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2009/09/13 真理の空疎と学問

はじめに

積年、真理の真理性の問題が喉に刺さった骨のように案件となっていた。

「真理を探究するにあたり、ある考えが真理と言うには、ある考えを真理と判定しなければならない。 真理だと判定できるということは、そもそも何が真理なのか分かっていなければならない。 とすると、真理は探究以前に分かっていたことに他ならないため、真理探究は無意味である。」

これでひとまず、真理探究は無意味と結論して案件解決したかのように思われたのだが、 「それでは探究するまでも無く分かっているところの真理とは一体何か?」という問題が顔をのぞかせることとなった。 すると、これは高度の形式性を有した、限りなく意味内容空虚な概念であることに思い至った。 それはどういったものであるのかわかっているが、何であるのかがわからないものなのだ。

かくして「真理を探究するというのはその形式性に合致した内実を探究することなのではないか?」ということで真理探究の見直しを図ることとなった。 そこで問題になってくるのが真理の形式である。ここでは、学問の目的=真理探究として、一般に認知されるところの真理を採用することにした。 論点先取りになるが、これを採用すると、真理の形式性に合致した内実を探究するという真理探究すら無意味なものとなるため、内実探究に真理は限りなく空疎で不要という結論を提出することになった。 (もっとも、真理の形式として他のものを採用すると、違った見解が得られるのかもしれない。)

具体的内実を探究することに真理が空疎だとすると、具体的内実側の探究から一定の法則性がなぜ見出されるのかという問題が表面化する。実際、この法則性という問題が真理という概念を手放しにくくしており、どこかしら真理を実体的に捉えたくなる性癖を生むのである。 もし真理の存在を仮定しておけば、法則性は個別具体的な具体的内実に見出されて当然である。そこで見出される法則性は真理としての法則性である。よってそもそも「なぜ具体的内実側の探究から一定の法則性が…?」という問題が生じえないので万事順調である。
だが、真理という概念を捨て去った上で具体的内実から法則性を取り出すにはどうしたらよいのだろう。筆者は、仰々しく真理を措かずとも、系と対象の共通性から振る舞いの共通性が見出されるという素朴な発想から説明可能なのではないかと思っている。これについては本論では書かないが、あらためてどこかで論ずるつもりである。

それでは、以下本論である。

いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則

「学問の目的は真理の探究である。」というような命題は一般に受け入れられているように思われる。 おそらく「どうして学問しているの?」という質問に対して、「真理探究の為。」といかにもな答えが返ってきたら、ふつうには、そこに疑問を差し挟む余地などないだろう。
また、学問をやっている当の学者ですら、公開公演では真理探究という言葉で学問を修飾するのを好む。本当にそう思っているのかどうかは甚だ疑問だが、いずれにせよ、学問と真理というのは、密接に連関しているものとして受け入れられている。

だが、あらゆる答弁として耐えうるかのような実用性を備えた「真理」という概念は、一体全体何のことを意味しているのだろう。

おそらく、普通には「真理とは普遍性と客観性を有する法則である。」というように考えられているだろう。 そこで、普遍性と客観性というのは一体何だと問われれば、普遍性というのは「いつでもどこでも」ということであり、客観性というの「だれでも」ということでよかろう。 従って、「真理はいつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」と言い換えてもよろしかろう。

なにやら真理についてわかったようなわからないようなだが、ここで注意すべき点は、上に挙げた「真理」は具体的内実に関して言及しているわけではなく、あくまで一般的規定について言及するにとどまっていることである。 我々が「真理」という概念に対して共通了解を有している場合、それは具体的内実のレヴェルではなく一般的規定のレヴェルで共通了解を有しているのである。探し物が何かは分からないが、探し物がどういったものなのかは分かっている場合と同様、真理は何かはわからないが、真理がどういったものなのかはわかっているのである。
そうすると、真理探究という言葉の意義もこの場合は明らかになる。即ち、一般的規定から具体的内実の方向へ向って探究してゆくことを真理探究というのである。それがどういったものかわかっているところから、それが一体何であるのかを探究するのである。そして、その探究の先で、真理の具体的内実に到達できるものと信じているわけである。

ここまでをまとめると、我々は通常、真理を「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」という一般的規定から了解している。そして、一般的規定から具体的内実を探究することを真理探究と考えているのである。

具体的内実を探究することを真理探究として権威付けることは不可能

ところが、私見ではこの真理観は重大なところでミスを犯しているように思われる。 もしこの真理の一般的規定に合致するような具体的内実が存在しないとしたらどうだろう。まず、具体的内実を探究することを真理探究として権威付けることは不可能となるだろう。さらに、真理探究という紋所を失うとなると、無防備にも「学問は一体全体何をやっていることになるのだろう?」という根本的な問題に晒されるだろう。
そして、私見では、まさに真理の一般的規定に合致するような具体的内実は原理的に存在できないのではないかと思われるのである。従って、この真理観においてはそもそも真理探究が成立できないという、真理観の存亡上クリティカルな問題が提出されることになるだろう。

それでは、一体何故そのような見解を出しているのか?それを考えるには、抽象的に論ずる以前に、まずは自分がその真理観に従って、真理を探究するプロセスを考えてみるのが得策である。

というわけで、我々はある対象Aに定位してその具体的内実を探究する研究を行っているものとしよう。我々は、「具体的内実を深めていけば、きっとその先には真理があるに違いない。」と考えており、これまでに対象Aに関して様々な知見を蓄えてきたものとする。
さて、我々はどこまで知見を積み重ねて行けば真理に到達できるのだろう?真理というのは「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」であろうから、この一般的規定に合致した具体的内実の知見に到達すれば、それこそ真理に違いない。
そこで、我々はそのような知見を得ようとあれこれ研究してみた。すると、どうもそれらしい知見を得ることに成功した。これは我々がやった限りでは「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」である。きっと真理に違いない。

いや、しかしである。「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」ということは、やはり言えていないのである。これは「我々がやった限り」の話なのである。

「いつでも」ということを厳密に言おうとするなら無限の過去と無限の未来に於いても成立することが言えなければならない。 「どこでも」ということを厳密に言おうとするなら無限の場所に於いても成立することが言えなければならない。 「だれであっても」ということを厳密に言おうとするなら無限の人に関しても成立することが言えなければならない。

一体全体誰がそのようなことを確認できるというのだろう。いや、これは論理的には確認不能だろう。確認できたものは有限に属するからである。 とすると、どうして「我々がやった限り」を「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する」と言うことができるのだろう?いつかは成立せず、どこかでは成立せず、誰かで成立しない可能性を否定することはできないのだから、それはきっと思い込みである。 我々は厳密には「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する」ことを具体的内実の側から言うことはできないのである。むしろ具体的内実の側は、通常徹底的に個別具体的なはずなのである。よってそれを研究することと「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する」真理の探究は根本的に矛盾しているのである。

冒頭で一般的な真理観を「真理の一般的規定から具体的内実の方向へ向って探究してゆくことを真理探究といい、その探究の先で真理の具体的内実に到達できるものと信じている」と書いた。 しかし、具体的内実の何かを真理と標榜したところで、それがなぜ真理と言えるのかは、探究の意義付けとなった真理の一般的規定(「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」)からは結局担保されていないのである。むしろ真理の一般的規定と個別具体を見る具体的内実の研究は、実は根本的に矛盾しているため、真理の一般的規定に合致するような具体的内実は原理的には存在していないということが提出されるのである。 したがって、当初の危惧どおり、具体的内実を探究することを真理探究として権威付けることは不可能となるのである。

学問の真理への依存構造は「百害あって、あっても一利」

ここまでで、具体的内実を探究することを真理探究として権威付けることは不可能という論を提出した。 ところが、一般には学問の目的を真理探究と位置づける趣もあるだろうから、「はてさて、一体全体学問は何をやっているのかしらん。無意味ぢゃないかしらん。単なる趣味ぢゃないかしらん。おろおろ。」というアイデンティティクライシスに陥るだろう。
しかし、筆者にとっては、学問の真理への依存構造は「百害あって、あっても一利」しかないように思われるので、それは実に喜ばしいことのように思われる。

「あっても一利」というのは、学問をするものに意義を与え、意欲を喚起するというものである。 しかしこれは、学問をする者が学問の意義を考えなくて済む、ということでもあるため、ほとんど空疎な自己啓発に等しい。 したがって、積極的な到達点ではなく、通過点に過ぎない場合において一利あり、である。そうでなければ害でしかないだろう。

「百害」というのは、百数えたわけではないが、「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する法則」という真理観はあまたの害を為すだろう。
具体的な内実を研究して得られるのは、先述の通り、そのような真理ではなく徹底的に個別具体的な知見なのであるが、それを「いつでも、どこでも、だれであったとしても成立する」と思い込むところに所謂「真理」が擬制される。 ということは、その所謂「真理」は適用できない場合もあるはずなのだが、それが所謂「真理」であるが故に我が物顔でまかり通る(時にはまかり通そうとする)場合もあるだろう。とくに問題が表面化するのは、ある価値観に基づく政策を学問的=所謂「真理」的に根拠付け、万事にそれを適用しようとする場合である。それはエスノセントリスム(自民族中心主義)に正当性を付与するものになるだろう。

以上より、筆者にとって学問の真理への依存構造は究極的には弊害でしかないように思われる。 そこでひとまず、真理探究などという仰々しい背伸びは止め、アイデンティティクライシスに陥ることにしよう。 さらに、「学問の目的とは何ぞや」というような物々しい問いを立てることで、真理探究に変わる新たな依存先を探すような真似もしないことにしよう。 むしろまずは、学問は一体何をしているのかを観察してみることにしたい。
この作業は次回に譲るが、そこでは学問がローカルな系において系的対象と系的法則性に関する「工学」を行っていることを肯定的に捉えていくことになるだろう。


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