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2009/10/12 事づくりの工学

これまでのまとめ

真理の探究というのはもともと真理が分かっていないと何が真理なのかを言う事ができない。そのため、論理的には探究以前に真理が分かっていたのでなければならない。だが、これは本末転倒であるから、真理探究とはそもそも不可能であり、無意味ということになる。

真理の探究が無意味だとすると、探究以前に分かっていた真理は一体何かという問題が生じる。だが、これをよくよく吟味してみると、探究以前に分かっていた真理とは内容的なものではなく形式的なものであることに気が付く。 このようにして、真理に形式と内容の区分を設けることとなったのだが、そうすると、当初無意味と切り捨てた真理探究という概念が息を吹き返す可能性を見出すことができる。 即ち、我々が探究するまでもなく了解しているのは後者の形式であることから、真理の探究とはそのような形式的了解に合致した具体的内実を探究することである、と言うことができるのである。この場合、形式的に了解された真理は、ある具体的内実を真理と判断するための基準として働くわけであるから、まずはそれが一体何であるのかを押さえておかなければならない。

形式的なものとして了解される真理は、最広義には「普遍的で客観的な法則」と言っておけば、普通には異論が提出されないであろう。そして、そのようなものとして想定している方が何かと便利な概念なのである。 例えば、学問の目的を真理の探究と位置づけておけば、学問は強力な存在意義を供給されることであろう。どれぐらい強力なのかと言えば、困ったときには「真理の探究」でお茶を濁しても、とりあえずは無難な効果を見込めるぐらいにはeffectiveなのである。

そこで、真理を「普遍的で客観的な法則」と形式的に了解したとする。すると今度は、それに合致する具体的内実を見出すことができるのか、ということを問う必要がある。ここで「見出すことができる」と結論されれば、万事順調。学問は手放しで真理探究をすることを推奨されて然るべきだろう。あとは、真理性の基準に合致する具体的内容を発見すればよいだけだからである。しかし、もしもそうでなかったら、学問の意義を根本的に考え直さなければならないだろう。

そこで筆者は、抽象的に真理云々するでなく真理探究のプロセスを考えてみることにした。そこでは、探究された具体的内実が「普遍的で客観的な法則」であると判断するにしても、それが本当に「普遍的で客観的な法則」であることの保証は、真理を「普遍的で客観的な法則」と形式的に了解しているところからはどうやっても捻り出せないことを示すことになった(詳しくは2009/09/13 真理の空疎と学問)。ある具体的内実が「普遍的で客観的な法則」であると判断することそれ自体は、不確実性を背景にした多分に思い込みなのである。

かくして、学問は仰々しくも真理の探究を目的にすることはできないと思われる。だからといって、失った存在意義を安直な目的で埋め合わせるのも健全であるとは思われない。故に、まずは焦らず、学問が何をやっているのかを確認するところから始めることにする。洞窟の中で光を照らしたところで一寸先が闇のときは、光を消して闇に慣れた方が見通しはよくなるかもしれない。

学問は何をやっているのか‐例えば、生命科学の探究現場‐

筆者は、どうやら所謂科学者の端くれであり、生命科学をやっているそうなので、まずは自分にとって最もrealityのある生命科学畑を分析してみることにしたい。ここでは、現場を知らずして抽象的に云々し、我が物顔で分かったかのごときを言うようなことは退け、ある課題の探究プロセスを具体的に追うという実務者的観点から、生命科学の探究事情を炙り出すことにしよう。

| 課題 |
生体組織(T; Tissue)において生体分子(M; Molecule)の存在が報告されている。この生体分子Mは、生体が病理的様態(D; Disease)を示しているときにはほぼ検出されないということも報告されている。そこで、生体分子Mがどのような機能を有するのかを探究することにした。

生命科学で生物における生体分子の機能を調べる時には、まず「どのような系を構築するのか?」ということが問題となる。だが、どのような系を構築するのか以前に、系自体にも、(私にとっては本質的に異なるように思われる)2つの種類がある。即ち、in vivo 系とin vitro 系である。

前者in vivo系は、生体実験にあたるものである。例えば、昨今食品市場で蔓延しつつある特定保健用食品は、科学的有意性を以て健康効果が実証された保健機能食品であるが、これは実際にヒト臨床試験で効果があることを実証している。このヒト臨床試験は生体実験そのものであるからin vivo系の実験系である。
後者in vitro系は、「試験管実験」とも言われるが、要は生体系における関連要素を抽象化したモデル実験系だと思えばよろしい。例えば、昨今体細胞から分化全能性のある細胞が作成され、名をば「iPS細胞」として世界中の知るところとなった細胞があるが、樹立技術が確立されれば今度はiPS細胞から目的の細胞を実際に作成することに力が注がれることになるだろう。 その際は、様々な成長因子やサイトカインを「適宜」(もっとも「適宜」が難行難修の苦行そのものの世界なのだが…)培地に添加して、シャーレのなかでiPS細胞を培養して作成することだろう。この分化実験は、生体系に模した状況を整えたモデル系で行っているので、in vitro系の実験系ということになる。

さて、問われているのは「どのような系を構築するのか?」ということであったが、まずは「in vivo系かin vitro系か?」という系自体の選定を行うことになる。生命科学論文の構成を見ていると、in vitro系から出立しin vivo系に至る、という流れが基本であることは容易に見出すことができる。 だが実際には、論文の構成が「in vitro → in vivo」であるからと言って、その順番で実験した保証はない。むしろこれは、どれほどの知見が積み重なっているのかによって変わりうる順番であると思われる。今回は生体分子Mがマクロ的現象である病理状態Dとの関連性を示唆することがわかっているので、in vitro系から進めるのに合理性がある。なぜならin vitro系の結果を病理状態という観点から評価、判断することができるからである。しかし、例えばある物質がマクロ的現象の観点(つまり知覚的観察)から生理活性を示唆するかどうかすら不明の場合は、むしろin vivo系から出立するのが筋である。点描画をいきなり近くで見ても何がなにやら分からない。まず遠くから全体を見て何が描かれているのかを知ってから近くに寄って見ると、青と黄色の点描が緑色の木の葉の構成要素だということがわかるのである。

そういったわけで、今回の課題ではin vitro系をまずは採用することにする。そこで、ようやく「どのような系を構築するのか?」という問題に正面から向き合えるようになるのだが、ここで「系を構築する」ということ自体の問題性が表面化するのに気が付く。そして、性急な物言いをすれば、これはおそらく何も生命科学の領域に限定された問題ではなく、およそあらゆる実証科学の領域で成立する問題であろうと筆者は診断している。

ではどういった問題性であるのか。それは、「系を構築する」というのは「ある観点から系を構築する」ということである。普通には実証科学は事実の学と言われると思うが、その事実探究にはそもそも価値的なものが内在する。だから、そこには都合の良し悪しというものがある。

例えば、今回の課題の場合を考えてみよう。生体分子Mは病理的様態Dにおける組織Tではほとんど検出されていないという事実がある。ということは、生体分子Mの機能はこの事実に整合するように見当付けされるのが普通である。その一例を挙げるなら「生体分子Mは、通常の生理的条件下では、組織Tにおいて病理的様態Dの発症を抑制する。」という見当付けが為されるだろう。「病理的様態D→生体分子M無し」から「生体分子M無し→病理的様態D」を見当したのである。論理的には逆は必ずしも真ではないが、真かもしれないので実験するのである。このようにして、「ある観点から系が構築される」のである。(ハンソンが「観察の理論負荷性」と言うところのものだろう。)

さて、ここではin vitro系で系を構築することを考えていたので、次のような系を構築することにしよう。なお、この時、病理的様態Dに特徴的な指標(I; Indicator)が既知で測定可能だったとする。

|系の概要|
病理的様態Dにある検体の組織Tから細胞を回収して培養する。その際、培養液に生体分子Mを添加するものと添加しないものと群分けする。 これらを適当な期間培養した後、病理的様態Dを特徴付ける指標Iを測定する。

この系で期待される結果は明らかである。生体分子Mを添加した方で指標Iが低減していればよい。だから、実際に実験をしているとき、系を構築するにあたり期待されていた結果が出れば、万々歳のヒャッホッホーイである。そのデータはポジティブなデータであり、早い話が都合のよいデータなのである。一方、期待通りの結果でなければ落々胆でありネガティブなデータとして初めは見なされるだろう。

単に事実の学ならば、所与の事実を淡々とあるがままに記述するものと考えられようものだが、実際には喜んだり落胆しているわけであるから、そこには多分に価値的なものが内在している。そこにはまさに「事実としての都合の良さ」という、本質的には価値判断が伴っている。否、正確には判断というのが既に価値的なのである。

ところで、予想に反してネガティブなデータばかりが蓄積されてきた場合、単純に「生体分子Mは病理的様態Dに対して機能を有さない」と結論する場合もあるだろうが、そうならない場合もある。つまり、実際に観察されたものよりも「事実としての都合の良さ」を優先させて考えを進めようとする場合もある。

今回採用したin vitro系で行う場合はそもそも構築系自体が生理的実在系(in vivo系)に一致しているということが原理的に言えない、という問題がある。厳密に一致というのは無限指標の一致でなければならないが、指標として知られているのは有限指標なので一致を言うのは原理的に不能なのである。従って、そのような不確実性を含んだ生理的実在系を反映できるのは生理的実在系以外にありえないのである。
だからin vitro系でネガティブなデータが蓄積されたところで、まだそこには「事実としての都合の良さ」を優先させるだけの余地が残っている。「ネガティブデータが蓄積されるのは構築した系に問題があるからだ。この系をより(おそらく)生理的実在系に近い形に改善すれば、期待通りの結果が出るはずだ。」という具合にである。もしくは、「指標Iを検出しにくいだけかもしれないから、指標Iを検出しやすいような系を構築しよう。」という場合もあるだろう。(もちろん、体力のあるところならさっさと生理的実在系に切り替えるというのもある。だがこの場合も、都合のよいように検出しやすい系を構築することに変わりはないだろう。)

ここまで来ると、系を構築するというのは意外と恣意的であることが理解されるかと思われる。「事実としての都合の良さ」に基づいて、如何にして「都合のよい事実」を作り出すことができるのかが課題になる。その意味では、ある種の工学を行っているのである。普通には工学といったら物づくり工学のことを言うが、ここでは事づくり工学をやっているのである。

本論の初めの方で、「系を構築する」というのが「ある観点から系を構築する」ということから問題が表面化する、というようなことを書いていたのはこういった事情による。 即ち、学問は客観的真理に到達できないばかりか、ありのままの事実を記述するということすらできないのではないか、ということである。むしろ、学問の側から言えば、学問は「事実としての都合の良さ」にもとづいて、いかにして「都合のよい事実」を作り出すことができるのか、という事つくりの工学を行っているのではないかと思われる。 また、これを学問に携わる人間の側から言えば、主観を排して客観的事実を記述するのではなく、主観的に客観性のある事実をつくっていると言ったほうが的を射ているのではないかと思われる。

まとめ ‐事づくりの工学という地位‐

学問から真理の探究という意義を剥奪した以上、学問は一体何をしているのかが問題になる。 そこで、さしずめ事実をありのままに記述する事実の学というのを想定してみることにする。 事実の学というのは、事実を参照にする学である。事実を参照にする以上、既知の事実に対して整合的な解釈を与えるように務めるということが要請される。つまり、事実に整合するか否か、というレベルでの判断が避けようもなく入ってくる。

ところで、事実の実証研究には何がしかの系を構築する必要があるが、系を構築するというのはある観点から系を構築するということに他ならない。だから、この場合、既知の事実に整合的に接続できるような系を構築することが要請される。

ということは、その系で得られた結果には、事実としての都合の良し悪しが付随していることになる。よって、さしあたっては、事実としての都合の良さに基づいて、都合のよい事実をつくれるかどうかが問題になってくる。 それは事つくりの工学ともいうべきものであり、主観を排して客観的事実を記述するのではなく、主観的に客観的事実を作り出すものなのである。故に、学問は事実をありのままに記述する事実の学というより、事づくりの工学という地位を有するのではないか。


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