Review(本文)


2019/08/25
「トイ・ストーリー4」の感想: おもちゃになるもの-おもちゃであるもの-おもちゃでなくなるもの

【注意!】

本レビューは「トイ・ストーリー4」を鑑賞した方を対象としています。ネタバレを前提としていますので、これからご覧になる方であって、あらかじめストーリーを知りたくない方は閲覧をお控えください。 「トイ・ストーリー4」を鑑賞した後、なんかこんなレビューがあったなと思い返すことがあれば、当ウェブページをあらためて探訪していただけますと幸いです。

かつて「トイ・ストーリー」第一作が劇場公開された時、私はアンディとほぼ同年齢でした。劇場で観た後、おそらく当作品を観た人々の例に漏れず、当作品に愛着を抱きました。 それは、魅力的なおもちゃたち(ウッディ&バズ)の友情物語として、素朴で自然な愛着をこども心に与えるものでした。 何回ビデオを観たかわかりません。関連グッズも買ってもらいました。さすがにマッキントッシュのトイ・ストーリーのゲームには手が出せませんでしたが。

その後のトイ・ストーリーシリーズにも深い愛着があります。「おもちゃ」とは何であるかを主題的に取り扱った「トイ・ストーリー2」は、その哲学的なテーマへの回答をエンターテイメントとしてバランスよく成立させており、観た後に心地よい余韻を残すものであると思っています。 また、「トイ・ストーリー3」に対しては、これもおそらく当作品を観た人々の例に漏れず、そのエンディングは意外にして完全なものであると目頭を熱くしたものです。 その展開は意外なものでしたが、「トイ・ストーリー2」で示された「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」という命題からは必然的な帰結とも言えます。その命題によってもたらされるアンディのほろ苦い想い、おもちゃたちの矜持、ボニーの喜びがバランスよく成立しており、シナリオから魅せ方に至るまで真に考え抜かれた傑作であると思っています。

したがって、「トイ・ストーリー4」が製作されていることを知った際、一体何をテーマにし得るのだろうと思いました。トイ・ストーリーは3で完結しているのだから、それ以上を描くことはシナリオ的に難しくないかと思いました。 公開が近づくにつれて、4ではボー・ピープが出てくることと、ウッディが何かの決断をすることが宣伝内容として出てきました。その時点で私が立てた仮説は以下のようなものでした。

「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」との命題がトイ・ストーリーシリーズを貫いているのだとする。「トイ・ストーリー4」ではボー・ピープとウッディが再会するらしい。両者は相思相愛であることがこれまでにほのめかされてきたが、ウッディは「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」との命題に従い、ボニーのところに戻ることを決断するはずだ。 それを「決断」と言うためには、ボー・ピープと一緒にいたい又はボニーのところには戻りたくないという観点から、綿密なドラマを描かなければならない。そのドラマの成否が本作の成否を決めるのだろう。

この仮説が正しいかを検証するため、劇場に足を運びました。その検証結果は散々なもので、結果だけを言えば、ウッディはボニーのところには戻らず、ボー・ピープと一緒に迷子のおもちゃになることを決断しました。

私の隣の席の少年が「えっ、マジで?」と声を上げていましたが、「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」との命題がトイ・ストーリーシリーズを貫いていると思って観ていた人々は、このラストを唐突なものとして受け取り、違和感を表明したことだろうと思います。 他方、自分のことは自分で決めるという生き方に強い想いを抱いている人々にとっては、ある種の「let it go」的なラストを好ましいものだと受け取り、現代的な時世に適った居心地の良さを表明したことだろうと思います。 つまり、「トイ・ストーリー4」の評価は次のように分かれるのが基本だと考えられます。

「トイ・ストーリー4」を単独で観た人々にとっては、時世に適った自然な作品
トイ・ストーリーシリーズを観てきた人々にとっては、伝統を無視した不自然な作品(ただし、伝統より時世を優先する者にとっては、不自然だけれども評価すべき作品)

この記事で私が試みたいのは、上記の2つとは違う見方を提案することです。つまり、「トイ・ストーリー4」は、その伝統の極限から見えてくるある種の自然を示した作品であるという見方を提案してみたいと考えています。 このことによって、特に「トイ・ストーリー4」のラストが必然的な帰結であること、つまり、ウッディは「迷子」になること以外にあり得ないことを示してみたいと思っています。

目次

1.定義され、その役割を演じるもの物としての「おもちゃ」たち
2.「おもちゃになるもの-おもちゃであるもの-おもちゃでなくなるもの」のドラマ
3.「内なる声」
4.ウッディの「内なる声」は誰のどんな声なのか
5.ウッディの「内なる声」の解釈に関する傍証
6.空転するウッディの「内なる声」とその帰結
7.おまけ(雑記)

1.定義され、その役割を演じる物としての「おもちゃ」たち

トイ・ストーリーシリーズでは、「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」という命題が貫かれてきたと考えられ、おもちゃたちがその命題に対して忠実であることが、ドラマをもたらしてきました。 しかし、その「おもちゃ」というのは、いつから「おもちゃ」だったのでしょう。フォーキーの存在が、おもちゃであること、そして物とはどのようなものなのかについて、重要な示唆を与えています。

フォーキーは、使い捨て用先割れスプーンをもとに、ボニーによって生み出された「おもちゃ」です。 しかし、フォーキーは自らを「ゴミ」と称し、ゴミ箱への身投げを試みます。ウッディはそれを止めようとし、君はボニーにとって大切な「おもちゃ」なんだと諭しますが、その努力も虚しく、フォーキーはゴミ箱への身投げを何度も試みます。

この、一見すると面倒くさいやりとりは、極めて重要な命題を示唆しています。「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という命題です。

フォーキーは、使い捨て用先割れスプーンです。その意味では、フォーキーは自分の定義に忠実な振る舞いをしています。既に使われてしまった(と考えられる)以上、使い捨て用先割れスプーンはゴミになります。 使い捨て用先割れスプーンとしての定義に照らし合わせて考えると、フォーキーが自らのことを「ゴミ」と称し、ゴミ箱への身投げを何度も試みるのは当然です。しかし、ボニーは使い捨て用先割れスプーンに「おもちゃ」という定義を与えてしまいました。 フォーキーは「ボニーのゴミ」という理解で一端状況を受け止めて、最終的にはボニーの「おもちゃ」になります。

物は、それが生まれた時の目的としての定義とは別に、人による取り扱われ方としての定義を受けます。そのいずれの定義であっても、物は忠実にその役割を演じることが示されています。 フォーキーの場合は、おもちゃではなかったものが、「おもちゃ」になり、「おもちゃ」としての役割を演じ始めたケースということになります。

この考え方を一般的に広げてみると、おもちゃたちには、定義によっておもちゃになるものと、もともとの定義がおもちゃであるものが存在することになります。そして、そのいずれもが、定義によっておもちゃでなくなる可能性があるということになります。 そして、トイ・ストーリーシリーズで貫かれてきたと考えられる「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」という命題は、「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という一般的な命題の中に含まれる、個別的な命題の一つであるとも言えます。

2.「おもちゃになるもの-おもちゃであるもの-おもちゃでなくなるもの」のドラマ

「おもちゃになるもの-おもちゃであるもの-おもちゃでなくなるもの」という枠組みで、「トイ・ストーリー4」の主要なキャラクターを分類すると、以下のようになると考えられます。

<おもちゃになるもの>
フォーキー、ハム(※元々貯金箱)

<おもちゃであるもの>
バズ、ジェシー、ドーリーをはじめとするボニー家のおもちゃたち(ハムを除く)、ギャビー・ギャビー、ダッキー&バニー、「Yes I Canada」のおもちゃをはじめとする道中のおもちゃたち

<おもちゃでなくなるもの>
ウッディ、ボー・ピープ(※元々照明。それがおもちゃになり、その後おもちゃでなくなったもの)

従来のトイ・ストーリーシリーズは、「おもちゃであるもの」を主題的に取り扱ってきました。 しかし、「トイ・ストーリー4」は従来目が配られてこなかったものにも目を向けて、「おもちゃになるもの-おもちゃであるもの-おもちゃでなくなるもの」の全てを主題的に取り扱っています。 つまり、「おもちゃになるもの」としてはフォーキー、「おもちゃであるもの」としてはギャビー・ギャビー、「おもちゃでなくなるもの」としてはウッディのドラマが相当します。 (これらのおもちゃのあり方の全体こそが、本当のおもちゃの物語であるという理解をするのであれば、映画宣伝ポスターの「あなたはまだ本当のトイ・ストーリーを知らない」というセールスコピーは、厳密な意味で正しいと言えます。)

さて、フォーキーのドラマは、振る舞いこそはコミカルなものではありますが、「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という命題を示唆するだけではなく、「なんで生きてるんだっけ」というフォーキーの相方の問いかけで閉じられているように、極めて哲学的なものです。 このドラマは「おもちゃになるもの」(フォーキー)の裏面として、「おもちゃでなくなるもの」(ウッディ)が存在することを理解するための補助線としても機能しています。

ギャビーギャビーのドラマは、「トイ・ストーリー4」における厳密な意味でのトイ・ストーリーです。 「ウッディのボイス・ボックスを奪うなんてケシカラン」という印象が先行しがちな彼女かもしれませんが、彼女はおもちゃとして純粋な存在です。 彼女は、悪意によって悪を為すというわかりやすい悪役ではありません。彼女の行為の暴力性は意図の純粋性に由来しています。 彼女は、自身と少女が友達になる内容の絵本(Gabby Gabby-let's be friends-)を読んでは、友達になるための練習を積み重ねているように、忠実にその役割を演じることを夢見ているだけなのです。
ボイス・ボックスの初期不良によっておもちゃとして顧みられなかっただけではなく、ずっと友達になりたかった少女(ハーモニー)からおもちゃとして選ばれなかった彼女が、 ドラマの終局に及んで、迷子のこどもに大事に抱きかかえられるシーンは、トイ・ストーリーシリーズで貫かれてきたと考えられる「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」という命題に忠実です。 そして、「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」と思ってトイ・ストーリーシリーズを観てきた人であって、彼女の暴力性を純粋性の裏面として受け取った人にとっては、「トイ・ストーリー4」の中で最もドラマティックなシーンとして映ったのではないかと思われます。

それでは、ウッディのドラマは、どのように理解できるでしょうか。 「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」という定義をのりこえて新しい世界へ旅立ったことから、一般的には、自己決定の大切さを示す現代的な「let it go」的なメッセージを伝えるドラマだと受け止められるのではないかと思います。
しかし、ここで私が示してみたいのは、時世の良識に反して、ウッディは全く自己決定をしていないということです。「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という命題の範囲から、ウッディは決して逸脱していません。 むしろ、純粋にその役割を演じようとするからこそ、ボニーのもとを離れることは必然的な帰結だったと考えられるのです。

3.「内なる声」

ウッディのドラマを理解する際に、重要な概念となるのは「内なる声」です。

「内なる声」は、どちらかと言うと、本作のバズの行動をコミカルに規定するものとしての印象が強いと思います。 本作のバズは判断を求められた際、そのつど自身の胸に問いかけます。正確には、胸にあるボイス・ボックスのボタンに問いかけ、再生された音声から何をなすべきか啓示を受けます。 「流星群だ!」という音声が出れば空を見上げ、「任務完了」という音声が出ればためらいがあってもその場から身を引くといったものです。

バズの行動との関係で印象深い「内なる声」ではありますが、もともとは、バズのウッディへの神妙な問いかけをきっかけに、主題的に出てくるものです。 ゴミ箱への身投げを繰り返すフォーキーを徹底して見守ろうとするウッディに対して、なぜそこまでしているのかをバズは問いかけます。ウッディはこれを「内なる声」と表現します。

このやりとりは、重要な示唆を与えています。本作のウッディの使命感とその行動は、あらかじめバズにとっては理解を超えるものだったということです。 このことは、ウッディには固有で特別な「内なる声」があることと、本作のバズはあらかじめ、ウッディの使命感とその行動が正しいものなのかを自覚的に判別できないことも示唆しています。

本作のバズが、胸にあるボイス・ボックスのボタンに問いかけ、再生された音声から何をなすべきか啓示を受けていることは、一見するとコミカルです。また、内なる声に従ってばかりで何も考えてないように見えるとの受け止めもあるかもしれません。 しかし、これはもともとの定義がおもちゃであり、そして現に「おもちゃであるもの」としてのバズの悲痛な限界状況を示しているものなのです。
バズは、ウッディの使命感とその行動が正しいものなのかを自覚的に判別できませんが、現に「おもちゃであるもの」としての自覚があることからこそ、最も純粋におもちゃであるところを究極的な判断のよりどころにしているのです。 それは、おもちゃとして以外の用途がないと考えられる機能であり、それこそが、ボイス・ボックスからの再生音声だったということになります。それは「おもちゃであるもの」が発することができる、最も純粋で究極的なおもちゃの声なのです。

4.ウッディの「内なる声」は誰のどんな声なのか

このように見ると、バズにとっての「内なる声」とは、もともとの定義がおもちゃであり、そして現に「おもちゃであるもの」としての、最も純粋で究極的なおもちゃの声であると言えます。 しかし、物語の佳境、フォーキーの奪還作戦が失敗して仲間に損失が出てもなお、ウッディがフォーキーを助けようとした際に、最も純粋で究極的なおもちゃの声を以てしても「任務完了」を連呼せざるを得ない程に、ウッディの使命感と行動はバズの理解を超えてしまいます。 また、ボー・ピープをはじめ、フォーキーの奪還作戦に参加したメンバーは誰もウッディについていこうとしません。
このことは、ウッディには固有で特別な「内なる声」があるだけではなく、それはおもちゃとしての究極を超えたところで、ウッディを規定していることを意味しています。

これは極めて重要なことです。「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という命題に立ち返って考えてみましょう。 ウッディには「おもちゃであるもの」としての定義があり、ウッディ自身も「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」ことを自覚しています。 しかし、ウッディにはこれを超えた特別な定義もあり、その定義=「内なる声」こそがウッディの使命感とその行動に根拠を与えるものになっています。 つまり、バズとは異なり、ウッディにとっては「おもちゃであるもの」としての定義よりも、それを超えた特別な定義こそが本質的だったということを意味します。

ウッディに特別な定義を与えたのは誰でしょうか。言うまでもありません。ウッディを最も大切にしてきたのはアンディです。 では、アンディはウッディにどんな定義を与えたのでしょうか。これについては、「トイ・ストーリー3」でのアンディとの別れのシーンから本質的なものを2つ取り出すことができます。

1つ目は「ウッディは決して仲間を見捨てない。」という定義です。「トイ・ストーリー3」までの一連のシリーズを通じて、ウッディは仲間を決して見捨てようとはしませんでした。 仲間と仲間の間で引き裂かれそうになることはありましたが、それはまさに、ウッディが仲間を決して見捨てようとしないこととの裏返しの関係にあります。
しかし、アンディが「ウッディは決して仲間を見捨てない。」とボニーに紹介できるのは、ウッディの行動を見たからではありません。動いている姿を人に見せることは、おもちゃとしてはルール違反です。 とすると、事実はその逆であって、アンディこそが「ウッディは決して仲間を見捨てない。」という定義をウッディに与えたのでなければなりません。だから、ウッディはその定義に忠実に、その役割を演じているのです。

2つ目は「相棒」という定義です。これは、明示的にアンディが紹介した内容ではありませんが、ウッディはアンディのことを「相棒」と呼び、別れを告げていることから暗示されます。 アンディが、「相棒」としてウッディと対等に接していたのでなければ、ウッディはアンディのことを「相棒」とは呼べないはずだからです。
この定義はアンディと対話する存在としてウッディが位置づけられていることを意味しており、その限りでは、ウッディ(おもちゃ)はアンディ(人間)と同格です。 つまり、ウッディには、単に「おもちゃであるもの」ということを超えた特別な定義がアンディによって与えられていたということになります。

以上から、ウッディの「内なる声」とは「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない。」というものであり、ウッディにとっては「おもちゃであるもの」としての定義を超えた本質的な定義だったのだと考えられます。

5.ウッディの「内なる声」の解釈に関する傍証

ウッディの「内なる声」が「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない。」だと考えられることについて、「トイ・ストーリー4」の内容に基づいていくつか傍証してみます。

まず、「決して仲間を見捨てない。」は「トイ・ストーリー4」でも健在です。ゴミ箱への身投げを繰り返すフォーキーを徹底して見守ろうとするウッディの使命感とその行動は、「決して仲間を見捨てない。」から自然に導き出されます。

次に、「アンディの相棒として」の方です。ウッディとフォーキーが夜道を歩きながら会話をしているシーンで、ウッディはボニーのことをアンディと言い間違えてしまいます。 ボニーのおもちゃであるにもかかわらず、自然とアンディのことを口に出してしまう程、ウッディにとってはアンディが大切な存在であり続けています。

そして、「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない。」という全体をうかがい知ることができるのが、フォーキーの奪還作戦が失敗した時のシーンです。 フォーキーを助けようとするウッディの使命感と行動は、ウッディ以外のメンバーには常軌を逸しているように思われ、なぜそこまでこだわるのかをボーピープはウッディに問いかけます。 ウッディは「忠誠心」と答え、「これしか残されていない」とも付け加えます。

この、今一つ要領を得ない回答は、誰への「忠誠心」なのかをはっきりさせることで、途端に色鮮やかなものになります。 ボニーでしょうか。いいえ。ボニーへの「忠誠心」として理解すると、ボニーのことをアンディと言い間違えてしまったことや、その後、ボニーのもとを勝手に離れてしまうことに照らし合わせて考えると、随分都合のいい「忠誠心」ということになってしまいます。
そこで、アンディへの「忠誠心」として理解してみます。そうすると、決して仲間を見捨てないことこそが、アンディの相棒としての務めであることが明瞭に見えてきます。 そして、ウッディにとっては、定義の上ではアンディへと通じている道であり、象徴的にアンディと一緒にいることができる、唯一の方法だということになります。このように理解すると、ウッディがフォーキーの奪還にこだわるのは物の道理だと言えます。

6.空転するウッディの「内なる声」とその帰結

以上で見てきたように、ウッディには「おもちゃであるもの」としての定義と、アンディが与えた「内なる声」、つまり「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない。」という定義があると考えられます。

「トイ・ストーリー4」では、ボニーはウッディとそれほど遊んでいないことから、ウッディにとって「おもちゃであるもの」としての定義は揺らいでいます。 他方、アンディが与えた定義は、アンディが不在となってしまった「トイ・ストーリー4」でもなお、「内なる声」としてウッディを規定し続けています。 もはや対応する状況が存在しないという意味で、空転している定義であるにもかかわらず、ウッディにとっては本質的なものとして機能しているのです。

アンディが与えた定義は、いつから空転した定義になったのでしょうか。実は「トイ・ストーリー3」で、アンディからボニーに手渡された瞬間からです。 ボニーのところに渡ったとしても、アンディの相棒として定義されている以上は、ウッディはアンディの相棒としての役割に忠実であろうとします。

もっと言うと、ボニーのところに渡るというウッディの決定そのものは、「おもちゃであるもの」としての定義だけではなく、「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない」というアンディが与えた定義に忠実だったからこそ、ねじれた形で出てくるものです。 ウッディが以下のように考えたかどうかはわかりませんが、彼が与えられている定義に沿うと、ウッディの思考の足跡は以下のように再現できると考えられます。

① 「おもちゃであるもの」としては、「こどもと遊ぶ物がおもちゃである」。バズやジェシーたちは、アンディ家の屋根裏部屋に押し込まれているより、こども(ボニー)と遊ぶ方がよい。
② 「おもちゃであるもの」としては、ウッディもこども(ボニー)と遊ぶ方がよい。
③ しかし、ウッディは「アンディの相棒」である。アンディがこどもであるか大人であるかは関係なく、ウッディは「アンディの相棒」だ。アンディはウッディを連れて行こうとしているのだから、ウッディはアンディと行くべきだ。
④ しかし、ウッディは「決して仲間を見捨てない」。バズやジェシーたちを見捨てるべきではない。
⑤ 「おもちゃであるもの」としてはこども(ボニー)と遊ぶ方がよく、「決して仲間を見捨てない」からもバズやジェシーたちを見捨てるべきではない。とすると、ウッディはこども(ボニー)のところに行くべきではないか。
⑥ ウッディは「アンディの相棒」である。だからこそ、アンディはきっと相棒であるウッディの決定を尊重してくれるはずだ。

このように考えると、「おもちゃであるもの」としての定義とアンディが与えた定義の間でウッディは引き裂かれることがなく、すべての定義を満たすことができます。

アンディが与えた定義を維持したままウッディはボニーのところに渡ることから、ウッディはボニーのところに渡ったとしても、その前後一貫してアンディの相棒です。 つまり、ウッディの居場所はボニーのところではあり得ないのであり、ウッディは、ボニーに手渡された瞬間に定義上の「迷子」になってしまっています。 アンディが与えた定義に忠実であるが故に、アンディが与えた定義の迷子になるという、物の道理としての悲劇がここにはあります。

その意味では、ウッディにとって「おもちゃであるもの」としての定義が揺らいでしまうと、ボニーのところにいる必然性はなく、むしろボニーのところから離れていくことが必然的な帰結だということになります。 「おもちゃであるもの」としてのウッディは、まさに「おもちゃでないもの」になりますが、それは、あらかじめ与えられていた競合的な定義の方が優勢になったからです。 このように、「物とは、定義され、その役割を演じる物である。」という命題の範囲から、ウッディは決して逸脱していません。純粋にその役割を演じようとするからこそ、ボニーのもとを離れることは必然的な帰結だったと考えられるのです。

では、それは何のために?ボー・ピープの存在は表層的な一つの状況に過ぎません。以上の議論に基づくと、「アンディの相棒として、決して仲間を見捨てない。」という、対応する状況が存在しない命題を満たすためであることが、その本質だと理解しなければなりません。 それは「内なる声」であるが故に、ウッディにとっては非自覚的なものだとしても。

7.おまけ(雑記)

哲学的なヘビーテイストとエンターテイメントとしての面白さのバランスを取るのが難しい作品だったのではないかと思います。

作品が扱っている主題は極めて哲学的なものであり、正直これをむき出しにすると深刻な「Goods-drama(物のドラマ)」を描くことになってしまいます。 大人を対象とした作品であればそれでよいのかもしれませんが、こどもも対象としているのでどうしてもエンターテイメントとしての面白さも求められます。 この求めに対しては、散発的な数多くのコミカル演出で応えていることが理解できますが、やや過剰との印象が拭えません。 その過剰さが「こどもにも配慮していますよー。これはエンターテイメントなんですよー。」という弁明に見えてしまいます。

「トイ・ストーリー2」と比較すると、哲学的なヘビーテイストとエンターテイメントとしての面白さのバランスを取ることが、うまくいっているとは思えません。 しかし、このことは、この作品の主題がそれ以上に難しいものだったということを意味しているのでしょう。


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