Review(本文)


2015/03/17
「かぐや姫の物語」-「姫の犯した罪と罰」を大胆に解釈します-

序文

高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」は、2013年の劇場公開時、筆者としては珍しく映画館で鑑賞した作品です。

「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーがついていたものの、作品展開からはその詳細がわかりにくいこともあり、当時、巷間専らの評価対象は映像美であったように記憶しています。 さらに、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」が同年公開されていたこともあり、比較的、世間的な話題性は低かったようにも記憶しています。

趣味の話なので、真面目に受け取っても詮方ないことですが、筆者は「かぐや姫の物語」の方が、「風立ちぬ」より好きなのだと、素朴に表明します。 というのは、「風立ちぬ」に関しては、レビューを書こうと思い立たなかった(つまり、引き受けて考えようと思うものが無かった※)のですが、 「かぐや姫の物語」に関しては、何かを書き残さなければならないと、鑑賞当時から思い続けていたからです。 (※「風立ちぬ」は、筆者にとっては矛盾に対する美の超越性がひたすら開陳されるだけの作品でした。 矛盾が一つの主題とされながらも、美が全てを正当化し、実のところ矛盾はあらかじめ生じないという仕様になっています。おそるべき先進性だ。)

この度、本レビューのタイトルの副題のとおり、「かぐや姫の物語」の文脈を利用して、「姫の犯した罪と罰」を大胆に解釈してみたいと思います。 これはおそらく、高畑勲監督が意図したものとも異なる、突拍子もない解釈です。荒唐無稽との誹りを受けるかもしれませんが、もとより、原作「竹取物語」でも、姫の犯した罪と罰は明示的には示されていません。 バラバラのパーツを、整合化することができる解釈の一例として、展開してみたいと思います。 また、本作を鑑賞した時に感じたこともあわせて、書きとどめておきたいと思います。

目次は次のとおりです。大変長大な文量なので、ポイントのみをお知りになりたい方は、 「2.5.まとめ」をご覧ください。

目次

1.「かぐや姫の物語」とは
2.「姫の犯した罪と罰」を大胆に解釈します
2.1.物語の設定について仮説を導入します
2.2.罪とは「かの地の記憶を思い出させてしまったこと」
2.3.罰とは「罪を犯した姫が自分自身に課した罰」
2.4.物語の設定を俯瞰した時に浮かび上がるもう一つの罰
2.5.まとめ
3.本作を鑑賞した時に感じたこと
3.1.なんて瑞々しい感性なのだろう
3.2.手ごたえのある人生を送ることの難しさ

1.「かぐや姫の物語」とは

「かぐや姫の物語」は、日本の古典作品「竹取物語」を基にした、高畑勲監督作品の長編アニメーションです(2013年劇場公開)。

「かぐや姫の物語」のストーリーラインは、「竹取物語」のストーリーラインを、概ね忠実になぞっています。 「かぐや姫の物語」の特長は、そのストーリーラインに、「竹取物語」では描かれる事がほとんどなかった、かぐや姫の内面描写を丁寧に重ねたという点にあります。

出来事を中心に記載している「竹取物語」から、かぐや姫の内面を開蔵し、これを重層することで「竹取物語」を立体的に解釈するという試みは、ある種の純文学的な古典研究の試みです。 (ここで、芥川龍之介の小説「羅生門」は、「今昔物語集」の「羅城門の上層に上りて死人を見たる盗人の語」を基にして、人間のエゴイズムを浮彫りにしようとした作品であることを思い出しておくと、 妙微かにして味わい深いことでしょう。)

「かぐや姫の物語」は、そのような純文学的な古典研究の試みを、 粗密緩急ある線画、濃淡鋭朧ある彩色による、ある意味極めて「写実的」な表現技法を実装したアニメーションにより、展開しようとした作品と言えます。

2.「姫の犯した罪と罰」を大胆に解釈します

本作には、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーがついていたものの、作品展開からは、何が罪で何が罰なのか腑に落ちなかったというのが、筆者の正直な感想です。 どうやら、地上という穢土(えど:不浄の地)を、月という浄土にいるかぐや姫が希求すること自体が罪であり、かぐや姫はその罪に対する罰として地上に降ろされたというのが、主旨ということらしいです。 (高畑勲監督からそのような旨の発言があり、それが雑誌『ユリイカ』2013年12月号特集「高畑勲 『かぐや姫の物語』の世界」に掲載されているとか。筆者は未読なので、あくまで、「と伝えたるとや」の情報でしかありませんが。)

これが公式見解であるか否かは然程問題ではありません。その解釈を採用した場合、本当にそれは罪に対する罰になっていると言えるのか、筆者には得心がいかないのです。

たとえ話をしてみましょう。死刑を希求する囚人に、死刑を執行することは罰と言えるのでしょうか。言えません。これは死刑囚の願望の実現を幇助しただけです。 では、罰を与えるとはどういったことでしょう。死刑を希求する囚人が、罪の重さを受け止め悔悛し、死刑を希求できなくなってから、死刑を執行する。これが正しい罰の与え方です。

このたとえ話を援用します。流刑地である地上を希求するかぐや姫に、地上への流刑を執行することは罰と言えるのでしょうか。言えません。これはかぐや姫の願望の実現を幇助しただけです。 では、罰を与えるとはどういったことでしょう。流刑地である地上を希求するかぐや姫が、罪の重さを受け止め悔悛し、地上を希求できなくなってから、流刑を執行する。これが正しい罰の与え方です。 なお、かぐや姫は既に流刑の身であるので、この考え方に従うと、地上を希求できないと思うようになってなお、流刑を執行し続けるのが、正しい罰の与え方ということになります。

「かぐや姫の物語」では、顎が実に素敵な帝(御門)によるかぐや姫への過剰なる懸想(セクハラ)が、かぐや姫をして「地上にいたくない」と一瞬でも思わせる引き金となりました。 その後、月人はその願いに基づき、かぐや姫を月に強制送還します。もし、月人がかぐや姫に本当に罰を与える気があるのなら、ここに至ってなお、流刑を執行し続けるべきなのに。。。

故に、少なくともこの解釈だと、物語を整合的に構成できないのではないかという気がします。 したがって、物語を整合的に構成するためには、「姫の犯した罪と罰」について、異なる解釈をする必要があると考えます。 そこで、以下で「姫の犯した罪と罰」を、大胆に解釈していきたいと思います。

2.1.物語の設定について仮説を導入します

「姫の犯した罪と罰」に関して異なる解釈をし、物語を整合的に構成するため、物語の設定について2つの仮説を導入します。 「かぐや姫の物語」の文脈を大きく外れた仮説を導入しても詮方ありませんので、導入する仮説は、「かぐや姫の物語」の文脈から支持できそうなものとし、 あわせて仮説の傍証をしたいと思います。なお、これは高畑勲監督の真の意図を明らかにするというものではありません。 「かぐや姫の物語」という作品の節々から露わになっている素材を用いて、筆者ならどのような創造的解釈をするのかという、別の意図が働いているものとして御理解を頂ければと思います。

【導入する仮説1】
月の都にいたかぐや姫が見たという、地上から月に戻ってきた月人とは、かぐや姫自身だった。

(傍証1)
地上から月に戻ってきた月人が歌っていた「天女の歌」は、その月人の心情が加えられた、地上の「わらべ唄」のアレンジ版です。 地上に降りた、幼少のかぐや姫は、「わらべ唄」を聞き、そこから「天女の歌」を続けて歌い、意図せず涙を流します。

そこで気になるのは、「わらべ唄」はどこでも普遍的に歌われていた唄なのかということです。 地域によって特色がありそうなものですが、地上から月に戻ってきた月人とかぐや姫が聞いた「わらべ唄」は、かなりの程度、同一性を保持していたものであると推察されます。 勿論、「わらべ唄」は、旅の者等のまれびとが口伝したことによって、地域差はあまりなく、当時日本に降りればどこでも聞くことができた唄という解釈や、 月に戻ってきた月人とかぐや姫が下りた地上は同一地域だったので、同じ「わらべ唄」を聞いたという解釈も可能です。 しかし、前者については、そうは言ってもやはり全国規模に伝わるとは考えにくいですし、 後者については、もし同一地域にかぐや姫以前に月人が降りているのなら、その地域の民間伝承にでもなっていそうですが、そのような様子がないことを考慮すると、可能性は高くないと考えられます。 それ故、かぐや姫は、「わらべ唄」を基にして将来の自分自身がアレンジした「天女の歌」を聞いていたからこそ、地上の「わらべ唄」を知っていたという解釈をしてもよいのではないかと考えます。

(傍証2)
「かぐや姫の物語」のラストシーンに、正直、一見するに意味不明な演出があります。 かぐや姫を車に乗せ、月に戻りゆく一団が遠方に消尽しきったところで、赤子のかぐや姫の姿が月の上に重ね合わされるという演出です。

余韻を削ぐので、月の上に何かを重ね合わせるという演出は不要なのではないかと個人的には思いますが、 重ね合わせるにしても、何故成人後のかぐや姫の姿ではなく、赤子のかぐや姫の姿を重ね合わせたのでしょう。 月見をしていて赤子のかぐや姫の姿を重ね合わせる可能性があるのは、竹取の翁と媼ですが、 観賞者は竹取の翁と媼と視点を同一化してこの作品を見ているわけではなく、俯瞰的な視点からこの作品を見ているはずなので、 終の視点として、鑑賞者に対して竹取の翁と媼と視点を同一化するよう要求するのは、作品の演出上かなり無理があります。 それ故、もっと素朴に、この演出は、かぐや姫が地上から月の都に戻った時には、月の都に赤子のかぐや姫が誕生しているということを示唆するものとして、解釈してもよいのではないかと考えます。

【導入する仮説2】
かぐや姫はその生死を繰り返し続けている。

(傍証)
先にも書きましたが、地上に降りた、幼少のかぐや姫は、「わらべ唄」を聞き、そこから「天女の歌」を続けて歌い、意図せず涙を流します。 もし、かぐや姫の生死の流れを直線的なものとして理解するのであれば、この時点のかぐや姫は、この唄を歌っていた月人の涙とその理由に興味があったとしても、 その哀しみをも共有できるはずがありません。なので、「天女の歌」を歌って、意図せず涙を流すのであれば、かぐや姫の生死の流れは円環的なものとして理解するべきです。

(参考)
「天女の歌」の歌詞に、次のような一節があります。

「まわれ めぐれよ めぐれよ はるかなときを めぐってこころをよびかへせ めぐってこころをよびかへせ」

遥かな時をまわりめぐって、心を呼び返せと言われているのは、一体誰でしょうか。 言うまでもなく、「天女の歌」の詠み手自身です。ここで、仮説1に基づいてよいとするなら、「天女の歌」の詠み手はかぐや姫ということになるので、 かぐや姫は、心を呼び返すために遥かな時をまわりめぐっていると、解釈することが可能です。

2.2.罪とは「かの地の記憶を思い出させてしまったこと」

以降、上述の仮説1(月の都にいたかぐや姫が見たという、地上から月に戻ってきた月人とは、かぐや姫自身だった。)と、 仮説2(かぐや姫はその生死を繰り返し続けている。)が成立しているものとして話を組み立てつつ、解釈を進めたいと思います。

かぐや姫は、地上から月に戻ってきた月人(他ならぬ将来の自分自身)が、「天女の歌」を歌った後、 涙を流しているのを見て、何故涙を流すのか、地上とはどんなところなのかということについて、興味を抱きます。

興味を抱いたかぐや姫は、興味を抱いたことを以て、たちまちのうちに罪を被ったことになり、 その罰として地上へ流刑されたのでしょうか。先に述べたとおり、この構図では、かぐや姫の願望の実現を幇助するだけになってしまうので、展開としては性急です。 それ故、もう少し丁寧に話を組み立てる必要があると思われます。

興味を持ったら、まず何をしようとするでしょうか。いきなり地上に行こうとするでしょうか。 普通は、その月人から話を聞こうとするのが、自然な展開だと思われます。なので、以降はこれに従うこととします。

かぐや姫はその月人から地上の話を聞こうとしますが、どうやらその月人は、天の羽衣を身に付けたことで、 地上にいた時の記憶や感情を、少なくとも意識的には、思い出すことができない状態にあるということを知るに至ります。

さて、かぐや姫はこの時点で、地上に行こうとするでしょうか。ひょっとしたら、行こうとするかもしれません。 しかしこれでは、何が罪で何が罰なのかよくわからないけれど、地上に降りるという不思議な展開になってしまいます。

そこで、次の考えが浮上してきます。記憶や感情を消せるのであれば、記憶や感情を呼び戻すこともできるのではないか。 そして、実際にかぐや姫は、その月人の地上での記憶を思い出させてしまったのではないか。

もし、かぐや姫が、地上での記憶を思い出させてしまったとすると、その行為は罪深いと言わざるを得ません。 その月人は地上に戻ることができないので、月で永遠に苦悩することになってしまうからです。 そのような状況で、その月人はどのような行動を選択するでしょうか。おそらく、自死するより他はないでしょう。

以上より、かぐや姫が犯した罪とは、地上から月に戻ってきた月人に「かの地の記憶を思い出させてしまったこと」であると導出します。 一層正確に言い換えると、かぐや姫が犯した罪とは、「地上から月に戻ってきたかぐや姫自身にかの地の記憶を思い出させてしまい、結果その自死を導いてしまったこと」であると導出します。

(ちなみに、「地上のことを知りたいと思ってしまったことが罪」というのは、短絡的な表現ではあるけれども、ここまで至れば間違ってはいません。 かぐや姫が「地上のことを知りたい」と思わなければ、月人(という自分自身)にかの地の記憶を思い出させてしまうことはなかったことでしょうに。)

2.3.罰とは「罪を犯した姫が自分自身に課した罰」

かぐや姫が、月人(という自分自身)にかの地の記憶を思い出させてしまったとすると、この2人の間にはどのようなやり取りがあったと考えられるでしょうか。

推測です。記憶を取り戻したかぐや姫は、幼い自分自身に対する第一声としては、 「地上に降りてはいけません。私のように苦悩することになってしまいます。」と、強いて自重するように求めるのではないでしょうか。 次のような殺し文句を使って。「何故なら、わたしはあなたの将来の姿だからです。」と。

しかし、第二声としては、「しかし、前世の宿縁もあるかもしれません。もし、かの地に降りることがあれば、決して月には戻ってはいけません。」と伝えるのではないでしょうか。 「天女の歌」を伴いながら。

まわれ めぐれよ めぐれよ はるかなときを
めぐってこころをよびかへせ めぐってこころをよびかへせ
とり むし けもの くさ き はな
ひとのなさけを はぐくみて
まつとしきかば いまかへりこん

その後、かの地の記憶を取り戻したかぐや姫は、月で永遠に苦悩することを儚み、自死を選びます。

幼いかぐや姫は、自分がかの地の記憶を思い出させてしまったせいだと、自責の念に駆られることでしょう。 この罪を償うためには、どうしたらよいでしょうか。きっと、自分自身が自死しないようにするためには、どうしたらよいかということを考えるのではないでしょうか。

自分自身の自死を回避する方法は2つあります。「地上には行かない」という方法。または、「地上に行ったまま月には帰らない」という方法。

かぐや姫はどちらを選ぶでしょうか。もとより地上に興味を持っていたかぐや姫は、好奇心には勝てなかったのではないかと思います。 つまり、犯した罪に対する贖罪をするため、「地上に行ったまま月には帰らない」ということを、罰として自分自身に課すのではないでしょうか。

かぐや姫の罰は、かぐや姫自身が課した罰というのは、突拍子もない発想と思われるかもしれません。 しかし、罰として地上への流刑に処するということが、月人の刑の執行者によって課せられた罰であると考える方が、論理的に見て困難に直面します。

再びたとえ話です。罪人を流刑に処する都合、刑の執行者が、流刑地に豪奢な金品や衣服を送ることはあるでしょうか。 流刑地が快適なところになってしまっては、最早バカンスです。ありえません。流刑の正しい執行方法は、「助けもしないし、殺しもしない」ということです。

このたとえ話を援用します。かぐや姫を地上への流刑に処する都合、刑の執行者である月人が、地上に豪奢な金品や衣服を送ることはあるでしょうか。 流刑地が快適なところになってしまっては、最早バカンスです。ありえません。流刑の正しい執行方法は、「助けもしないし、殺しもしない」ということです。

ところが「かぐや姫の物語」では、月人は、竹取の翁を介してかぐや姫に対し、金品や高級な反物といった極めて豪奢な物的支援をします。 ということは、月人の認識としては、かぐや姫は地上への流刑に処するような罪人ではないということではないでしょうか。

犯した罪に対する贖罪をするため、「地上に行ったまま月には帰らない」ということを、罰として自分自身に課したいかぐや姫と、「その必要はない」と考えている月人。 かぐや姫が地上に降り立つためには、月人を説得をする必要があります。それではどのようにして譲歩を引き出したらよいでしょうか。 そこで、想定される問答を、次のとおり組み上げてみました。

(かぐや姫)自分が犯した罪に対する贖罪をするために、地上で生を全うすることを、罰として自分自身に課したいと考えています。そうすれば、自身の死を自分が招かなくて済みます。
(月人)地上は不浄の地です。月人であるあなたが赴けば、その穢れ故に、地上に居続けることはできないと思うはずです。 もとより、深き宿業があったのか、今回の件は大変心が痛む出来事でしたが、あなたがそのことをもって罪の意識を感じ、その罰として地上に赴く必要はないと考えています。
(かぐや姫)それでは私の心がおさまりません。私の心は自責の念によって押しつぶされそうで、月という浄土にありながら、もはや苦悩で穢れてしまっています。
(月人)それでは仕方がありません。地上に赴くことを認めます。あなたが自分自身に課した罪を贖うことができるよう、地上で煩瑣な苦悩をしなくて済むように、できるかぎり支援をしたいと思います。 ただし、もし、あなたが地上の穢れ故に、地上にいたくないと強く念ずることがあれば、地上の記憶や罪の記憶を消し、月人としてふさわしい状態にしてから、あなたを月に連れ戻します。
(かぐや姫)ご配慮、痛み入ります。

このような問答があった上で、ようやくかぐや姫が地上に赴けたのだとすると、 「かぐや姫の物語」の作中において、月人がかぐや姫に対して物的支援を行っていること、 かぐや姫の「この地で獣のように生きなければならなかった」という旨の発言には強い義務感が漂っていること、 某顎が素敵な方のセクハラ行為によって、かぐや姫が地上にいたくないと強く念じてしまったことが、即、かぐや姫の月への強制送還に繋がってしまうことを、 上手に説明することができます。

以上より、かぐや姫の罰とは、「かぐや姫が、自身の犯した罪に対する贖罪をするために、地上で生を全うすることを、自分自身に課した罰」であると、導出したいと思います。

(追補)
月人がかぐや姫に対して物的支援を行っているのは、かぐや姫が地上で罪を贖うことができるよう煩瑣な苦悩をしなくて済むように、善意で支援をしているのだとすると、これは悲劇です。 結果、かぐや姫が地上で望むような生き方を生きれなくなり、地上にいたくないと思ってしまう=月に強制送還される=地上で罪を贖うことができない=苦悩による自死に繋がることになるわけですから。 また、かぐや姫が贖罪をしようとする行為そのものが原因となり、当の贖罪をしなければならない罪を結果として生み出してしまうことになるので、厳密な意味で、ギリシャ悲劇的な悲劇ということになります。

2.4.物語の設定を俯瞰した時に浮かび上がるもう一つの罰

ここまでで、物語の設定について、仮説を設定し、細かく背景を組み上げ、「かぐや姫が犯した罪と罰」を解釈、導出してみました。 ここでは、物語の設定を俯瞰した時に浮かび上がるもう一つの罰について、簡単に書きとどめておきたいと思います。

かぐや姫はその生死を繰り返し続けており、かぐや姫が贖罪をしようとする行為そのものが原因となり、当の贖罪をしなければならない罪を結果として生み出してしまうのであれば、 その因果は系として閉じてしまっています。つまり、輪廻に変化はなく、かぐや姫は、永劫、真の意味で浄土を生きることができません。 これについては、仏法上の罰を受けているという解釈をすることができます。

2.5.まとめ

以上、大変長大な文量でしたが、読み進めて頂いた方、お疲れ様でした。ポイントをまとめます。

【物語の設定について導入する仮説1】
○月の都にいたかぐや姫が見たという、地上から月に戻ってきた月人とは、かぐや姫自身だった。

【物語の設定について導入する仮説2】
○かぐや姫はその生死を繰り返し続けている。

【かぐや姫が犯した罪とは】
○地上から月に戻ってきたかぐや姫自身に、かの地の記憶を思い出させてしまい、結果その自死を導いてしまった罪

【かぐや姫の罰とは】
○かぐや姫が、自身の犯した罪に対する贖罪をするために、地上で生を全うすることを、自分自身に課した罰
○かぐや姫の輪廻には変化がなく、永劫、真の意味で浄土を生きることができないという、仏法上の罰

3.本作を鑑賞した時に感じたこと

以降は、鑑賞後感想なので、散文みたいなものです。黒糖かりんとうでもポリポリかじりながら、お読みください。

3.1.なんて瑞々しい感性なのだろう

映像美。生命感。噫、なんて瑞々しい感性なのだろうと思いました。

粗密緩急のある線画、濃淡鋭朧のある彩色は、観察的態度を以てして見れば、決して写実的とは言えない表現であるにもかかわらず、 それがまさに、情景として極めて「写実的」であるという、超写実的表現をもって作られたアニメーションが、「かぐや姫の物語」です。 これは、写実であるはずの実写映画では、決して真似をすることができない表現技法であることを鑑みると、 「かぐや姫の物語」は、アニメーションの本質とは何であるかという、ある種の哲学的な問いに対して、アニメーションを以て答えようと試みた、純アニメーション作品と言うことができるでしょう。

筆者も、齢を重ねたとしても、そのような前衛性のある試みができるような人間でありたいものです。

3.2.手ごたえのある人生を送ることの難しさ

地上で手ごたえのある人生を送ることの大切さに心打たれながらも、畢竟味気ない月に戻っていくかぐや姫に、 ふと、映画館で手ごたえのある人生を送ることの大切さに心打たれながらも、映画館を後にすると、また日常に戻っていかざるを得ない自分自身を重ね、 噫、現代社会に生きている我々の困難だなぁ、とため息をついたものです。意図したのかしていないのかわかりませんが、現代社会への批評の目がこの作品にはあるなぁと感じたものです。


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