいろな人を見ていると、自分で解決できなかった問題というのは、内容を変えて何度も何度も与えられるものである。常に無理する必要はないにしても、どこかでかならず「絶対的に無理して改善しなければならない」ような局面もある。経験ばかり豊富で経験値が無い、というのはそのような局面で人任せにしているか、または、都合よくやり過ごしているからだと思われる。それを広い意味で「停滞」というのではなかろうか。

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